第参拾弐話:あいたい  二

「どこへ向こうとるん?」


 セルボは霧を掻き分けて、国道四百三十三号線を北へ進む。それは、ときに見える標識で分かる。このまま進めば尾朝町があり、さらに先は嶋根しまね県だ。

 きっと尾朝に行くのだろう。根拠はないが、それも分かる。嶋根には縁もゆかりもない。というのは竜弥にとってなので、決めつけに過ぎなくはあるが。


「馳大さん」


 後席で長身を屈め、眠っている馳大に声をかけてみる。おそらく眠ったふりなのだが、彩芽と同じく返事をしてくれない。

 尾朝へ行くとなれば、今は無人の父の実家くらいしか思いつく場所はなかった。どこへ、と聞いているが、結局は「何をしに」と同義だ。


「彩芽さん。喉が渇いたけえ、止めてもろうてもええ?」


 緑豊かな丘と、延々続く田んぼ。近くへ家屋のある気配はない。そんな道端に、いきなり自動販売機の灯りが煌々と照った。深い霧が白く、光の球を形作る。

 言うほどの渇きを覚えたわけでない。尾朝に行きたくないとも思わない。

 ただ何か、このまま進むのに息苦しいものを感じた。言わば無視をされている今だが、それとはまた違う理由で。


 ――たぶん、僕も気付いとるんじゃ。

 彩芽と馳大が黙っている理由を。では何かと聞かれれば、言葉に出来ないけれども。もやもやと朧げに、心当たりを感じていた。

 それは、口を利いてもらえないことの。同時に、一連の出来事の。

 二人は明確に理解していて、どう切り出して良いものか迷っている。というだけが、はっきりと分かった。


「何だ、ビールはないのか」


 返事はなくとも、セルボは止めてもらえた。窓から品揃えを眺めて、馳大が文句を言う。


「こんなところに置いとるわけないじゃろ」


 と言ったものの、少し前に通り過ぎたドライブインの入り口には、それらしき自販機があったのを思い出す。馳大が続けて何か言えば訂正もしたが、やはり会話は途切れた。

 ドアを開けて降りようとすると、手首に彩芽の指先が触れる。振り返ると、目の前に何かが、そっと差し出された。

 財布だ。ほぼ正方形の、落ち着いた茶色。使えということらしい。

 遠慮したかったが「いや、ええよ」と言って、また答えがないのもつらい。黙って受け取り、使わせてもらうことにした。


 ――意外と地味なの使うとってじゃ。

 札を入れるのと別に、変わった口金の小銭入れも付いていた。前に見た物は真っ黒だったように思う。それと同じCを背中合わせにしたようなロゴが入っているので、好きなメーカーの物かもしれない。


「バヤリス」


 ほとんどがコーヒーと炭酸飲料という中、唯一例外を馳大は頼む。以前と変わらないなと思いつつ、その通り買って窓から差し入れる。

 彩芽は甘いコーヒーだ。馳大の淹れたものならブラックで飲むのに、缶コーヒーはそれでないと飲めないらしい。


 ――僕は何にしょう。

 苦手な物はない。かといって、特にこれがいいと好みもない。喉の渇き具合いとは無関係に。


 ――僕は何がしたいんじゃろう。

 好み。希望。やりたいこと。竜弥の中に、希薄な想い。

 ばくちに唆されたといえ、おさんは荒れ狂うほどの感情を見せた。

 他のどんな職業に就く者より、よく分かっているはずなのに。所長たちは、賭博に手を染めた。

 抑えが利かぬほどの欲求を、竜弥は抱えたことがない。これがばくちに憑かれなかった理由で、木場の失踪の原因ではないか。

 朧な心当たりの正体。彩芽と馳大の突きつけようとしている真実も、おそらく。


 ――僕のせいじゃ。


 助手席に戻り、財布と缶コーヒーを両手のそれぞれに出す。股に挟んだ自分用のスプライトが、酷く冷たい。


「彩芽さん」


 名を呼んだのは、受け取れという意味でない。自分のせいだと分かったが、どうすれば良いか。どうしてこうなったのか。教えてほしかった。

 だがいかに仙狐でも、口に出さぬ考えを読めはしない。思った通り、言えばいいのだ。それだけのことが苦しくて、喉の奥が詰まる。


「ありがと」


 たった二十分ほどのことだが、彩芽の声を久方ぶりと感じた。目頭が熱くなって、堪えるのに鼻をすする。


「僕のせいじゃね」


 白い指の先で、プルタブを引き剥がす金属音がキキと小さく鳴る。それと同時に、言った。

 懺悔と呼んでもいい。どうか自分を罰してくれと、自己満足の内罰的感覚と分かっていても、そうとしか思えない。


「違う」


 すぐに否定したのは馳大。傾けていたオレンヂジュースを慌てて離し、「違うからな」と重ねて言う。

 彩芽は反対に、横目で竜弥を見てなお、UCCのロング缶に口付けた。しかし中身を飲むには、あの傾きで足りるまい。


「――竜弥くんが原因だと思うけど、竜弥くんのせいじゃないわ」

「それは同じことじゃろう?」

「そうかもしれない。でも私は違うと思ってる。どっちなのか、これからたしかめに行くのよ」


 木場が居なくなったのと、所長たちは関わりなかった。聡司の言う「北へ歩いた」と、それがばくちの仕業ならば、木場は尾朝に居る。

 どうして尾朝なのか、理由は分からない。彩芽と馳大が行こうとしているから、そうなのだろうと思うだけだ。


「ばくちは、僕に憑きたかった。でも、ばくちと僕は相性が悪かった。じゃけえ僕が関わった人、僕に関わった人に憑いたんじゃろ?」

「姿が見えないから、たぶんとしか言えないけど。ばくちを育てたのは剛人。本体は竜弥くんに目を付けて、分身をあちこちに振り撒いた」


 彩芽なら見えないまでも、居場所の同定はできると思っていた。だがこの言い分では、分からないらしい。


「それじゃあ本体が、今も着いてきとるかもしれんの?」

「だと思うわ」

「なら、彩芽さんと馳大さんにも――」


 あやかしがあやかしにつくなどと、おさんの件で初めて知った。

 しかしあの、おさんもひれ伏した彩芽なら。同じく、人間として紛れ続けている馳大なら。無用の心配なのか。


「そこのとこは気にすんな」

「気になるわいね」

「あぁ、じゃあ言い方を変える。俺も彩芽も鍛え方が違うから、大丈夫だ」

「ほうなんじゃ」


 多少の説明が加わったところで、大丈夫な保証にはならない。結局、言われたままを信用するしかなかった。


 ――自分じゃ、どうにも出来んのに。馬鹿みたいじゃ。

 二人とも、竜弥を責めない。いっそ散々に言われて「しょうがねえな尻を拭いてやるよ」とでも言われたほうが楽だ。

 情けないが、これほど強力なあやかしに対する方法は、普通の人間に存在しない。


「木場さんを連れて帰るんでしょう?」

「いき、生きとるん?」

「さあ。分からないけど、初めから諦めてるようじゃ叶わないわね」


 もちろんそうだ。難しそうだと触れないでいれば、どんなことも始まらないし終わらない。

 分かっているが、及び腰になる。

 生きていなかったら。どんな顔をして、何と謝ればいいのだ。木場の妻に。


「なあ、竜弥」


 飲み終わった缶にプルタブを入れて、カラカラと弄ぶ馳大。意味でもあるのかと思って見ていたが、じきに足元へ下ろされた。


「所長たちのこと、どう思う。警察官としてっていうか、お前の率直な感想で」

「何であんなことをしたんじゃろうって」

「あんなことってのは? 犯罪をか」


 なぜこんなことを聞くのか、話の向きが変わった意味を図りかねる。

 しかし答えに悩むことはない。「もちろん」と即答した。


「下河内剛人の家に居た連中は?」

「たぶんみんな共犯なんじゃろうね」

「悪人だな」

「うん、そうなるね」


 当然だ。初犯なら懲役まではないかもしれないが、刑罰は受けるべきだ。

 職業的に正しい回答を浮かべ、口に出せない。お前もそうだ、と馳大は言っているのか。そう思ったから。


「じゃあ」

「え?」


 問いかけは、まだ終わっていなかった。戸惑うのにまた構わず、馳大は続ける。竜弥の座るシートをつかみ、前のめりになって。


「下河内剛人の妻は」

「奥さん?」

「例のノートに、剛人の女房の名前はなかった。夫婦だから合算してたのかもしれないし、本当に関わってなかったのかもしれない」


 どちらもあり得る。しかし同じ屋根の下、あれだけの人数を集めていて、知らなかったとは通るまい。少なくとも賭場開帳とばかいちょうの、共犯に問われるのが普通だ。


「でも何かの罪にはなる思うよ」

「そうだな。俺たちも同じなんだよ」

「同じ? 馳大さんが?」

「お前もだよ」


 ――本当ほんまに何が言いたいんじゃろ。

 いつになく、持って回った話し方をする。余計なことを口走って、彩芽に睨まれるのが馳大の役目だったはずだ。


「俺たちは化け物だ」

「深山くん」


 はっ。と、息を呑む。代わりに聞き咎めたのは彩芽。だがそれでも、馳大は言うのをやめない。


「化け物とつるんでる奴は、やっぱりそいつも化け物なんだよ。周りから見ればな。きっとお前の上司たちは、次に会っても眼も合わせてくれないさ」


 そんな機会があるかはともかく、たしかにと思う。あの善良な木場の妻とて、あやかしの力を借りて探すと知ればどう思うやら。


「だから結局お前なんだよ、竜弥。お前自身がどこに居たいかだ。どっちもってのは誰も信用しない。俺たちも庇いきれない」

「僕の居る場所――」


 なるほど。そのひと言だ。

 ぼんやりしていた前置きが、一つの結果に結び付いた。この後すぐ、馳大の発する言葉も予想がつく。

 ――選べ、今ここで。


「選べ、今ここで。どっちを選んだって、問題は片付けてきてやる。違うのは、それから先の未来だ」


 選択肢は示されなかった。けれども竜弥には見えている。

 二つに一つ。

 とても簡単な二者択一だった。これほど簡単なことを、誰のせいとか言いわけを付けたことが恥ずかしくもおかしい。

 そう思えることさえ、馳大が柄にもなく語ってくれたからだが。


「彩芽さん。僕も行きます、出してください」

「了解よ」


 赤いセルボは走り出した。この上なく穏やかに。道路の凹凸を律儀に拾った細かな揺れも、軽快なリズムのようにさえ感じる。

 互いの関係がどんなものでも、助けたいと思うのはその先のこと。幾日も前の言葉を、ようやく竜弥は理解した。


「ところで深山くん」

「ん?」

「私も化け物呼ばわりしたこと、忘れないようにね」

「……はい」


 尾朝までの道のりは、まだまだ濃い霧に覆われている。

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