第弐拾捌話:おさん 三
喜怒哀楽のない、かといって何かに集中しているでもない真顔。所長のそんな表情を、見たことがなかった。
「おお、若蔵くん。祭りに来とったんか」
言われてはいないが、常識で考えれば分かる。問題を起こして仕事を休めと言われた者が、暢気に祭りを楽しんでいるなど言語道断。
警察幹部は、明確に基準のないそういう気遣いをさせるのが大好きだ。立場の低い者が、高い者を立てる忖度と言おうか。
「そういやあ。出かけるな、たあ言わんかったの」
だのに、所長は笑う。
ニヤリ。
ぬめぬめと、正体の見えない粘こさ。触れられてもなく、腕からわき腹へと鳥肌が走る。先日初めて掃除した流しの排水口さえ、これほど気色悪くはなかった。
「彩芽さん。どうするん?」
「どうもしないわ。お話を聞くのよ」
「おさんがどうこうって」
「竜弥くんが落ち着かなかったから、別の話をしただけよ」
――何じゃ、その辺に居るんかと思うたのに。
何だかんだ、おさん狐は竜弥が行くと必ず待っていてくれた。出かけることはあるはずなのに、先日の一回を除いて必ずだ。
あやかしとして、人間など問題にしない肉体的な強さを持っている。健康とかでなく、ケンカをさせたらという意味で。
竜弥を気にしてくれている、そんなおさんが近くに居るなら。助けてくれるかもと思った。
――馳大さんも強いじゃろうけど、人間の身分があるし。
どうやって持ったものか、馳大には戸籍まであるらしい。そんな人を、犯罪者にするわけにはいかない。
おさんならどうなっても、というのでなく。森の中で狐が少しくらい暴れたとて、誰も問題にすまい。そういうことだ。
「さておき運転手さん。飲酒検知をさせてもらいますよ。これで測りますけえ、見てくださいや」
白手袋をした所長の手が、酒気に反応して中の色が変わるガラス管を差し出した。
不正のないよう、受ける側に器具を確認させるのは正規の手順だ。それならいくら測っても、彩芽からアルコールが検知されることはない。
「へえ、こんなに細いのね。初めて見たわ」
「まあ大概の人はそうですわな」
長さ十センチほど。直径は三ミリほどの検知管。その先に運転者の息を吹き込んだビニール袋を付け、反対から吸入器で吸う。
通った呼気にアルコールが含まれていれば、中の薬剤が反応する。
「吹けばいいのね」
「ええ、パンパンになるまで」
膨らんだ様子のない、専用の新しいビニール袋が渡された。やましいところのある人は、そっと息を吹き込んだり、無駄な抵抗をすることもある。
彩芽は大きく息を吸って、躊躇う風もなく一気に吹いた。
バッ。と音を立て、ビニール袋はいっぱいに膨らむ。
よく見るゴム風船より格段に抵抗は少ないが、それでも女性は多少手こずる。それがあっという間だ。
「それでええです。もらいますよ」
空気の抜けないよう、袋の口を押さえて。所長は慣れた手つきで、ガラス管に取り付けた。
反対に吸入器を装着し、取っ手を引く。細い管に無理やり空気を通すので、かなりの力を要する。
「え……?」
何度も見た光景に、違和感があった。すぐには何か分からず、自分でやるときを最初から思い出す。
実際に手を動かしてもみて、頭に詳細な映像を呼び起こした。
――検知管を切らなかった?
ガラス管にはアルコールと反応する薬剤が入っている。それはただの空気に触れても、劣化してしまう。
だから運転者が確認する時点まで、両端が閉じている。使うときにようやく、アンプルの首を折るのと同じに落とすのだ。
「彩芽さん、この検知管は新品じゃない!」
もう遅い。手順は進み、もう吸入も終わった。手順を巻き戻し、誤りがなかったか証明するなど出来はしない。
過ぎた段階は、正当だったという前提で行われているのだ。
「若蔵、何を言うとるんや。見てみい、反応しとるで」
「そりゃあ……」
反応前は真っ白い薬剤が、ピンク色に染まっている。振られた目盛りによると、〇・四ミリグラム。
数値だけで判断するなら、酒酔いと言われて普通の量だった。
「そんなん、おかしいですよ。本当はもう少し時間がかかる。吸入してこんなにすぐ反応するわけない」
「何や、出とるもんは出とる。これを裁判に出しても、誰も疑いやせんで?」
当たり前だ。扱うのは警察官だから、決められた通りに検査されたとみなされる。
誰が疑うものか。事前に誰かが酒を含み、反応させた検知管が使われたなどと。
「彩芽さん、この検知は不正なんよ」
「そうなの? 私には分からなかったけど」
何度か検知を受けたくらいで、正規の手順を把握できる者は居ない。それを初体験の彩芽が見抜けるはずがない。
しかし検知結果に間違いないと、同意書に署名をしなければ。まだ光明はある気がした。
「私の友人が、こう言ってるんだけど。どうなのかしら」
「彼はまだ新人ですけえ、思い違いもあるでしょうのう。サインしてもらわんでも、否認事件として送検は出来ますけえ。こっちは構わんですよ」
そうなのね、と彩芽の眼が竜弥を見る。
酒気帯びで切符を切られれば、良くて免許停止。悪ければ取り消し。泣き出す女性も珍しくない。
彩芽は微笑んでいた。どうするべきか、言いたいことはあるか、竜弥に問いかけている。
「ひ、否認事件で処理してください。ほしたらすぐ、本署の人が来てでしょう? 彩芽さんが酒を飲んどるか、その人ならすぐ分かってくれる思います」
否認事件になると、取り締まりに関わった警察官も当事者になってしまう。するとまた別の警察官が、その事件の捜査を行わなくてはならない。
この場に居る三人ともがグルだ。苛部警察署から当直の誰かが来るなら、さすがにそこまで所長の工作も及んでいまい。
「あんたぁしつこいのう、若造のくせに」
竜弥の読みは当たったようだ。所長は聞こえるように舌打ちをし、口調を変えた。巻舌ぎみでドスが利いている。
「若いけえいうて、何です。間違うとるもんは間違うとる」
「やかましい、もう証拠はあるんじゃ。どう転んでも、事件にはなるんじゃけえの」
検知管を入れた封筒を、勝ち誇ったように振る。たしかに熟練の所長が根回しをすれば、多少の不正など手違いで黙認される予感はした。
「いいのよ竜弥くん。言われた通りにしましょう」
役者が違う。勝負あったと判じたのか、彩芽は諦めようと言った。
聞いた所長は先よりも子どもっぽく、分かりやすい笑みを零す。
「ほうでしょう。否認事件にするより、認めたほうが処分も軽いですけえの」
「そうなのね。それで、もう終わり?」
「いや。まだもう少し、付き合うてくださいや」
酒酔いか酒気帯びか、判別する為の運動能力の検査。そうした後に、交通切符の作成。
言う通り、素直に従えば略式で済む。否認すれば正規の裁判になる。
――何で所長は、軽く済ませようとするんじゃろ。
でっちあげた交通切符を、賭博の件の口止め料にするつもりかと思った。だが、それなら重く扱ったほうが良いようにも思える。
否認の処理もうやむやで押し通せるなら、この場で逮捕するのも簡単なことだ。
「車の通る側は危ないですけえ。ああ、そこの横道がちょうどええ」
助手席の窓越しに見た、森の奥へ入っていく小道を所長は指さした。
運動能力の検査は、八メートルほどをまっすぐ歩けるか見る。
本当に酔っていれば、道路脇を歩かせるのは危ない。だから道路外に出るのは当たり前だが、所長が指定したのは山道だ。
「歩けばいいのね」
「いや、ちょっと待ってつかあさいや」
言われるがままの彩芽は、即座に歩き出した。三歩のところで手首を握り、所長は止める。
今度は何を言い出すのか、警戒する竜弥に手招きをした。
「おい、あんたもこっちへ来んさい。一人で歩かせたら危ないけえ、隣を歩くんよ」
「えぇ?」
「エーもビーもないわ。早う来い」
また、あからさまな脅し口調になった。
どうしたいのか全く分からない。けれども日の暮れた森の奥へ向けて歩かせるなど、嫌な予感しかしない。
――僕が行かん言うたら、どうするんじゃろ。
せめてもの抵抗になるか。動かずに居る竜弥の背に、硬い物が触れる。
「早う行け」
後ろに立ったのは巡査長。咄嗟に振り返ろうとして、背中の何かが強く押し付けられる。
「いたっ!」
「早う行け」
その感触は、金属だった。棒か筒の先が押し当てられ、早く歩けと脅されている。
これはもう取り締まりや、口止めの交渉の場でない。こちらの命を奪おうとする者たちによる、アリバイ作りの茶番劇だ。
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