第参拾参話:あいたい  三

 轟々と。豊かな水量で、江の川は唄い続ける。土手に隙間なく茂る竹林により、姿は見えない。ましてや今は、霧までも。

 だが絶え間のないバス域の音色は、幼いころ祖母の家に泊まった記憶を蘇らせる。

 沿って走る町道に、ひと際大きな敷地を持つ旧家。その目の前へ、彩芽はセルボを停車させた。


「木場さん、ここに居るんかな」


 車を降りると霧のせいか、いつもより涼しく感じた。むしろ寒い。その中を父の実家は、ひっそりという言葉を纏って佇む。

 誰も住む者がなく、放火の件以来、電気なども止めてあるはずだ。だから当然にどの窓も真っ暗で、生活の欠片が見当たらない。

 離れのあった場所などは、一面に雑草が生い茂った。母屋の周囲は近所の人でも刈ってくれたのだろう、しぶとく残ったタンポポが端にあるくらいだ。


「居るようには見えないけど。中に入ってみる?」

「鍵がないんじゃけど」

「じゃあ先に、やってみましょう」


 鍵は親の世代が皆持っている。父が亡くなって部外者となった、竜弥の母も。急に訪れた今回は、預かっていなかった。

 しかしそれなら、仮に木場が来ても中へ入れない。表から見る限り、割れた窓などもない。


「やってみるって、何を?」


 問うと同時に、彩芽は何やら白い物を示した。セルボのどこかへ置いていたらしいそれは、何の変哲もない白いタオル。

 ただし、折り紙でやっこさんを作るような独特の折り方に見覚えがあった。


「ていねいのときの?」

「ええ、そう」


 おそらくあのとき、ていねいを封じたままなのだろう。それをどうするのか教えてもほしかったが、彩芽は言わなかったし、竜弥も聞かない。

 以前にも似たような場面があって、懇切丁寧な説明を受けたのだが、さっぱり理解できなかった前科がある。


「深山くん」


 彩芽はまず、馳大に用を言いつけた。内容は言わなかったが、彼女の視線が向くのは離れのあった土地。

 そこに見えるのは踏み込むのを躊躇わす、雑草の森だけだ。


「はいはい」


 気だるそうに返事をして、馳大は右腕を振り上げた。続いて振り下ろすそれは、漆黒の翼に姿を変える。


 ゴウッ。

 台風が来たときくらいにしか聞かれぬ、突風による風鳴り。数歩を離れて立つ竜弥さえ、思わず足を踏み出すほどに空気を吸い付けて去った。


「鎌要らずじゃねえ――」


 まばたき一回にも満たぬその一瞬で、まさに茫々と生えた雑草が一掃される。几帳面さを欠くテーブル拭きのごとく、隅には残っていたが。


「大概の物は切り裂いちまう。言うほどお手軽じゃないんだよ」

「素直に褒めたんじゃけど」

「そら、ありがとうよ」


 二年半前、時間をかけた草刈りを皮肉ったつもりはない。

 むしろ皮肉にしたのは馳大のほうで、「へへ」と目配せをしつつ笑う。ここへ来るまでの多分を占めた沈黙を、埋め合わせようとしたに違いない。


「はいはい。終わったらどいてね」


 しっしっと追いやるように手を振って、彩芽はタオルを地面に放り投げた。概ね敷地の中央へ。

 それからその周りを囲み、白い布でぐるりと円を描く。セルボにいつも載せている、救急セットの包帯だ。


「竜弥くん、真ん中に立って」

「え、こう?」


 真ん中にはタオルがあるので、それを踏めということか。迷ったが、すぐ隣へ立つ。


「それでいいわ。じゃあ、タオルの端を持って、広げて」

「うん」


 竜弥も教わった、空く間術式。清浄の象徴である白い色の物体に、あやかしを封じる方法。

 虫かごへ虫を入れるようなもので、蓋が開いていればあやかしは逃げ出すことが可能だ。タオルを広げろとは、蓋を開けろという意味になる。

 意図は分からなかったが言われた通り、タオルの端を摘んで持ち上げた。


 ――やっと自由か。あの女め、どれだけ陰湿な性格をしてやがる。


 竜弥の目に、ていねいは黒い影がさっと動いたくらいしか映らなかった。

 だがすぐさま、思考が自身のもののように流れ込んでくる。具体的なイメージまではないが、酷く怯えた感情が痛々しいまでだ。


「さあ、ていねい。約束通り、協力しなさい。目的を果たせば、どこへでも行っていいわ」


 ――もう自由は手に入れたんだ。誰がやるもんか。

 どんな交渉・・があったものやら、想像を避けた。のはともかく、甲斐なく逆らうつもりらしい。


「彩芽さん、ていね……」

「ん?」


 筒抜けの思惑を告げ口しようと思った。しかし途中で、言いたくなくなった。


 ――告げ口なんか、褒められたことじゃあないわ。

 脳裏にそんな気持ちが浮かぶ。けれども支配が急拵えのせいか、偽の想いであるとも分かる。

 本当にはどう思うのか、そちらは意識が散らばってうまく纏まらない。


「どうやら、まだ抵抗するつもりらしいわね。せっかく逃がしてあげると言ってるのに。おかしな真似をしたら、あなたが知らない苦しみを知ることになるけどいいの?」


 ――あれより?

 あれ。とは何か、やはり分からない。その代わり凍えつきそうな恐怖が、足下から脳天を突き抜ける。

 ガタガタと竜弥自身も震え始め、混乱が色濃く伝わってきた。


 ――嫌だ。俺は逃げる!

 身体が勝手に。むしろどこか余所から、見えない紐で引っ張られたように手脚が動く。

 足先が包帯を踏んで、彩芽の呆れたため息が「ふう」と聞こえた。


 ――ぎ、ぎやあぁぁぁ!


「ぎ、ぎやあぁぁぁ!」


 先に封印したときと同じように、ていねいの悲鳴が口を衝く。竜弥の気持ちと、布一枚隔てたような近いところ。悶絶が耳許で叫ばれる不快感に、耳を塞いだ。


 ――熱い熱い熱い熱い!


「熱い熱い熱い熱い!」


 竜弥は熱くない。人間には事実通り、包帯を踏んだだけのことだから。

 放置すれば、ていねいが消滅しかねない。さっさっと素早くも優雅に近付いた彩芽は、竜弥の額を指先でそっと押す。

 包帯から足が離れ、苦しみは去った。


「分かった、何でもやる。だからもうやめてくれ。あんたの拷問はどんな――」


 観念したていねいの命乞いを、彩芽は竜弥の口を塞いで止める。


「黙りなさい?」


 ――ひいっ。

 頭に浮かんだ今の悲鳴は、果たしてていねいのものだったか。初めて見る種類の、底のない笑み。

 あくまで、ていねいの協力を得る為だ。竜弥は自身に言い聞かせる。

 こくこくと激しく、首が縦に振られる。はっきり意識があるまま、ひとりでに身体が動くのは貴重な体験かもしれない。

 彩芽という監督者が居る余裕か。竜弥はこの状況を、興味深く見守る。


「じゃあ、お願い。竜弥くんの中に、竜弥くん以外の誰かが居るはず。一人はあやかし。それ以外にもう一人。連れてきて」


 ああ、と。心を侵された底で想う。

 ていねいは、人の心に憑くあやかし。幼いころから言われている、竜弥の心に棲むもう一人。その誰かに直接語りかけることも可能だろう。


「分かった、探してくる」


 ――さっさと済ませるに限る。

 今度は従ってくれるらしい。だが木場の居どころと、どう繋がるのか。そこのところは、さっぱり分からない。


「それで木場さんのことが分かるん?」


 聞こうと考えると、あっさり言葉が出た。ていねいが心の奥底へ、捜索に出たからだろうか。


「たぶんね。きっと木場さんは、あなたの心に侵食されたのよ」

「えぇ、どういうこと?」


 心の中の誰かに聞いてみなければ、正確なことは分からない。そう前置きして、彩芽は木場が失踪した原因を話し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る