第参拾伍話:にんげん  一

 話を向けられても、頷くことさえ出来ない。目は合うのに返事をしない竜弥に、職員の男は怪訝な表情を浮かべた。


「どうしたん? 具合いでも悪いんかいね」


 ちょっと顔見知り。くらいの相手を前に、口を利かず突っ立ったまま。というのは一般的な態度と言えまい。

 むしろそんな失敬な若者を前に、具合いの心配をした職員が親切と言えよう。いまだ乗車したまま、窓を開けての会話であってもだ。


「いえ、実は――」


 この男に怪しまれたとして、何か問題はあるだろうか。無関係の土地に居るなら通報も止むなしだが、住んでいた老婆の孫は、立派に関係者と言って良かろう。

 理屈はともかく、面倒の起きないほうが良いのも間違いない。答えかけた彩芽は、先に馳大に手を差し出した。


「名刺か?」

「ええ、そう」


 無精ひげのこの男が、そういうきちんとした大人の所持品を携えているとは知らなかった。


 ――名刺って、カメラマンの?

 まさか珈琲屋のではなかろう。しかしカメラマンにしても、どんな理由がこじつけられるのか。


「こちら、ルポライターの深山といいます。私は彼の友人ですが、今回は取材に協力する立場です」

「ルポライター? えぇと、変わった事件なんかを追う記者いうことかいの」


 受け取った名刺を、彩芽は職員に手渡した。ついでに握手を求め、男も応じる。彼女の握手を拒む男など、そうそう居ない。


「まあ、そのようなものです」


 そんな肩書きは初耳だが、名刺があるくらいだからやっているのだろう。

 馳大の生業はどうあれ、彩芽が代わりに挨拶するのは不自然だ。ここまで主に話していたのが彼女だから、職員は怪しまなかったようだけれども。


 ――見た・・んかな?

 彩芽の占い。朴に使う術具は、占われる相手自身。ひと目見れば、大まかなことは分かるそうだ。

 しかしさらに直接触れば、相手が隠そうとしていること、忘れていることでも知れるらしい。

 以前に言っていた通り、知りたいことを指定する必要はあるが。


「ほいでその記者さんが、こがいなところで何をしんさっとってん?」


 こんなところで何をしているのか。誰しも思う、当然の疑問と言える。祖母は平和に住んでいたし、異様な亡くなりかたをしたわけでもない。


「ここで起きた火災。放火だったそうですが、まだ犯人が捕まっていないようですね」

「放火――? ああ、うん。おたくさんらが来ちゃったときは流行っとったんじゃが、あれから数が減りましての」


 ――この人が何か知っとるん?

 今この場に居る言いわけは、何でも良かった。それこそ竜弥をモデルに、写真芸術でも。

 だがあえて、彩芽は唐突に放火の話を持ち出した。職員の男は事情を知らないから信じるかもしれないが、傍で聞く竜弥は驚きが顔に出なかったか心配をした。


「おや、事情に詳しいんですね」


 馳大までが、巻いていないネクタイを締め直す素振りで近付いていった。少しだらしなくもある風体が、そう思って見るとやり手に見えるのは不思議なものだ。


「まあ、役場のもんですけえ」

「ああそうだ、広報車に乗ってらしたわね。広報課なのかしら?」

「いや、あの。住民課ですわ」


 あやかしとしての能力を使わずとも、二人は弁が立つ。そも占い師はそういう職業であるし、カメラマンも営業活動が必須だからだろう。


「住民台帳とか戸籍とか?」

「ええ、儂はその係ですのう」

「じゃああのときは、広報課の応援だったんですね。お仕事熱心で素晴らしいです」

「いやいや、それほどでも」


 具体的で不躾な質問は、馳大。

 職員はたじたじと、冷や汗の飛ぶのが目に見えるようだ。この男もいきなり踏み込んでくるタイプだったが、いまや主導権を奪われている。


「そうそう。それで今、分かったことがありまして。比較として人間が写っていると分かりやすいので、じっとしてもらっていたんですよ」

「あ、ああ。なるほど」


 挨拶も返さぬ理由にはなっていないと思ったが、男は納得した。話し続けるのは面倒と考え、切り上げようとしているのかもしれない。


「勤務時間外でも来訪者の安全に気を配るなんて、素晴らしい職員さんですね。名刺をいただけますか?」


 霧の中をきらきらと星が瞬いたような、彩芽の笑み。警戒していたのだろうに、職員は車内を振り返って名刺を取り出そうとした。

 しかし敵もさる者。「いや」と首を振って、こちらへ向き直る。


「申しわけない。今は持っとりませんわ」

「あら、残念です。ではせめて、お名前を教えてください」

「ああっと。そう褒めて聞かれちゃあ恥ずかしうて、よう言いませんわ。勘弁してつかあさい」


 まず間違いなく、この職員が放火をした犯人なのだ。彩芽はそうと言っていないし、馳大も察して芝居に乗っているだけだ。

 だがそうでないなら、ここまであからさまなことを聞く理由がない。


 ――このまま自白させよう言うんか?

 二人なら出来るのかも。そんな手腕を目撃したことはないが、問題なくこなせそうだ。


 ――やれやれ、どうもなりゃしねえ。

 その時。竜弥の胸の内で、竜弥でない誰かが愚痴を溢した。

 ていねいだ。

 今はまずい。出てくるな。そう思い、抑え込もうとしたが、表層に浮かび上がった、ていねいのほうが強い。


「おい姐さん。あいつら眠ったままで、蹴っても叩いても起きやしない!」


 ていねいが叫ぶ。使った喉は、竜弥のものだ。職員の男からすると、ずっと黙りこくっていた竜弥が、急におかしなことを言い出したとなる。


「えぇと。あの子は何を?」

「んん? さて、寝ぼけちまったのかな」


 立ったまま眠っていたと。見た目に冷静でも、馳大のごまかしには無理がある。彼なりのハードボイルドだろうか。

 他方で彩芽は、一瞬鋭く睨み付けた。が、すぐに微笑む。何か酷く悪質な、悪戯を思い付いた無邪気な子どものように。


「分かったわ、ていねい。もう自由にしていいから、次はここなんてどう?」


 ここ。と目配せは、ジムニーに乗った職員の男を示した。さっさっと数歩を歩いて、囲んでいた包帯を取り去る。


「ありがたい!」


 最後にもう一度叫んで、ていねいは竜弥から出ていった。テニスボールくらいの影が、目に止まるぎりぎりの素早さで空を駆ける。

 前にあったような、靄の晴れた清々しさはない。長らく目障りだった、かさぶたが綺麗に剥げた。精々がそのくらいの気分だ。


「あんたら一体……」


 改めて悪魔の微笑みを見せる彩芽にも、男は不審の視線を向けた。

 さもありなん。竜弥が職員の立ち位置なら、変な人が居るととっくに逃げ出している。

 けれどもすぐ、今度は職員の男に異変が顕れた。


「あの、実は儂が」

「あら、何かしら」


 ていねいは、憑いた人間の感情を膨らませる。男は間違いなく、罪を告白しようとした。つまり悔いる気持ちがあるらしい。


「い、いや。儂はこれで」


 自分の手で口を塞ぎ、職員はジムニーを発進させた。

 まだ支配が行き届いていないのか。それとも男の中でも感情が揺れているのか。オイルの臭いの濃い排気ガスを残し、走り去った。


「行かせて良かったん?」

「ていねいが憑けば、あの男がどう思ってるか知れると思ったのよ。反省のほうが強いみたいで、良かったわ」


 たしかに自身で、最近は放火が減っていると言った。

 やってはいけないと思いつつ、どうしてもやめられない犯人も多いと聞く。あの男もきっとそうなのだ。


「反省が強くなかったらどうしたんだ?」


 出しかけた翼を戻しながら、馳大が問う。彩芽は「そうね」と考える風に首を傾げ、数拍の後に答えた。


「そのときはそのときよ」


 つい先ほど見た、無邪気な笑み。こんなにもすぐ、また見ることになるとは思わなかった。

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