第弐拾玖話:おさん 四
「こりゃ。まだ誰が見とるか分からんのに、そがいなもん出すな」
「あぁ、すんません」
竜弥の背中に触れていた、そがいなもん。おそらく拳銃が離れる。巡査長の腰の辺りから、革製のホルスターの擦れる気配がした。
「ほれ、早う行け」
殺す気でいるなら、抵抗する意味はないのかもしれない。時間稼ぎをしたところで、誰かが助けに訪れる当てはないのだ。
唯一上空に馳大は居る。彼が舞い降りて来ないところを見ると、まだまだ余裕はあるということか。
――もう半分くらい死んだ気分じゃけど。
彩芽の隣へ並ぶ。動かした脚が、マネキンを借りたかごとく感覚が薄い。
「歩けばいいんですって。行きましょう、手を離さずにしっかり支えてね」
こんな頼るようなセリフを彩芽が言うとは珍しい。言葉だけでなく、腕を絡ませてもくる。
――あ、ヒール。
手を離すなとは何かの符号かと思ったが、その通りの意味らしい。
いつも履いている、高いヒールの靴。運転も器用にこなす彩芽が、山道を歩くのは難しそうだ。
ザク。ザク。ザクザクッ。と細い靴底の刺さる音が、一定しない。
「他人とは思えないのよ」
「ん、誰のこと?」
聞き返したものの、それどころでなかった。ふらつく彩芽を支え、身を寄せ合うように、月明かりも届かぬ山道を行く。
この行為に何の意味があるのか、意図が知れず不気味さが募る。
――何の為に、あんな小細工をしたんじゃ。
酒に酔ってふらつかないか見る為なら、竜弥が支えては意味がない。するとこれは、運動能力の検査でなくなる。
口封じに殺すのであれば、拘束でもしたほうが楽だろう。
どう考えても、飲酒検知を偽装したのは無駄としか思えない。
「この先、水があるわね」
形のいい彩芽の鼻が、スンスンと風を通した。同じに嗅いでみても、竜弥にはそれらしき臭いを感じられなかったが。
「遅いのう、早う歩け」
三、四歩後ろを、所長と巡査長が着いてくる。巡査部長は車の番に残ったようだ。
肩越しに盗み見ると、それぞれ懐中電灯を持つだけ。拳銃はおろか、警棒も抜いていない。
あちらは革靴。竜弥はスニーカー。年齢差もあって、逃げ出せば追い付かれまい。しかしハイヒールの彩芽が居るので、その心配はないと踏んでいるのだろう。
――その通りじゃ。一人で逃げるんなんか、僕にはできん。
仮にそうしたとして、罪悪感で戻ってくると予想がつく。
逆らえず、逃げられもしない。ならば思い付く手は、一つだけだ。
「僕らを黙らす為に、殺そういうんですか!」
立ち止まり、振り返って叫んだ。辺りに民家はないが、たまたま誰かが通りかかれば聞こえるかも。それに馳大が、万が一見失っているのかも。
危機を知らせ、助けを呼ぶ。出来るのは、それだけだった。
「やかましい!」
「ぅぐっ」
巡査長の怒声が、拳を引き連れて飛びかかる。避けようとしたが、素よりケンカ慣れしない竜弥には無理だった。
頬に熱い塊が接して、閉じた目の前が血潮の色に染まる。その中を小さな光が線香花火にも似て、いくつも弾けた。
「手間ぁかけんさんな。結果は同じじゃけえ、痛い目ぇ見んほうがえかろう?」
もう一度殴りかかろうとする巡査長を止め、所長はしゃがみ込む。いつの間にか、竜弥は地面に転がっていた。
「自分らのしたことを隠すのに、そこまでするんですか。たかが博打じゃあないですか」
そこだけストーブが目の前のように熱い頬。手を触れれば、ぴりっと痛みが走る。
「ほうよ、そこまでするんよ。儂ぁこのまま定年までで警視。あんただって黙っとっても、警部補までは上がるじゃろう。それまでの給料と、それからの年金。いくらになる思うとるんや?」
「犯罪に手ぇ染めて、のうのうと定年まで勤めよう言うんですか。どういう神経しとるんですか。頭ぁおかしいんと違いますか!」
思わず握った土を投げつける。けれども、たかが土だ。そううまいこと、目潰しにもなりはしない。
ちょっと迷惑そうに、所長の顔を顰めさせただけ。お返しにもらった巡査長の蹴りのほうが、よほど動けなくなる。
「ぐぇ――」
「何とでも言いんさい。この先に沼があるらしいけえ、そこに沈んでしまやぁ何も言えんようになる。今のうちで?」
彩芽の言った通りだ。このままであれば、どうも沼で溺死させられるらしい。
「いい加減になさい、あなたたち。竜弥くんにこれ以上何かしたら、黙っていないわよ」
「おお、そりゃあ怖ろしい。勘弁してもらおうて」
彩芽の声から、抑揚が失われた。引き起こしてくれる腕の力も、クレーンに吊られたかと思う強さがある。
だが所長も巡査長も、意に介さない。おどけた声で、茶化しさえした。
「彩芽さん?」
「三文芝居ね。飲酒運転で捕まるのを嫌がった私は、見知らぬ道に迷い込んで沼に落ちる。あなたたちは懸命に捜したが、間に合わなかった」
そういうシナリオのようだ。やはり馬鹿にした風に所長は頷き、巡査長に目配せをする。
「よう分かっとるのう。分かっとるなら、協力してもらえりゃありがたい。どうも儂の部下は若蔵といい木場といい、邪魔ばかりしゃあがって困るわ」
「木場さん? まさか木場さんが居なくなったのは――!」
今やろうとしているように、木場も殺したのか。どうやってだか、あの真面目な先輩も所長らの悪事を知った。そういう理由なら、やる気のない捜索にも合点がいく。
「やかましい言うとるじゃろうが!」
「ぐっうぅぅ」
巡査長の渾身が、腹に叩き込まれた。焼けた鉛を胃袋へ置かれた心地がして、祭りで食ったあれこれが喉を駆け上がる。
「ぐえっ! おぉえっ!」
倒れながら、反吐を振り撒く。所長たちは距離を取ったが、彩芽は引き止めて抱きかかえた。
白いスーツが、胃液に汚れる。申しわけないと思い、そう言おうとしてまた激しく吐いた。
「黙っていないと言ったのに。後悔しないことね」
「んん? どういうことかいの」
背を撫でてくれる手は、綿で包むように優しかった。同じ彩芽の発しているはずの声は、反対に酷く堅かった。美しい花の根本に鎮座する、剣山のように鋭かった。
ザッ。
森の奥から、何か音がする。
「さあ、そろそろ観念してもらうで。儂らも暇じゃあない」
ザザッ。
草を分け、枝を圧し折り、何者かの駆ける音がする。
「所長、何か聞こえんですか」
「お? 気付かんかったが。誰か居るんかいの」
ザザザッ。
遠かった音が、まっすぐ。竜弥たちの居るほうへ、途轍もない勢いで。ただの人間が、何もないグランドで駆けたとて為し得ない速度で迫ってくる。
「ほんまじゃ。獣? 熊かのう」
「ほしたら危ないんじゃないですか」
「うん、どうしょうか」
「一旦、パトへ戻りますか」
ザザザザッ。
走る音は間近に、途切れない。一目散に目指す場所がここだと、もはや疑う理由がなかった。
所長と巡査長と、強気ながらも熊には勝てない。そう言って、来た道を戻ろうとする。
どうして熊が、人間を目掛けて近付くのか。その疑問には気付かぬ振りをする。
「たつ……」
「声が」
「おい、何を言うんや。やめんさい」
竜弥には聞き覚えのある。けれど耳慣れない声。闇の底から微かに響く女の声に、二人はおののく。
「たつ……や……」
ザザザザザザザザザザザザ。
下草を引き千切って走る、異様な音。竜弥の名を呼ぶ人の声が、夜の向こう側からやってくる。
「おい」
「逃げたほうが」
尋常の事態でない。本能に近い場所で、危機を認めたらしい。
先に背を向け、走り出したのは巡査長。
勇敢なわけでない。単に歳のせいで動きの遅れた所長が、巡査長のシャツをつかむ。
「やめ、やめてくださいや!」
「儂を置いて行く気かいの!」
逃げながら言い争う二人。もう彩芽と竜弥のことは、二の次なのか。互いが走るのを妨害しあって、何度も転ぶ。
そこへ
「竜弥ああぁっ!」
茂みから、結い髪の女が飛び出る。
ほつれた黒髪が長く従って、狂気を感じさせた。
「う、うわああああ!」
二人のどちらか、恐怖に悲鳴を上げる。二人ともが、地面に倒れ起き上がれない。
「竜弥! 竜弥を!」
姿は人間なのに、顔だけが狐。おさん狐は明らかに冷静さを失くし、絶叫する。
「あたしの竜弥に何をしたあ!」
これで何人目になるのか。新たな犠牲者とすべく、鋭い牙が襲いかかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます