第壱拾陸話:ひかげ   四

「最近どうも嫌な臭いがすると思ったんだよ。それをお前さんが連れてくるもんだから、慌てて退いたね」

「臭い?」

「そうだよ。ばくちは人間の昂ぶった感情に憑くのさ。そのとき、元になった物の臭いをさせる」


 いまひとつ、要領を得ない。彩芽などと違って、話すことを生業にしていないのだから仕方がないけれども。

 ばくちとは、博打のことでないのか。先入観を外し、先日のことを思い出す。


 ――あの日、僕が出会ったのはシイと剛人さんじゃ。ああ、馳大さんも居ったんかな。

 着けていたと言うなら、監視していたはずの馳大だろう。彩芽だったのかもしれないが。


「何の臭い?」

「賭場だよ。タバコと酒と、銭。そこに人間の下衆な感情が落ちれば、世にも外道な臭いになるのさ」

「え。やっぱり博打なん?」


 あの二人が、そんなことをするだろうか。馳大はタバコを吸うし、彩芽も酒は飲む。しかし博打は――馳大がスロットくらいはしていそうだなと思った。


「それって、あやかしなんよね。どんな見た目だったか分かるん?」

「知るわけないだろうさ。鼻が曲がる前に、逃げちまったんだから。またお前さんが来るかと思って、何度かは戻ったけれどね。まだ臭かったよ」

「今も?」


 彩芽と馳大の存在を、伝えて良いものか。

 悪い理由があるではないが、余計な波風という気がした。もちろん解決すべき問題があるなら別だが。


「今はしないよ。ここは遠いし、ジジイの水があるしね」

「水が守ってくれるん」


 何となく、そんな想像はしていた。しめ縄は結界の役割りと聞いたことがあるし、逃げ込むにはちょうど良いのだろう。


「ほれ、行灯を向こうへむけてみい。儂の気が届く限りはその程度、問題ない」


 暇を持て余した様子で髭を撫でていた滝の精は、竜弥の後ろを指した。言われるまま光を向けると、極小サイズの蛍でも踊るように、虹色の球が無数に乱舞する。


「滝の飛沫が――」


 細かな水滴が風に乗り、下に置いてきたDRの辺りまでも届いている。


「他のあやかしたちも、どこかへ隠れとるんかな」

「だと思うよ。それぞれ自分なりの隠れ家くらい、持ってるもんさ」


 ふうっ。と、安堵の息を吐く。二つの意味で。

 一つは竜弥が、あやかしたちに嫌われたのでないこと。木場が消えたのとも理由が異なった。

 もう一つは、くさいと言うのが馳大や彩芽でないこと。少なくともどちらかは、たった今もこの近くに居るはず。それなのにおさんは、遠いと言った。


「じゃあ木場さんは、ばくちに憑かれたいうことじゃろうか」

「誰だい、そりゃあ」

「仕事の先輩よ。一昨日の夜から、居らんようになってしもうた」


 尋ねた割りに「へえ」と、おさんはつまらなそうな返事をした。おもむろに懐から煙管キセルまでも取り出して、草を詰める。

 口からふっと緑色の狐火を吐き、煙をくゆらせ始めた。べたりとしたヤニの感じはなく、野焼きのような素朴な匂いだ。


「どうしたかは知らないけど、憑かれたのかもねえ」

「僕を着けとったなら、どうして僕に憑かんかったんじゃろ」

「憑く理由がないのさ。お前さん、三度の飯より熱中するものがおありかい?」

「博打はしないよ」


 即答したが「そうじゃあない」と、おさんは首を横に振った。


「何だっていいんだよ。目の色を変えて、気持ちを昂ぶらせるものならね。ばくちはそういう人間の感情を強くして、最後にその元を奪うのさ。その落胆を、あれは喰う」

「たとえば、お菓子が好きとかでもええってこと?」

「そうだね。そうしたらばくちは、砂糖の臭いだけをぷんぷんとさせる。荒事が好きなら、血の臭いだね」


 それならば竜弥が憑かれる心配はない。木場が熱中していたことがあるかも、夫人に聞けば分かるはずだ。


「ばくちの憑いた人間の前で、もっと強い昂ぶりを見せる。すると奴は移り気だからね、すぐに乗り替えちまうよ。お前さんと同じさ」

「僕が移り気?」


 浮気者のごとく言われても、誰に対しても恋心を持ったことさえない。

 分かっているのかいないのか、おさんは誘うように指を動かした。一本ずつが別の生き物であるかに思える。

 竜弥に性の経験はなかったが、そういう手つきだと察せられる妖しさがあった。


「違うとは言わせないよ。あたしというものがありながら、あちこちであやかしに声をかけてるじゃないか。今だって、またあんな幼いのを連れてきてさ」

「今?」


 気付いているのかと驚いた。が「幼いの」とはおかしい。向けられた流し目も、立っている岩肌を下ったほうへ。

 そこには先の見えない林道と、覆っている木々たち。乗ってきたDRしかない。


「あれは、ひかげだよ」

「あれって、僕のバイクが?」

「そうさ、あの鉄馬にあやかしが憑いてる。なんの因果かこんなところへ連れられて、かわいそうに」


 その言い分だと、バイクそのものが命を得た付喪神ではないらしい。乗った人間より先に機械へ憑くとは、物好きなあやかしも在るものだ。


「ひかげが憑いた物は、必ず付喪になるよ。お前さんが大切にして、あの子が感謝している証さ」

「そうなんじゃ――あんまり大事に出来とらんけど」

「それなら、これからでも大切にすることだね。ひかげが影のうちはいいけど、陰になると面倒だよ」


 どういう意味か、もう一度聞いた。だがおさんは「言ったままさ」と、詳しく説明する気がない。


 ――また彩芽さんに聞けばええか。

 それよりも重要なことを、おさんはいくつも教えてくれた。

 竜弥を横目に見逃して木場に憑いたらしい、ばくち。乗り移るまでには、ある程度の時間が必要でもあると。

 それらの条件がぴたり当て嵌まるのは、一人しか居ない。


「剛人さんが……」


 まだ臭いのなら、木場は近くに居るのだろう。それでも探す当てはなく、手がかりは直前に憑かれていた下河内剛人。

 あの男なら、木場と飲みに出掛けている。きっとその場で何かがあって、乗り移ったのだ。状況を聞くのは、彼しか居ない。

 ただしそれとは別に、気になることもある。


「おさん。繰り返し聞いて悪いんじゃけど、賭場の臭いがしたのは間違いないん? 他の似た何かじゃのうて」

「さあ。あたしの知る限りは、他にないけれどね。絶対とは言わないよ」


 おさんの性格的に、この返事は相当の自信がある。なければきっと「あたしを信じないってんだね」などと拗ねた素振りを見せるはずだ。

 つまり剛人は、賭場に居た。それがパチンコ店などならば良いが、そうでなければ違法行為となる。


 ――確かめんといけんけど、どうやって?

 おさん狐が臭いと言ったから。などと言って納得する者は居ない。これはあやかしを視る者の話でなく、警察官としての話だ。

 また全く別の問題を抱えてしまったことに、竜弥は頭を重くする。

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