第弐拾弐話:まつり 二
国道二百六十一号線沿い。中国縦貫自動車道のインターチェンジにも近い場所へ、古びた喫茶店がある。
主幹派出所からも、徒歩で数分の距離だ。飲食店を含めて店と呼べるものは周囲になく、派出所へ出前もしてくれている。
間口は三間ほどもあり、一面がガラス張り。にも関わらず中は暗く、外からでは中を窺えない。竜弥が店へ入るのは、初めてだった。
「もう来とってんかな」
総ガラスの片開き戸を押し開けると、金属の風鈴に似た音が響く。店内から一斉に押し寄せた冷えた空気と合わせて、逆に盛夏を思わせた。
薄汚れた赤い絨毯を踏み、見回す。すると奥で振り返り、手を振る人物が目に入った。
「お待たせしてすみません」
「いや急に呼び出したけえ、それはしゃあない」
店の最も奥。角に置かれた、二人がけのテーブル。所長は既に、ホットコーヒーのカップを空にしていた。
「あの、何でしょう?」
「まあ先に何か頼みんさいや」
熱い風呂を堪えるように、所長は眼を閉じて腕を組んだ。
何だろうと思いはしたが、喫茶店で何も頼まないのも不作法ではある。三角に折った品書きを取って選ぶ。
「お決まりですか?」
品書きを置いてすぐ、店主の男性が声をかけた。伝票挟みを手に、二歩離れて。
「あ、お代わりもらえるかね?」
「かしこまりました」
「えっと、僕は紅茶をください」
「かしこまりました」
普通に話すと廣島弁の店主だが、業務としての会話は標準語と決めているらしい。語彙にバリエーションが少なく、一見で訪れた客は無口な人だと思うだろう。
――こっちから聞くべきなんかな?
店主がカウンターへ戻っても、所長は態勢を変えない。警察内部の話を部外者に聞かせるのはまずいので、注文が来てからということか。
けれどもそれなら、話す場所にここを選ぶのがおかしい。
考えても結論が出ず、しかしどう見ても話そうという雰囲気が所長にもなく。互いに黙ったままの、竜弥には気まずい時間が過ぎる。
「お待たせ致しました」
十分足らずで、コーヒーと紅茶が運ばれた。お代わりと言っても、コーヒーは新たに淹れられたものだ。
「奢るけえ、まあ飲みんさい」
「え。ありがとうございます」
コーヒーは二百八十円。紅茶は三百二十円。奢ると言うなら、先に告げてほしかった。分かっていれば、同じくコーヒーを頼んだのに。
ガラスのティーカップを傾けると、所長もコーヒーを啜った。吸い込む空気の音が、やけに大きくて長い。
「ほいでのう」
ようやく切り出された。中身の減ったように見えないカップを置くのが、心なしか乱暴だった気がする。
「はい」
「はい、じゃあないわいや」
「えぇ?」
山の天気も、これほど急激には変わらない。感情の見えなかった所長の顔が苦み走って、怒りを堪えていると全面に示した。
「あんたぁ、言わにゃあいけんことがあろうが」
「言わんといけん――」
自分の言い分がはっきりしていても、あえて言わないことで相手は裏読みをする。そうして意図していなかった情報まで得るのは、警察官の常套手段だ。
だが竜弥は、咄嗟に何のことか分からなかった。寝起きでやってきて、まだぼんやりしているせいもある。
「やましいことがあるじゃろう、言うとるんよ」
「やましい?」
後ろ暗いこと。恥ずべきこと。
そう言われて思い至った。昨夜のボヤ騒ぎのことかと。
田舎の治安を保つ為には、なあなあで済ますべき場合もある。だが警察官たるもの、杓子定規に法を当て嵌めることにこそ意義がある。
所長も大岡裁きをすることはあるが、どちらかというと堅い判断をする。
「いやあれは」
「あれ? 認めるんじゃの」
「いえ、ですけえ認めるも何も――」
「あったんか、なかったんか。どっちか、いうて聞きよるんよ」
テーブルにあった所長の手が持ち上がり、天板を叩く。それほど強くはない。が、砂糖入れや爪楊枝のガラス容器がぶつかって、カチャカチャと音を立てた。
警察署や派出所ならともかく、全くの部外者が居る場所で叱られたことはない。店主を盗み見ると、何も聞こえなかった風に店の入り口を眺めている。
「ありました……」
「ほうか」
認めると、言葉に含まれていた怒気が急に萎む。なおかつ仕切り直すように、コーヒーをふた口ほども飲んだ。
あまりにゆったり飲むので、これで話は終わりかと勘繰りそうになる。そんなはずもなく、間の持たない竜弥は温くなった紅茶を一気に飲み干した。
「ほいじゃあ、辞表を書きんさい。理由は一身上の都合でええけえ」
「辞表って、辞めえいうことですか」
「当たり前じゃろう。恥ずかしうないんか、それだけのことをしといて」
おもむろに。始末書を書けと言ったときより気軽な口調で、とんでもない指示が下された。
消防に通報すべきを怠った。それはもちろん、事情を抜きに考えれば不祥事だ。監察室などに知られれば、多少の減給くらいあるかもしれない。
しかしその程度だ。監察官とて鬼ではない。法律と地元住民との板挟みな、駐在所の実情を鑑みてくれる。
――いきなりクビって。
辞表を出せと言うのだから、自主退職にはなる。けれど「書いてはどうか」でなく、「書け」と言われた。
「お言葉を返すようですみません。良くないこととは分かっとります。でも、いきなり辞めんといけんほどですか」
「当たり前じゃろうが。今日日の若者の価値観は知らんけど、儂なら恥ずかしぅて首ぃ括るわ」
「ええ!?」
羞恥に堪えかねて、首を吊る。所長は自身の手を首に当てて見せた。
いくら何でも、それはおかしい。世代間のズレなどでない間違いがある。
「今さらですけど、僕の何が問題なんか教えてもらえませんか」
「はあ? まだとぼける気かいの。それとも恥ずかしい、いう気持ちがないんか?」
「いえ本当に分からんのです」
やれやれと、所長は苛つきを隠さず頭を掻く。それから顔を竜弥に近付け、声を潜めて言った。
「あんたぁ昨夜、駐在へ行ったろうが。旦那の居らん若い奥さんのところで、何をしよった言うつもりや」
――そっちか。
そういう話なら、クビと言われても仕方がない。ただ家に行っただけでなく、空き巣紛いのことまでした。誰が見ていたやら、これほど早くに露見するとは思わなかった。
ただ馳大の存在は、知られていないように思える。知っていれば、辞表の話よりも前にそれを聞くはずだ。
「木場さんがどこへ行ったか、ヒントになるもんがないか思うたんです」
微妙に嘘を吐いた。馳大のことを隠したかった。どうせ記録にも残さないこの件で、所長の認識を改めさすことも出来ない。
――でも奥さんに申しわけない。
あれほど木場の安否を想う女性を、不貞の相手と認めるわけにはいかなかった。
「あののう。あんたが夜中に訪ねて、奥さんが気安う招き入れたのを見た人が居るんで? そんな言いわけが通じる思うんか」
――空き巣のほうじゃないんか。
そっちと言うなら、やましいところは何もない。隠すこともない。
だが世間一般に、疑われても仕方のない時間だったのもたしかだ。現に所長は、何を言っても信用するつもりがないらしい。
ならば、と竜弥は覚悟を決めた。
――譲れんことだけは、言わせてもらう。
「僕はたしかに、木場さんの奥さんを訪ねました。でもそれは、木場さんを捜す為です。奥さんに聞いてもらえば分かる思います」
「奥さんに? あんたが辞めりゃあ丸く収まるもんを、大ごとにせえ言うとるんか」
気付かなかった。木場の妻にまで事情を聞けば、傷心の身にくだらない疑いまでかかったのを知らせてしまう。
「それは良くないです。じゃけえ所長が信じん言うなら、仕方ないです。でも僕は、仰るようなことはしとりません」
せめても我を張ったつもりだが、単に意固地に見えたかもしれない。
所長は困惑した様子で、大きなため息を吐いた。
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