第参拾肆話:あいたい 四
「十中八九、木場さんがばくちに憑かれたのは間違いないわ。だからこの町へ来たのよ」
「でも木場さんは、これって趣味を持っとらんみたいじゃったよ?」
ばくちが好むのは、何か一つにのめり込む人間。その想いを強め、他の全てをないがしろにさせ、自滅させる。
高まった情熱から、絶望の淵へ。極端な落差を味わった感情が、ばくちの好物なのだ。
対して木場はそれなりの趣味を持つようだが、ばくちのお眼鏡に適うほどでない。少なくとも木場の妻が、熱中しているものなど思い付かなかった。
「趣味や嗜好とは限らないわ。我を忘れるほどの何か、であればいいのよ」
「っていうと?」
彩芽の言い分がいまいち理解できず、頭を掻こうとした。だがうまく動かない。操る糸が絡まってでもいるように、意図したのと違うほうへ動く。
「たぶん彼は、やり始めたらとことん突き詰める人なんでしょうね。だからカメラの機材も、拘った物を使い込んでいた」
「うん、まあ。馳大さんも褒めとったし」
必要最低限の物を、使いこなせるように弄くり倒す。それは分かるが、ならば機会を増やすものではないのかと思う。
やはり馳大の言っていた、じっくり考えてから行動するにも限度があるだろう。年に数回、旅行のときくらいというのは、高い熱量でないと感じる。
けれども彩芽が言うならそうなのだろう。
「じゃあやっぱり写真好きなのを、ばくちは気に入ったん?」
「違うと思うわ」
「え、えぇ?」
納得しかけた直後、梯子が外された。
よく彼女は、答えをただ聞くのでなく自分でも考えろと言う。でなければどんな経験も知識も、本当の意味で自分のものにならないと。
この会話も、そういうもののようだ。
「よく考えて。彼は写真を撮るのが好き。結婚する相手とのデートにも、いい被写体のある場所を選ぶくらいに。でも今は、そこまでには見えない。我慢をしているのね」
――好きなことを我慢? 何の為に。やりたいんなら、やりゃあええのに。
剛人たちのしたような、犯罪でないのだ。風景や人物を撮るくらい、対象に断りさえすればいくらでもやればいい。
寝食を忘れ、日が暮れ朝が明けるまで。それほどに打ち込める気持ちなど、到底分からぬ竜弥には羨ましい限りだ。
――いや、それも嘘か。
趣味の、しの字も持たぬ竜弥は、そんな想いの入り口にも立ったことがない。訓用的に熱量などと考えはするが、果たして熱いのか冷たいのかさえ想像の外だった。
「我慢する理由。お金がかかるとか」
「そう思う?」
思わない。カメラの機材は高かろうが、もう揃っている。となれば後は、フィルム代や現像代。
警察官の給与は、地方公務員の基本手当てを示した表でもトップクラス。上を行くのは大学教員くらいのものだ。
既に十年前後の経験を積んだ木場が、ランニングコスト程度に苦労するはずはない。
「うぅん――」
「よく考えてみて」
これが答えでもあるまいし、自分の中にない想いを創造するのは苦しかった。
――でも、何でじゃろう。すごい知りたい思う。
知りたい。解明したい。かつて誰かのことを、自分のことでさえ、そんな風に感じた覚えがあったろうか。
いや、ない。
若蔵竜弥などという、平々凡々とした男に見るべきものはないと。どこか他人ごとのように思っていた。
それは竜弥が自身に向けてだけでなく、第三者に対しても。
友人や恋人。そういう親しい他人を尊いものと知りながら、いざ誰かに認められると思えば、自分を下げて見せた。
でなければ彩芽と馳大に暴言を吐いたまま、二年半も放置しはしない。
百パーセントを超えるほどの確信が、胸に熱い。
「彩芽さん、馳大さん。僕、なんで謝らんかったんじゃろ。ずっと逃げて、どうでもええってないがしろにして。僕は二人と仲良うしたいんよ」
料理屋で。セルボの中で。何度同じようなことを言うのか。今さらにもほどがあると、思われるかもしれない。
だが、言わずに居れなかった。
正真正銘。これが本心だと、誰より竜弥が思えた。
「竜弥、急にどうした?」
案の定で馳大は、鴉が豆鉄砲を喰らった顔をした。
――許してほしいんよ。土下座でもすればええんじゃろうか。どうしたらこの気持ちが伝わるんじゃろうか。
溢れる想いを、胸から抉り出しても見せたかった。己の気持ちを誰かに知ってほしいと、こうまで考えたことはない。
「おい彩芽。どうしたっていうんだ」
「言ったでしょう。彼の中に居るもう一人が、竜弥くんの感情を冒してるって。ていねいがちょっかいをかけているから、切り離されたのよ」
言われてみれば、異物感があった。胸の真ん中の奥底。感覚のままに手を伸ばしたとすれば、背中を突き抜けてもまだ向こう。
とても重い。けれども心地のいい重量感の隣へ、靴底に挟まった小石のような何か。
「じゃあ、これが本心なんだな。これで竜弥は、人並みの感情が戻るんだな」
「いえ、これは一時的なものよ。ていねいが出ていけば、戻ってしまうわ」
「おいおい、どうにかならないのか」
「それを今、捜してるんじゃないの」
毒を以て毒を制す。怒濤に押し寄せる感情の波は、ていねいのおかげらしい。
竜弥も思う、このままの自分で居たいと。
「竜弥くん、もう一度よ。どうして木場さんに、ばくちが憑いたか考えて」
「家族が大切じゃけえじゃろ」
彩芽が言ってくれなければ、激流に流してしまうところだった。だが拾い上げてみると、当たり前に理解できる。
木場は己の嗜好を趣味として置き、妻や娘にその想いを投じた。どちらが優先などと比べる必要もなく、きっと自然にそうなったのだ。
「ええ、そうよ。でも木場さんは奥さんだけでなく、竜弥くんも大切に思った。だからあなたを叱って、すぐに対処に行ったのよ」
「ああ。じゃけえ飲み屋で、木場さんにばくちが憑いたんか――」
言われてみれば。木場は何かと案じてくれた。偶然に配属された、職場の先輩と後輩に過ぎない竜弥を。
毎日の食事。休日には何をしているのか。親は元気か。何なら家族の旅行に同行するかと、誘われたこともある。
なぜそんなことを問うのか。気兼ねをするに決まっていて、同行などできようはずがない。その時の竜弥には、木場の気持ちが分からなかった。
「僕、木場さんに聞かれたことがあるわ。何か一つくらい、好きなことあるじゃろうって」
「うん、何て答えたの?」
「母さんと、神楽を見に行くくらいですかねって」
そうだ、思い出した。他に思い付かず、苦し紛れに答えたのに。いつどこで上演されるのか、木場はしきりに聞いた。
「僕がどんなもんを好きか、知ろうとしてくれたんじゃ。じゃけえあの写真も」
木場の妻が記憶に曖昧な、古いパネル。あんな物まで引っ張り出して、今年の演舞は見に行こうと考えていたのかもしれない。
「それなら木場さんの居場所は」
「うん、神楽舞をやる神社じゃと思う」
竜弥の別人格に聞くまでもなく、木場の所在が知れた。すぐにでも行こうと、脚をそちらへ向けようとした。
しかし動けない。ていねいはまだ、心の奥へ沈んだまま。
もう用は済んだのだから、早く戻って出て行ってほしい。正直なところはそうだったが、彩芽の頼んだことだ。無碍にもできない。
――彩芽さんが見込み違いするいうて、珍しいわ。
当てにした通りでなくとも、知りたいことは知れたのだから、やはり彼女のおかげに違いはないのだが。
「ん、車が来たな」
唐突に馳大が言った。敷地は私有地でも、目の前は天下の公道。車が通るくらい、当然ではある。
――あれ、いま何時じゃった?
セルボを降りるとき、午後十一時を過ぎていたような気がする。そんな時間に、こんな田舎の町道を誰が通るのか。
深い霧にヘッドライトが眩しい。やがてその光源は、廣島市内方向から来た格好のセルボに対面して停まった。
「やあ、こんばんは。今日は随分と靉靆が濃いぃですのう」
「こんばんは。そうですね、運転にはお気を付けて」
車はジムニー。はっきり判別できないが、紺かグレーの濃い色だ。姿が見えたときには、夜から滲み出たかのようだった。
お世辞にも大切に乗っている様子でない。大小の凹みが無数にあって、ウィンカーレンズなども割れたまま。
「おや。こんな時間に誰か思やあ、いつぞやの」
「ああ、そちらこそいつぞやの」
会話に応じる彩芽は、感動を覚えた風もなく答えた。竜弥はピンと来なかったが、少し考えて辿り着く。
二年半前。ここで草刈りをしたときに通りかかった、役場の職員の男だ。
「知っとりますか。靉靆いうのは、惚れた女が男を逃さん為に出すんじゃそうですわ」
「へえ。物知りなんですねえ」
「どこへ泊まってか知らんですが。事故でもして、出られんようにならんとええですの」
いきなり現れて、不吉なことを言う。文句まで言うつもりもないが、身動きとれぬ竜弥には不安を呼ぶ相手に思える。
「あ。何なら儂が、宿まで送りましょうかいの? どこです?」
地元の者だから安全に行ける、ということらしい。意外に親切な男だ。
――いやいや。よう知らん人に意外とか、それこそ失礼じゃ。
自戒する竜弥に、職員の男は微笑みかけた。
「そっちがお孫さんでしたかいのう」
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