第壱拾玖話:ばくち   三

 警察施設の証。入り口の軒から下がった、赤い門灯。もはや見慣れて、風景に紛れたただの一色に過ぎなかった。

 その印象を改める日が来るとは、思ってもみない。それも怖れる側の心境で。

 赤い光以外に、住居部分も含めて豊山駐在所へ灯りは認められなかった。


「どうするん?」


 主の居ない駐在所の入り口は、錠がかかっているはずだ。同じく玄関も。木場の持ち物を見るなら、それをどうにか中へ入らねばならない。

 聞こえたか怪しいレベルで潜めた声に、馳大は身振りで答えた。

 立てた親指が、蛇腹のフェンスを指す。内側へミニパトのジムニーが置かれ、奥はささやかな庭だ。


「庭から入るん?」


 面した国道は、ほとんど直線と言って良いほど、緩やかに曲がって伸びる。左右を見渡しても田畑だけで、動くものはない。

 見通しが良く、誰か来ればすぐに分かる。が、こちらの気付けないどこかから見られているのではと背すじが寒くなった。


「乗り越えたら音が鳴るんじゃ――」


 フェンスに触れると、全体が揺れた。左右の端が支柱と繋がっているだけで、間は宙吊りだ。無理もない。


「問題ない」


 短く請け負う馳大の口に、もうタバコはなかった。ここへ来るまでに指先で火を消し、また後で吸うからとポケットへ収めていた。

 その手が竜弥の肩を抱く。不思議とタバコの臭いはしない。コーヒー豆の甘く香ばしい匂いが、ほんのりと鼻をくすぐる。

 コツ。と小さな靴音をさせて、馳大はフェンスを跳び越える。ちょっとリズムを取ってみたというくらいに、つま先を動かしただけで。


「っと。そこよ」


 前置きなく、急加速するエレベーターに乗せられた心地だ。出かかった声さえ、腹の迫り上がる感覚に押し潰された。

 薄い吐き気を飲み込み、二箇所ある掃き出し窓の一方を指さす。酒の瓶やカメラのあった部屋だ。


「鍵が」


 駄目で元々ということか、馳大は普通に掃き出し窓を開けようとした。しかし当然に錠がかかっていて動かない。

 口を出そうとした竜弥に「任せろ」とばかり、手の平が示された。

 その手がそのまま、ガラスの向こうのクレセント錠を煽ぐように動く。すると閉まったカーテンが、渦に絡まった。ほんの一瞬で元に戻ったけれども。


「開いたはずだ」


 馳大はもう一度、掃き出し窓を引く。今度は抵抗なく、掃除の行き届いたレールを滑る静かな音だけで開いた。

 手を触れずに錠開けが出来るとは知らなかった。しかし竜弥には、驚くほどでない。


「先に入るぞ」


 これ以降は喋るなと、馳大は唇に人さし指を当てた。そうしておもむろに、地面から三十センチほど高い床へ上がる。革靴はその場に脱いで。

 順番を待つ竜弥は、他人から見られる位置に置いて行かれた気分に襲われる。時間で言えば、ほんの十秒ほどというのに。


 ――しまった。

 慌てたせいでカーテンを引っ掛け、シャッと駒がレールを走った。振り返る馳大の眼が、睨んでいるようで怖ろしげだ。


 ――起きんとってくれ。

 じっと動かず、気配を殺す。薄い砂壁を隔てて隣に、母娘は眠っているはず。

 今にも夫人が悲鳴を上げるのでは。

 居るはずのない木場が、妻子の危機に駆け付けるのでは。

 話せば分かってもらえるかもしれないが、言い逃れできない。妄想が胸を高鳴らせ、その音までも聞かれる気がした。

 強く胸を押さえたまま三、四分。いや実際には三十秒ほど、脳天から足の先までを凍り付かせた。


 ――何も聞こえん。

 静まり返った屋内に、動きはない。馳大も指で、マルを作った。

 カラカラになった胸の空気をそっと吐き出し、新たに取り込む。


「刑法第一三〇条、現に人の住みたる建造物へ侵入する罪」


 警察六法のページを思い浮かべ、条文の解釈をボソボソ口ずさんだ。

 自分は今まさに、罪を犯している。これに比べれば、先ほど気休めを言うくらいはどうということもないだろうに。

 しかし木場を救う為に、正しいのはこちらだと思う。


 ――いや、正しうのうてもええ。近道には間違いないんじゃ。

 血の気の引いて借り物のようだった身体が、いつもと同じに言うことを聞き始めた。


 そのパネルですと考えても、テレパシーを使えるとは聞いていない。馳大は全く音をさせずに四枚のパネルを眺め、酒瓶やカメラなどにも視線を這わせた。

 ガラス戸を開けることもなく、短い時間だった。侵入から三分も要していまい。たったそれだけで、外へ出ようと指が向けられる。


「……何か分かったんです?」


 入ったのとは逆の手順で脱出し、DRを置いた場所へ戻った。もちろん吐き出し窓のクレセント錠も、元に戻して。


「一つだけな」


 腕を組んで、考えごとをしている風だった。だから何も分からなかったのだと、竜弥は考えた。

 だが答えは指を一本立てて、分かったと。


「木場って男は、かなりのカメラ好きだ。ロクヨンゴがあった」

「ロクヨンゴ?」

「ブローニーフィルムだよ、本当は一二〇って言うんだが。素人は使わないとまでは言わんが、ちょっとやってみた程度で扱うもんじゃない」


 カメラにフィルムは必須だろうが、ブローニーとは聞いたことがない。もう少し聞くと普通に見かけるフィルムよりも大きく、カメラ本体も相応の物が必要になるようだ。


「レンズもきっちり、三十五と七十と二百ミリ。ぼかしたり、広角で手前を引っ張ったり。少し齧ったくらいで知ってる技術じゃない」

「プロに習ったりとか?」

「だな。本屋で探しても、教科書はないよ」


 馳大は写真で収入を得ているのだから、プロと呼んでいいだろう。その彼が言うのだから、疑う余地はない。

 けれどそれなら、木場の妻はどうして思い至らなかったのか。

 聞くと馳大は、難しい話でないと言う。


「そのことしか見えなくなって、思うままあちこち撮りまくるってのも熱中だろうがな。普段あれこれ考えて、こうしたらいいのが撮れるんじゃ? ってのを思い付いて、初めて現地に行く奴も居るんだよ。俺がそうだ」


 なるほどと思う。とにかくやってみるタイプと理論的に突き詰めるタイプは、どんなことにもそれぞれ居る。

 どちらが正しいでもなく、性格なども含めた取り組み方の違いだ。

 もう一つ思うのは、たしかに馳大も突き詰めるタイプということ。普段それほどおしゃべりな印象はないが、カメラのこととなると語彙が増える。


「じゃあやっぱり木場さんは、ばくちに憑かれたんじゃね」

「可能性は高いな」


 絶対でないものの、失踪の原因は分かった。ならば後は、ばくちを探せば良いのだ。

 それにしたって竜弥には出来ないが、おさんに頼み込めば手伝ってくれるのではないか。もっと確実なのは、彩芽に金銭を支払って占ってもらうことだ。

 馳大以上に気は引けるが、無闇矢鱈に木場を探せと言うのでない。人間を悲しませ危害を加えようとする、あやかしを探すのだと。大義名分がある。


「あれ――それが分かったんなら、何を悩んどったんです?」

「悩むってほどじゃない。調べりゃ分かるだろうが、何でだろうなって考えてたんだよ」


 大したことではないと示すように、馳大は腕組みを解いて両手を振って見せた。


「調べる?」

「ばくちが木場に憑いて、どこかへ行った。それはまあ、そうなんだとしよう」

「ええ」

「でもな、するとおかしいんだよ」


 おかしいのは俺の頭か? と、おどけて。整髪料で固めた髪を弾く。何がおかしいのか、竜弥にはまだ分からない。


「まだこの町は、ばくちの臭いがする。一箇所からだ。でもそれは、彩芽がお前に会いに来た日から位置が変わってない」

「ばくちの臭い。彩芽さんが来た日?」


 意味するところを理解するのに、少し考えた。

 彩芽が来たのは、木場が失踪するより前のこと。だのに今もその時と同じ場所から、ばくちの臭いがする。


「……ええ?」


 呑み込んだ竜弥も、疑問に首を捻る。

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