第弐拾漆話:おさん 二
神社を囲う森。その只中を抜け、祭りの会場から出てくる道など、通るのは酒気帯び運転の車だけと言っても過言でない。
「何で検問なんか――」
先を走っていた車が四台止められて、順に何ごとか話している。本当に酒気帯びの取り締まりで、飲んでいないのなら、息を吐かせるだけだ。普通は免許証も見るが、省略すれば一台に一分もかからない。
立ち小便をしたりもする馳大と比べて、彩芽は道徳的にうるさいほうと言える。もちろん今日も、酒を飲んではいない。臭いも全くしなかった。
「おさん狐って知ってる?」
「え、急にどしたん? 知っとるけど」
おさんの棲むお稲荷さんの社も、避難している滝の精のところも、ここからはまあまあの距離がある。
別に神さまの使いとかではないと思うので、違う神社の辺りをうろうろしてもおかしくはなかろう。
――おさんが居ったんかな?
だとしても、いま案ずるべきは検問だ。車内を見回し、車外の様子を思い出し、違反をしていないか考える。一つでも、突かれる要素の少ないほうがいい。
――問題はない、はず。
そう思うが、安堵はできない。法令に定める要件を全て守って走ることなど、不可能に近い。警察官もいちいち捕まえられないので、「まあこれくらいは」というのを見逃し続けているのが実情だ。
――いや、そうじゃのうて。
焦っている。自分でも何を考えているのか、何を考えればいいのか、パニックに陥っていることだけが鮮明に分かる。
後ろ暗いのは自分のように思えて、あたふたと落ち着かなく身動ぎし続けた。
「竜弥くん」
順番を待つ車内で、アイドリングの中に彩芽の声が静かに冴え渡る。
返事をするのも忘れ、眼を向ける。と、彩芽の白い手が二つともハンドルから離れ、打ち合わされた。
パァン。
音色は間違いなく、拍手のそれだ。高い音が一瞬、鼓膜をキンとさせた。だけでなく、そういう音色の太鼓を仕込んでいたかと思うほど、深い響きを湛えた拍手だった。
耳の奥に「ィィィ」と余韻が残って、じきに消えていく。
間もなく跡形を残さず消えた後、焦る気持ちもどこかへ行っていた。
「どこかのお宮の、参道に居たそうよ」
「えぇ?」
「
――おさんの話?
稲荷と来て、喰い殺す、と言葉が並べば。そうかなと思えた。哀しい定めだが、そういう存在と認めぬほうが、おさんそのものを消滅させる危険を呼ぶ。
「その話は知らんけど、でもそんなことして大丈夫なん?」
「大丈夫じゃないわね。稲荷になるには人の書いた書物も読んで、たくさんの勉強が必要なのよ。
稲荷勧請帳という物を知らない。想像するにはきっと、稲荷神の眷属として認められた狐の登録名簿みたいなものだろう。
神の使いとして認められたくて、自分なりに頑張って。しかしやり方が間違っていた。願い叶わず、人を害する悪狐に落ちぶれた。
とても悲しい話だ。
「それがあの、おさんなん?」
あちらがどう思っているか聞いたことはない。聞いたとして、本心を言うこともなかろう。
もしも言うとしたら、竜弥が嫌われている場合だ。そのとき彼女は躊躇いもなく、「喰い殺してやろうか」と言うはずだ。
だが、違うと信じている。彼女一流の照れ隠しであって、親しく思ってくれていると。
――できれば友だちいうて、思うてくれとったらええんじゃけど。
人間の価値観と。人間の感情と。あやかしのそれらは同じなのか。あやかしにとって、友だちとか仲間とか、そんな存在を何と呼ぶのか。
何でもいい。何でもいいが、おさんに認めてほしかった。
おさんだけでなく、豊山町に棲む全てのあやかしたちに。
――認めてくれたんじゃった。
考えているうち、先日の料理屋での会話を思い出した。
馳大は言った。どういう方便なのか名義は何でもいいが、竜弥を好いていると。彩芽も同じだと頷いてくれた。
あれはおそらく、いま竜弥があやかしたちに抱くのと同じ気持ちだ。分かっていたつもりが、ようやく今さらに理解した。
「あの、おさん。かは知らないわ。おさん狐は全国に居るし、旅人を誘って喰い殺すっていう悪い面だけが似ていて、広まった呼び名でしょうね」
「今の話とは違うても、何かはあったんかもしれんね」
あるいは何もなかったのかも。
人を喰い殺す、おさん狐というあやかしとして生まれたから。竜弥の知る彼女そのものに過去はなくとも、そうしなければ生きていけない。
あやかしをよく知っているつもりで、気付かなかった切ない因果だ。
「やあお手数かけます! 交通安全の検問をさせてもろうとります!」
大きな声が、想いの淵から現実へ引き戻した。運転席の窓の外へ、グレーの制服が見える。
前に居た車の姿は、既にない。待った時間は五分ほど。四台ともが、取り締まるべき違反をしていなかったというのか。あり得ぬことだ。
ゆったりした動作で、窓ガラスを下ろすのに彩芽は腕を回した。
開くとすぐ。待ちきれぬように、警察官の顔が突っ込んでくる。
「いやあお姉さん。お忙しいとこ、すんませんね」
「構わないわ、何かしら」
誰かと思えば、剛人の家へも一緒に行った巡査長だ。セルボの前で赤い灯火を翳しているのは、警邏に同行した巡査部長。
――この二人も、なんか?
リストに載っていたのかもしれない。しかし所長の名に、インパクトがありすぎた。今から確認する猶予もないだろう。
重要な証拠品である写真を、そっと尻のポケットへ隠す。
「んん? お姉さん、こりゃあいけん」
「どうしたの?」
わざと下手くそに見せているのか。というほどわざとらしく、巡査長は車内の空気を嗅ぐ素振りをする。
酒の匂いだけで酔う竜弥に感じられない酒気を、酒好きのこの男が感じられるはずもないのに。
「ちょっと免許証を見せてもらえますかいね」
「それはいいけど、何だって言うの?」
あくまで柔らかく、彩芽は用件を問う。免許証も出すのを拒まない。バッグから取り出し、手渡した。
「守塚さん、ですかね。詳しい話を聞きたい思うんで、車をそこまで移動させてくださいや」
巡査長は免許証を預かったまま、少し先を指さす。ちょうど車の分だけ、道路幅が膨らんでいる場所を。
「先輩、本当に何だって言うんですか。違反なんかしとらんじゃあないですか」
酒気帯びの検査などするまい。腰を据えて尋問する、のか。彩芽と竜弥がどこまで知っているか、限りなく脅迫めいた尋問を。
そうやってあちらの都合のいい状況を作るのは良くない。どうにか抗おうと、慣れない怒気を装って文句を言った。
「おお、こりゃあ若蔵。偶然じゃのう、この人と知り合いか?」
「偶然って――」
「まあ、ええけえ。こっちは仕事じゃ、早う移動させてもろうてくれ」
ええけえ。って、良うないですよ。と反論したかったが、巡査長は数歩の距離を取り、手を振って早く進めと指示する。
彼が真横に居ては車を動かせないのだから当然と言えば当然だが、聞く耳持たないという態度が見え見えだ。
「オーライオーライ」
歳に似合わない機敏な動作で、巡査部長が停止位置に誘導した。
たった数メートル移動しただけなのに、嫌な場所だ。三台分ほど空いた前に、白黒のファミリアが停められている。頭上には枝が覆いかぶさって、宵の景色が一層に暗い。
助手席から、森の奥へ続く小道が見えた。手入れされて見通しは良いが、夜に見れば不気味ではある。
「さあ、降りてつかあさいや」
巡査長が催促する。
もう一度何か言おうか、竜弥が口を開きかけると、彩芽が手を握った。
「いいから。どんなお話をするのか、聞いてみましょう?」
反対の手で、彩芽はもうドアを開きかけている。点灯した室内灯が、ふわりと揺れる彩芽の前髪の影を濃くした。
真っ赤な唇も艶を増し、なまめかしく動く。そんな言葉に反抗する術を、竜弥は持っていない。
「どこでお話するの?」
背すじを伸ばし、すらと立つ彩芽。彼女がセルボの前へ回ったので、竜弥もそちらへ歩く。
するとファミリアからも、誰か降りた。居るだろうと予想のついた、所長がこちらへ歩み寄ってくる。
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