第弐拾伍話:おおがらす

 あやかしはそれぞれ、実に様々な姿を持つ。一般にもよく知られる、怪火や化け狸のような者。

 見た目にも怖ろしい、骸骨や腕に無数の眼を持った女。

 さすがに龍には出逢ったことがないけれども、人との間へ生まれた子には逢った。


 ――みんな怖いと思ったけど、馳大さんはまたちょっと違ったのう。


 竜弥が高校三年生に上がる年の春。

 かくげんさんに会ってみたい。彩芽と馳大に頼まれ、父の実家へ行った。


「意識を持ったばかりのあやかしはね、危険なのよ」

「僕、何もされんかったけど」

「そうじゃなくて、不安定だから。人の世の狭間で生きていけるか、害を振り撒くばかりになって消滅するか。その瀬戸際ってこと」


 四角い目の、赤いセルボ。彩芽の愛車は、後席の天井が低かった。おまけに何が入っているやら、大きなクーラーボックスが隣を占拠している。尻をずり下げて座るか、屈んでいるか。どちらかで腰が痛くなってしまう。

 宮島口から三時間以上。安全運転という名の苦行を終えて到着した父方の実家は、少し荒れて見えた。

 祖母の葬儀から半年。風を入れるくらいはしていると聞いていたが、それだけだったのだろう。伸びた草木がそのままだ。


「ああ――ごめんなさい」

「何を謝るの? こういうのは、出来る人がすることよ。竜弥くんは、ここまで来るのもひと苦労じゃない」

「そうそう。でもまあせっかく来たんなら、草刈りくらいするか」


 片や白のタイトスーツ。片や黒のフォーマル。野良仕事をする格好ではないのに、二人ともすぐ取りかかってくれた。


「こりゃあ精が出ますの。若蔵さんのご親戚ですかいの」


 途中、町の広報車が目の前を通りかかって止まった。用件はスピーカーで流していたので、聞かなくとも分かったが。


「孫です。掃除をしてます」

「ああ、そりゃあそりゃあ。故人も喜んででしょうて」


 役場の職員であろう男性は、祖母を家族のように言って喜んでくれた。しかし仕事を放っておくわけにもいかないと、本題を告げる。


「愉快犯らしいんじゃけど。最近、放火が多いんですわ。気ぃ付けてつかあさいや」

「へえ、危ないですね。分かりました」


 それから二十分ほど。男性は祖母や家の周囲のこと、彩芽と馳大は知り合いか。あれこれ思い付くままに話し続ける。


「あの、仕事が残っとるんじゃ?」


 いよいよ終いにはそう言って、ようやく立ち去った。


 ――ばあちゃん、こんな田舎に一人で何するんかと思っとったけど。こりゃあ忙しいわ。

 草刈りは、三人掛りで三時間。馳大は脚立に登って、植木の剪定までもやってくれた。

 合間に近所の人がやって来て、世間話にも応じた。

 これを老いた祖母が一人で。労苦と楽しみと、どちらが勝ったのか竜弥には計り知れない。


「この離れね。鍵はあるの?」


 外に備えられた蛇口で手や顔を洗い、ようやく対面に向かう。離れに通じる飛び石は、早咲きの花に囲まれていた。

 これならば友人を紹介するのに相応しい。そんな気持ちを抱いて、母から預かった鍵を取り出す。


「うん。竜弥くんの思い込みとかじゃないわね。まだ数年とは思えない精気を感じるわ」


 扉を開け、入ってすぐの階段に、竜弥が一歩足を乗せる。するとそれまで閉め切って淀んだ空気に、押し返すような圧力が加わる。


「かくげんさん、僕よ」


 二階へ向け、声をかける。

 すると風が、さあっと吹き抜けて戸口から外へ出ていった。それで離れの中が、県北の涼やかな空気に満たされる。


「初めまして、守塚彩芽よ」

「深山馳大だ」


 いつもの窓辺に、かくげんさんは居た。ずっと日に晒されているのに、最初に見たときから日焼けが進んだとは見えない。

 二人は深くお辞儀をして、名乗る。いつ、どこで生まれようと、あやかしに上下はない。出来ることに違いがあっても、そこに優劣はない。

 いつだったか、馳大が言っていた。


「おお、こいつは丁寧な挨拶だ」


 歌舞伎の見得を切るように。かくげんさんは首を回し、腕を振って睨み付けた。

 竜弥も初めて見る動作だったが、厭な圧力は感じない。歓迎を顕しているようだ。


「何をするん?」


 会って、どうするのか。竜弥に関わるあやかしとして、必要な儀式を行うとしか聞いていなかった。

 まさかリトマス試験紙のようなものを使って善悪が測れるとか、そんなことでもあるまい。


「何って、新しい仲間を歓迎するのよ」

「右も左も分からなきゃ、誰だって道を間違えるからな」


 かくげんさんは、独りでない。仲間が居るのだと教えてやる。それが儀式だと彩芽は答えた。

 そうすれば妙な悪意に染まる率が低くなるからと。


「どれがお好みかな?」


 日本酒とビールと赤ワイン。クーラーボックスから出された飲み物が、掛け軸の前に並べられた。

 馳大の問いに、かくげんさんは何度か視線を往復させる。が、最終的に赤ワインへ鋭い眼光が刺さった。


「お、挑戦してみるか」


 彩芽は日本酒。馳大はビール。竜弥にもオレンジジュースがあった。

 かくげんさんが飲食できるなど知らず、供えたことはない。どうやって飲むのか興味津々で見ていると、実際に置いたワインを触れるわけでなかった。

 コップか盃かを持っているように、かくげんさんは右手を口許へ運ぶ。何度か繰り返していると、青褪めて描かれた頬に朱色が浮かんだ。


「気に入ったらしいな。食い物もたくさんある。いくらでもやってくれ」

「竜弥くんもね」


 宴会など、竜弥も経験がない。わざわざ仕出し屋で作らせたらしい料理が、紙の容器に溢れんばかり。

 揚げ物と煮物。サラダや揚げ出し豆腐。巻き寿司にいなり寿司。適当に見繕った紙皿も、かくげんさんの前へ。賑やかで楽しい時間が、ゆっくりと流れていく。


「さて、いい加減に寝るか」


 馳大が言ったのは、もう午前零時を回ったころだ。

 さすがの酒豪も夕方から飲み続けては酔いが回ったらしい。多少ではあるが、呂律が怪しかった。


「そうね。まだ飲み足りないけど、竜弥くんの教育に良くないわ」

「飲み足りんのん?」


 かくげんさんは、もう随分前から動かない。眼を閉じて、眠っているようだ。

 空けられた瓶は、種類を問わずおよそ二十本。彩芽と馳大の二人で、しかも飲むスピードに二倍ほどの差があった。


「冗談よ」

「ああ、そうなんじゃ。さすがに――」

「ええ。さすがにお酒なんかで、今さら酔わないわ」

「へ、へえ」


 彩芽も時に冗談を言う。このときのどこまでがそうかは、判断の分かれるところだ。

 ともあれ三人は、眠ることとした。かくげんさんの部屋は狭いので、幼いころいとこたちが遊んでいた大きな部屋で。


「かくげんさんが悪いあやかしになるかならんか、占いで分からんの?」


 寝る前に、そういえばと思い付いて問うた。それで分かるのなら、儀式をしてもしなくても同じな気がしたのだ。


「分からないわ。あやかしも人間も、ちょっとしたきっかけで先のことなんて変わるものよ。その可能性の全部を見たって、意味がないでしょう?」

「いい未来も悪い未来も平等で、進み方次第ってことなん?」


 キャミソール姿で布団に入った彩芽を、なるべく見ないように。していたのだが、なかなか返事がなかった。

 気になって眼を向けると、切れ長の眼がじっと見つめて笑った。


「ええ、そうよ。自分がどれだけ気を付けていても、他の誰かに変えさせられることだってあるの。こんな風にね」

「なるほど、よう分かったよ」


 照明を消し、明日は近くの温泉に寄って帰ろう。そんな会話を最後に、竜弥は眠りに落ちた。ここまでの道中と草刈りと、疲れが一気に意識を刈り取った。


 ――ん、何か臭い。

 次に感じたのは、焦げ臭いにおいだ。寝ぼけた頭に、母親は何の料理を失敗したのかと考える。

 だが今は、祖母の家の離れに居る。思い出して、飛び起きた。

 見回すと、彩芽と馳大が居ない。どこか近くで、ガタガタと音がする。


「竜弥くん、逃げなさい!」


 彩芽が戻ってきた。部屋の入り口で、緊張した叫びを上げる。冷静さは失っていないが、ただ事でないのが明らかだ。


「えっ、何が⁉️」


 逃げろと。その言葉には従った。布団を撥ね除け、枕許に脱いでいた服を引っつかむ。

 彩芽たちの持ち物も見たが、もう何も残っていない。


「火事よ! 昼間聞いた放火だわ! 誰かが火炎瓶を投げ込んだの!」


 平和に育った竜弥に、火炎瓶がどんなものか想像がつかない。ただ投げ込まれたというそれが、この部屋でない。即ちかくげんさんの部屋とは、すぐに気付いた。


「か、かくげんさんを助けないと!」

「深山くんが行ってるから!」


 あやかしといえ、かくげんさんは掛け軸にすぎない。置かれたその場から、自力では動けない。

 聞いて安堵し、では逃げようというところで馳大が戻ってくる。彩芽の背を突き飛ばす勢いで部屋に入り、慌てて扉を閉めた。


「もうこっちは無理だ。怖ろしいほどに回りが早い」


 閉め切られたまま、乾燥しきった建物。保管されているのは、木や紙製の物ばかりだ。一度火が点けば、あっという間なのが想像にも難くなかった。


「じ、じゃあどうやって逃げよう。他に出口はないんよ」

「そこがあるさ」


 一階を納屋にしている二階は、通常の三階に近い高さにあった。馳大の指さした窓は、たしかに残された唯一の脱出口だ。しかし怪我なく降りるのも、また難しい。


「し、死ぬよりはましじゃもんね」


 仮に骨折したとしても、それは治る。極限の選択など、いともあっさり迫られるものと竜弥は知った。

 だがその覚悟に、馳大は首を横へ振る。


「大丈夫だ。俺に任せろ」

「どう――」


 どうするつもりか。

 聞こうと口を開いたと同時、視界が塞がれる。何か真っ黒な物が目の前に立ちはだかった気がしたが、はっきりとは見えなかった。

 ぐん。と、急激な移動を感じた。まずは横に動いて、ガラスの割れる音。それから下方向へ、落下したのが分かる。


 ――落ちる!

 衝撃に備えて身を固くしたが、最後にふわっと浮き上がる感触があっただけだ。

 足の裏にたしかな地面の感触があって、周りを覆っていた何かが離れていく。そのときようやく、柔らかい羽だと気付く。


「えっ……」


 畳まれる翼。彩芽と竜弥とを離れの二階から連れ出したのは、真っ黒で巨大な鳥。大きすぎて、すぐには鴉だと分からなかった。


「とうとう見せちまったな」


 スポンジから水が引くように、黒色が褪せて人の肌に戻る。現れたのは、幼いころからよく知った馳大。

 何が起こったのか、竜弥は声もなく。脳裏に何の言葉も浮かべられない。

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