第参拾話:せんこ
ザクッ。
衣服を裂き、肉を破る音が生々しい。おさんの顎が、巡査長の太腿を捕らえた。鮮血が飛沫と噴き、苦悶の声が低く篭る。
長く爪の伸びた手は、所長の足首を。引き攣った悲鳴が「ひいっ」と繰り返すばかりで、意味を持つ言葉は出てこない。
「おさん!」
助けに来てくれた。じりじりと陰湿に迫る死を、一瞬と呼べるほどの短い間に撥ね除けてくれた。名を呼んだのは、そのことへの感謝だ。
あえて端的に、幼稚に言うなら。来てくれて嬉しかった。
「竜弥! たつ、やぁ! たぁつやぅぅ!」
所長をつかんだまま、おさんの腕が振り回される。
たまたま握った大切なおもちゃを叩きつけるように。壊れること厭わず、むしろそうすることで己の欲求を親に知ってもらおうとする
「おさん――?」
手加減はないらしい。柔道では二段持ちの所長が両腕で頭を抱え込み、堪えるだけだ。意識が朦朧とするのか、何度となく力が緩み、持ち直している。
「竜弥を。竜弥を返せぇ!」
ほんの数歩先へ居るというのに、視線が合わない。おさんの眼は、憎々しげに甚振る所長たちさえ見ていなかった。
――僕に気付いてない?
いつから見ていたのか。どの時点で怒りを爆発させたのか。細かくは置いても、竜弥が殴られたことで来たはずだ。
そんなおさんが、竜弥を見失うなどあろうか。
ベギィッ。つかんだ手の辺りから、床板でも踏み抜いたかと思う鈍い音。
「ぃぎゃあぁぁぁっ!」
悶絶が所長に狂乱を呼んだ。脛の真ん中から真下へ垂れ下がり、叫び、暴れる。
「おさん、やめえ! やめるんじゃ!」
見ていられなかった。止めよう、とか何ごとを考えるでなく、竜弥はおさんの背中に抱きつく。
「やめてくれぇ。僕の見とる前で、そんなこと――」
可愛がっている犬や猫が、ふとした瞬間に見せる野生。普段与えない骨付き肉など食うときの、喜々とした表情と剥き出した牙。
竜弥が怖れ、視界に入れたくなかったのはそういう景色だ。
所長と巡査長とが、むごいから。そちらの気持ちは欠片もない。
「たつぅやぁ――」
びくっ、と硬直して。おさんは顎と手を緩めた。べしゃり無様に、所長と巡査長は地面に伸びる。
二人ともが、引き付けを起こしたごとく荒い息。だが生きている。
「あ、ああ、あああ……」
自身のしでかした光景を、おさんの眼がなぞるように動く。足下にひとしきり溜まった血を踏んで、信じられないと否定に首を振った。
「あた、あたしは」
狐の顔が、おしろいを塗り時代めいた女の顔に。これを化けたと、竜弥は考えない。
――良かった、元に戻ってくれた。
竜弥の声は届いている。きっと今は存在を感じている。ならば起きた出来事は、気の迷いだ。
ひとまずの安堵を覚えたというのに、おさんは逃げ出す。
「おさん待ちんさい!」
月光も届かぬ森の道を、竜弥はおさんの背を追って走った。
「ううっ! こんな、血が! 血が!」
五十メートルほども進んだか。おさんは沼のほとりに居た。水辺に樹木はなく、月が明るく照らす。
手に水を掬い、牙と爪と、身体のあちこちへ散った血を洗い流していた。
「おさん」
呼べばまた逃げるだろうか。迷ったが、呼んだ。あやかしに、騙し打ちのようなことはしたくない。
おさんは泣きべそに濡れた顔を上げた。
「あんた。竜弥。違う、違うんだよ。あたしはずっと、人を食ってなんかない。あんたが悲しそうな顔をしたから、あんたのくれる土産のほうがうまいから」
違う。違う。何度も横に首を振って、これは間違いだと示すように身体を洗う。
そうだろう。と、竜弥は思う。真実などどうでも良く、おさんの言う言葉を肯定したかった。
「僕は信じとるよ。おさんは僕を助けに来てくれた。それだけじゃ」
「あんた、信じるのかい。あたしなんかを。あたしが人を食ってたのは、まだ今年のことだよ」
言葉に詰まる。想像よりも最近のことだった。しかし問題ない。昨日ゴキブリを潰した手を、今日握るのに何の躊躇いが必要か。
「信じる。やめてくれ言うたのも、僕の勝手じゃ。おさんが飢えてもろうても困る」
すぐ隣へ立ち、しゃがみ、水を掬ってかけてやった。袖を捲った腕を、手で擦ってやった。
人間の肌だ。竜弥と同じ。いや幾分柔らかくて、女の肌という感触がした。
「そうね。分別を失くしちゃいけないけど、人を食うのはあなたの意義よ。やめてしまえば、やはりあなたはあなたでなくなる」
来た道に彩芽が立っていた。反吐で汚した服もそのままに。腰に手を当て、反対で髪を掻きあげた。
流れた長い髪が風に靡く。艶の深い黒髪のはずが、月のせいで金色に輝いて見える。
「へ、へえぇぇぇ!」
しゃがんだ格好のまま、おさんは後退った。驚きおののいた声だけが、竜弥の隣へ置き忘れられた。
土下座。平伏というのか。土に顔を埋めんばかり、おさんは畏まっている。
「そんなことしないで。私は竜弥くんの友だち。あなたのことも心配だわ」
「へ、へえ。あたしなんかを」
おそるおそる上げた顔が、また勢いよく伏せられる。見てはならぬ物を見た。そんな風に。
竜弥の眼にもそれは映る。初めてならば驚いたが、そうでない。
彩芽の後ろに光の玉があった。数は三つ。
光源は彩芽の尻から生えている。尻尾だ。ふわふわと長い毛を纏った尻尾が三本。
「私も落ちこぼれよ。千と四百年、修行をしても駄目だもの」
恥ずかしそうに彩芽の微笑んだ後、尻尾は見えなくなった。
◆ ◆ ◆
あのとき。尾朝にある父の実家で、離れが燃えたあのとき。
馳大が人間の姿に戻っても、竜弥は声を出せなかった。普通のよく居る一般の、尋常の大人でないのは分かっていた。
けれども、あやかしとは知らなかった。
――いや知っとる。そうでないと説明つかんことが多すぎる。
幼いころに出逢って、十九の歳まで。あやかしに絡んだ出来事と、何度となく出くわした。
その度に助けてくれたのが馳大と彩芽だ。
「おい、どうした!」
不意に、馳大が暴れだした。暴れる当人が、何ごとかと問いかけている。
違う、掛け軸だ。
馳大の手には、巻かれた掛け軸があった。それが跳び跳ねるのを、馳大は押さえようとしている。あれだけ活きのいい魚は、鯛でも鰤でも居まい。
「あっ」
とうとう腕から飛び出し、地面に広がった。そうだろうと予想はついたが、かくげんさんの掛け軸だ。
ただし下方の三分の一ほどと、縁の辺りは燃え落ちている。跳ねる様子を見ると、焼失の痛みから逃れんとするように思えた。
「燃えてしもうたん、かくげんさん!」
暴れる軸を拾い、語りかけた。既に火は消えている。が、両の膝下が失われた。
カッターナイフで手を切ったくらいが最も重傷の竜弥に、どれほどの痛みか想像もつかない。
「ごめんよ、かくげんさん。ごめんよ」
竜弥がしたことでない。警告されていたといえ、火炎瓶など防ぎようがない。
だとしても、謝らずにはいられなかった。その場に居て、逃げる術のない友人を守れなかった。
それを平気でいられる、野太い神経を持ち合わせない。
「竜弥くん」
声をかけられて、仰け反った。馳大でなく、彩芽とは分かっている。
しかし夫婦のごとく、はなく。
通じ合った友人のよう、でもなく。
何と呼ぶか未知の関係で結ばれた馳大と彩芽が、これしきを知らぬわけがない。片方があやかしならば、もう一方も。
そう思った。
「逃げないで。かくげんさんを放して。我を忘れてる、危険だわ」
燃えたこと。身体の一部を失って、パニックを起こしている。そういう意味だと理解はできた。
けれど彩芽の言うことを聞く気になれない。聞いてはならないと、気持ちの奥底が拒否する。
「どうしたの、傷付けたりしないから。そのままじゃ、あなたが危ないの」
――嫌じゃ。嫌じゃ嫌じゃ。
優しい声が、余計に感情を逆撫でる。
怖ろしいあやかしに、かくげんさんを渡してはならぬ。考えればおかしな想いに、竜弥は囚われた。
「カダラ。カダ。カラ、カラダ。カラダヨコ。カラダセコ」
馳大とは異なる、男の声がする。もちろん竜弥自身のでもない。
何を言っているのか、カタコトな喋り方で分からなかった。
「ヨセコ。ヨコセ? カラダ。ヨコセ。身体、寄越せ!」
悍ましい意図を孕む、歪んだ声。聞こえるのは、竜弥の手にした掛け軸の中。
声の主は、かくげんさん。
――かくげんさんがこんなことを? 何かの間違いじゃ。
聞き違い。言い間違い。良いように受け取る方便はある。
だが勘違いのしようもなく、実際の行動を以て否定がされた。かくげんさんの腕が紙から抜け出し、竜弥の口に突っ込まれる。
「竜弥くん!」
「竜弥!」
彩芽と馳大が手を伸ばし、叫んだところまでは覚えている。その次の記憶は真っ暗で、目を覚ました竜弥は地面に横たわっていた。
「消防車――」
遠くからサイレンが聞こえる。もう燃え尽きかけた離れに、ようやく駆けつけようというのだ。
――遅すぎるわ。
どうして気を失ったのか、記憶が飛んでいた。寝たまま周囲を見回して、思い出す。
「彩芽さん……?」
白いタイトスーツ姿は、そこになかった。きっと竜弥の下に敷かれた布が、成れの果てだ。
馳大は大鴉にはならず、人の姿をしている。彼は地面に膝をつき、見下ろしていた。
竜弥を、でない。隣に横たわる、竜弥よりも長身の獣を。
「かくげんが暴れてな。お前を傷付けるわけにいかないし、抑えるのに苦労した」
馳大の声に獣はぴくりと動き、身体を起こした。四本の脚ですらと立つ姿には面影がある。
尻尾を三つに分けた、金色の狐。
「抜き取ろうと思ったけど、失敗してしまったの。でも彼は眠ったから、危険は去ったわ」
かくげんさんは、掛け軸の画という身体を失った。その代わりに、竜弥の身体を乗っ取ろうとした。
幼い彼は動転して、無我夢中だったのだろう。止めようとしたが間に合わなかった。
彩芽の話はいつも通り、端的でありながら丁寧で分かりやすい。
「ごめんね、竜弥くん」
金色の狐は、一歩。近寄ろうとした。
「ひっ! く、来るな!」
身体が強張り、考える猶予も必要ないまま、言葉が勝手に喉を過ぎ去った。
金色の狐は出した脚を戻し、悲しげに俯く。
「姿を見せれば怖がられるかと思って。ごめんなさいね、私は
「竜弥、俺たちはな」
言いわけなど聞きたくない。ただただ、怖ろしかった。そのときその時間だけは、過去何年分もの想い出を忘れ去っていた。
「うるさい化け物!」
それから三人の誰も、口を利かなかった。
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