第参拾壱話:あいたい  一

 地面に擦りつけんばかり。おさんは顔を、下に向け続ける。


「ひぃっ。ひぃっ」


 同じ狐のあやかしだが、竜弥には知れぬ格の違いのようなものがあるらしい。

 彩芽が声を発し、一歩近付こうとしただけで、おさんはおののいて後退っていく。


「彩芽さん。僕が話すけえ」

「任せるわ」


 一歩ずつ、反応をたしかめながら進む。足音に耳をそばだてはするが、やはり竜弥から逃げない。

 伏せている目の前へ。手を出してくれれば触れられるところへ自身の手を出して、しゃがむ。


「おさん、大丈夫よ。あれは彩芽さんて言うんじゃけど、すごい優しい――」


 優しい、と紹介しかけた。

 そう言って、彩芽を傷付けないのか。おさんへの慰めになるのか。

 数拍悩んで、言い直す。


「彩芽さんは、すごい優しい女性なんよ。僕も酷いことを言うてしもうたことがあるけど、関係なしに助けてくれるんじゃけえ」


 性別なら人間も獣も関係ない。と思ったが、あやかしの感覚は違うかもしれなかった。

 よく考えたつもりでも、抜けている。しまったと後悔が顔に出ないよう、無理やりに笑って見せた。


「あ、あれがあんたの想い人なのかい? それならあたしは、すぐに手を引くよ。金輪際、あんたの前には姿を見せないよ」


 想い人とは馴染みのない言葉で、恋愛対象のことと気付くのに一瞬かかった。


「いや、そういうんじゃないけえ。僕なんか相手にされんし、僕もそうとは思うとらんよ」

「本当かい? いやでも駄目だ。醜い姿を、あんたに見せちまった。こんなんじゃ、夫婦めおとになんかなれやしない」


 ――夫婦って。

 滝の精が言ったのは、冗談でなかったようだ。

 人を喰らうのが本質のあやかし。その食事シーンを、意図しない機会に見ただけ。と考えれば、失礼をしたのはこちらだと思える。

 だから、おさんを好きとか嫌いとか、判断をする材料にはならない。かといって結婚と言われては飛躍しすぎだ。


 ――平気じゃ。僕は友だちとして、おさんのことが好きなままじゃ。怖いとか、そんなことは全然ない。

 そうやって自分の心を確認しなければ、自信のないのも事実だった。膝が震えるのを、ぎゅっと力をこめて押さえ込むのも。


「そんなん、気にしんさんな。僕なんか警察学校でウンコしよったら、ドアを開けられたことがあるんよ」


 窺うように、顔を上げてくれた。

 冗談を言って和ませようとした。逆に綺麗だったとか、見え透いたことも言えず。それくらいしか言葉が見つからなかった。

 だが失敗だったかもしれない。おさんは眉を顰め、悲しそうな目でじろじろと見る。


「……あたしは」

「うん?」

「あたしは、あんたを好いててもいいのかい?」

「いきなり結婚とか言われても困るけど。おさんがええなら、また会いに行きたい思うとるよ」


 何度も繰り返し、おさんは頷く。納得の意でなく、そうやって咀嚼しているのかなと思う。


「信じていいんだね。あたしは、ほら穴で待ってりゃいいんだね?」

「うん、待っとってや」


 即座に答えた。のに、おさんの眼が納得した風でない。

 理由はおそらく分かる。

 ――僕の声が、まだ震えとるけえじゃ。


「僕は人間じゃけえ。あやかしのこと、何にも分かってないけえ。急に何かあったら、びっくりするんよ。そうせんようにはしょう思うんじゃけど、難しゅうて」


 おさんは頷く。数瞬前より、力強く。


「それでも知りたいんよ。あやかしのみんなが許してくれるんなら、僕は仲良うなりたいんよ」

「あたしは、みんなの中の一人かい?」


 竜弥の声は、まだ震えていた。おさんの声は、限りなく普段に近い。


「誰でもそうじゃろ。最初っから特別な誰かにはなれん」

「まだまだ愛が足りないってことだね。覚悟しておきよ」


 たった今までの弱気が嘘のように。おさんは立ち上がって、裾の埃をはたいて見せる。出していた手にも触れてくれない。

 それから彩芽に向いて頭を下げると、静かに背を向けて立ち去ろうとした。


「おさん。悪いんだけど、一つ教えてくれるかしら」

「何だい、姐さん」


 呼ばれて振り返ると、おさんは両手を揃え優美な姿に戻った。花魁道中も、こなせそうなほど。


「あなたは竜弥くんを、いつも覗き見てるの?」

「いいや。何だか見てなきゃいけないって、気が急いてね。おかしなもんだよ」


 しとやかに首を横へ。その顎下へ、指が二本添えられた。どうかしていたのだと、おさんは答える。


「それは誰かに操られてたのかしら」

「誰かに? 分からないけどねえ。昨夜、竜弥の来てからだよ。小娘じゃあるまいしと思うんだけど、恋心に絆されたのかねえ」


 これはあくまで冗談だと。示すように、おさんは皮肉っぽく笑った。

 聞きたいことはそれだけなのか、彩芽は「そう」と答えて何か放り投げる。


「身代わり札よ。まだ、ほら穴には戻らないでね。竜弥くんが迎えに行くから、それまで滝で待っていて」

「そうかい。姐さんにも迷惑をかけたのに、悪いね。恩に着るよ」


 しずしずと、花街を歩くがごとく。おさんは帰っていった。

 草の揺れる音も全くなくなるのを待って、竜弥は問う。


「どういうことなん?」

「おさんも憑かれたのよ。ばくちにね」

「ばくちに? 臭いを嫌うて逃げとったのに」

「そうね」


 そこそこに答え、彩芽は来た道を戻ろうとする。

 何かごまかしているのか。それともまた、竜弥が何かしでかしたか。考えたが、分からない。


「彩芽さん。僕が何かしたんなら、言うてえや」

「何か? してなくはないわね」

「何なん?」

「だって私は、相手にならないんでしょ? 年寄りすぎて」


 歩みを止めない彩芽の背中越し。どういう意味か、図りかねる。

 少し考えて、辿り着いた。おさんの問いへの答えだ。しかし相手にならないのは彩芽でなく、竜弥のほうだと言ったのに。年齢のことなど、ひと言も口にしなかった。


「そ、そんなこと言うとらんよ!」

「ふふっ、冗談よ。早く戻らないと、あの二人が死んでしまうわ」


 楽しげな、からかう声。発している顔がどんななのか、ほんの少しもこちらを向かないでは知ることが出来ない。

 所長と巡査長とが重傷なのはたしかで、放っておけないのも間違いなかったが。


 ――霧が出てきたのう。

 巡査長の持っていた無線で連絡し、救急車を頼んだ。竜弥の名は出さず、通りすがりということで。

 人の姿になった馳大が所長を抱えて運ぶ。竜弥と彩芽とで肩を貸し、巡査長を。

 二人とも彩芽による止血で、落ち着いた様子を見せた。恐怖からも脱しきれてはいないのだろう、暴れる気力はないらしい。


「いいな、俺たちはここに居なかった。竜弥もだ。お前たちはその辺の谷に落ちたところを、通りすがりに助けられた」

「そんな無茶な」

「それが嫌なら――」


 おさんと話している間、何かあったのだろう。抵抗を示した巡査長だったが、馳大が声を潜めると震え上がって黙る。


「あ――」

「どうしたの?」


 肝心なことを聞いていなかった。木場の行方だ。どんな悲惨な末路か、聞きたくはなかった。しかし、そうもいかない。


「木場さんは、今どこに?」

「木場? 知らんよ、行方不明になったじゃろうが」


 もう疲れたから喋らせるな。そういう空気を醸しつつ、巡査長は答える。


 ――知らんって、そんな馬鹿な。

 竜弥だけでなく、木場も邪魔をする。所長はたしかにそう言った。


「邪魔するけえ殺したんじゃ?」

「木場を? 部下が行方不明になりゃあ、そりゃあ邪魔したいうことになろうが」

「あぁ――」


 巡査長が勝手にそう思っているだけでなく、所長も同じらしい。大きな声が出せないのを、問うた馳大が頷いた。


靉靆あいたいが濃いぃのう」


 ぼそり。巡査長は呟く。


「あいたい?」

「中から出られんなるような、霧のことよ」


 ようやく、道路に戻る。言うように深い霧が、道幅さえ隠してしまった。

 ミニパトの回転灯が、辺りを真っ赤に染め上げる。

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