第参拾陸話:にんげん 二
「竜弥こそ、良かったのか?」
タバコを取り出し火を点けた馳大は、何をと言わなかった。
だが聞き返す必要はない。誰よりも竜弥が、葛藤していたから。
――あいつのせいで、かくげんさんは燃えてしもうたんじゃ。
あの職員の男に対し、竜弥の思うところなど他になかった。憎々しく感じるのはもちろんだが、あの放火を原因として、かくげんさんは竜弥の中に居る。
話せないのは残念としても、誰も住まない家に放置していて良かったのかと考えもする。
「あの人の放火したんが、偶然あの日じゃなかったら。かくげんさんは、僕の知らんうちに居らんようになっとったかもしれん」
「だから感謝すべきところもあるって? 言っとくが、あれは偶然じゃないぞ」
深く吸ったタバコが、赤く燃える。馳大は腕を伸ばし、まっすぐ竜弥のほうへ突き付けた。
「え。そうなん?」
「あの日だけなら分からんがな。奴は今日も、俺たちがどこへ泊まるか聞いた。ああやってフラフラして、獲物を探してるのさ」
「酷い話じゃね……」
もしもどこかに案内してもらっていたなら、その宿は今晩のうちに炭と化す。もちろんそこには竜弥たちだけでなく、他の客や従業員も居る。
「ああ、酷い話さ。だから彩芽が、反省してるならいいって言ったのも驚いた」
「あら、そんなこと言った? 私は、反省のほうが強いみたいで良かった。と言っただけよ」
どういう意味か察せず、竜弥だけでなく馳大も黙った。しかしおもむろに、吸った煙と共に「ああ」と声があった。
「そういうことか」
「どういうことなん?」
「奴はそのうち、戻ってくるってことさ」
「戻ってくる? ここに?」
「ここ、っていうか。俺たちのところへだな」
あの放火魔が戻ってくる理由など、普通に考えれば存在しない。すると残るは、ていねいの影響だ。
憑いた者の感情を膨れ上がらせる。あの男の表面に出たのは、放火を反省する気持ち。
「目の前に居る被害者へ、謝らずに居られん?」
「だろうな」
自白しかけた想いが、この場を去ったからと消えはすまい。ならば直接謝れる相手に、謝りたくなる。その後は、自首でもするに違いない。
彩芽はそこまで読んで、引き留めなかったようだ。
「竜弥くんがいいなら、私もこれ以上をするつもりはないわ。人間という生き物に、呆れてはいないもの。あの男個人が改める機会くらい、あってもいいと思う」
彩芽が。馳大が。あやかしや仙狐、大鴉という言葉では括れないように。人間という種には、個体数だけの個性がある。
その一つや二つを見ただけで、判断できることなど何もない。
――そうなんかな。
軽率には、肯定も否定もできなかった。竜弥自身、己を善人とは考えていない。派出所の所長たちも、別れてから数時間だ。
「僕には分からんよ」
木場は善人と呼んで不足なかろう。その妻も。
これは間違いないと考えて、また悩む。あの二人について知っているのも、ただの一面に過ぎないと気付いた。
「ええ。分かる、なんて誰にも無理だわ。でも今どうするかは、決めなくちゃいけないの」
「そうだな。俺なんかは迂闊に、気分次第だが」
気分に従う。
それくらいで良いのかもしれない。あるいはどれだけ突き詰めても、結局は他に基準などないのかもしれない。
「うん。僕はもう少し、見てからにしょう思う。あの人が自首でもして、人間の決めた法律で裁かれて。そのときどう思うか、自分の気持ちのほうを知りたいんよ」
これは面倒の先送りだろうか、とも思う。だがあの男をすぐに処断したいと、やはり思えない。
今の自分は間違っている。正す方向も方法も知っている。それでもそちらへ舵を切れない。
そんな想いには、覚えがあった。
「それでいいんじゃないか?」
「ていねいっていう監視役も居るしね」
数分も経てば戻ってくるはず。木場を捜さねばならないが、あの職員も放ってはおけない。その程度を待つのはやむを得まい。
「そういえば。眠っとってどうにもならん、言いよったね」
竜弥の心に眠る、かくげんさん。それに幼いころから彩芽の指摘している、もう一つの人格。ていねいはそのどちらもが、蹴っても叩いても反応しないと言った。
目覚めればどうなるのか知りたくはあるが、同時に怖ろしくもある。何も起こらなかったことで、ほっとしなかったと言えば嘘だ。
「それがおかしいのよ。ばくちが竜弥くんから離れないのは、そのせいで間違いないのに」
断言する彩芽が何を見ているのか、視界が共有できるでなし。証拠はないが、疑いはしない。
ただ、意味するところの理解を深めたくはある。
「間違いないいうて、別人格に興味を持っとるいうこと?」
「ばくちの考えを読めるわけじゃないけど、そうだと思うわ。だから私にも見えない形で、覚醒してると思ったのよ」
ばくちが好物とするのは、我を忘れるほどの強い欲求。竜弥に心当たりのないものだ。
だのに着いてくるというなら、竜弥以外が竜弥の中で欲求を抱えている。もちろんそれは別人格でなく、かくげんさんでも同じ。
「そうじゃねえ――」
納得しつつ、自身の胸や腹を見下ろす。表面的にさえ、見慣れたというほどの景色ではなかった。
ましてやその内など、いくら己のことでも知る由もない。
「そもそも心って、身体の中にあるん?」
想いを抱える場所という意味では、頭かもしれない。しかしメスで切開したとして、これが心ですと取り出せるものでもない。
「そいつが分かれば俺たちがどうやって生まれたかも、はっきりするだろうな」
人の想いが命を持ったのが、あやかし。そうは言われるものの、生まれるところを見た者が居るのか。
人間の生誕ならば、産道を出てきた瞬間から目撃できる。あやかしは周りの誰も気付かぬうちに、そこへ在るのだ。
「分からんことだらけじゃねえ」
「今さらだろ。考えても分からんことは放って、何を食ったらうまいか、何をしたら楽しめるか考えてたほうがよっぽどだ」
ある意味で無責任とも言える馳大の言に、珍しく彩芽も「そうね」と首肯した。何ごとにも限界はあるものだ、と。
「だから当面出来ることをやる、くらいしかないのよ。木場さんを見付けて、みんなで帰って焼き鳥でも食べましょう」
「うん、そうしょう」
あれこれ言った挙句、最初の目的に辿り着く。その道程を無駄とは思わない。
どんな精密に行った作業でも、検算や再チェックは必要なものだ。行えばこそ、やはり正しいと思える。
「そうだな、また鍋屋に行って炭焼きで。今日は疲れたし、芋焼酎でも――」
疲れたから芋焼酎、の関連性は分からなかった。が、途中で馳大の声が消えた理由は分かる。
「この臭い」
「何か燃えているわね」
炭焼きなどと言うものだから、幻臭でもしたのかと思った。けれどもどれだけ鼻を拭っても、焦げ臭さが強まるばかりだ。
「まさかあの野郎――」
馳大が舌打ちしたのは、直感に違いない。聞いた彩芽が、はっと表情を引き締める。
「いけない。ここには、ばくちが着いてきてるんだったわ!」
我を忘れ、自分を抑えきれぬほどの欲求。
ばくちの好む人間が、文字通りの大火を熾そうとしていた。
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