第壱拾伍話:ひかげ   三

 やはりこれだけ、あやかしたちが見えないのはおかしい。しかし竜弥は、理由を知る術を持ち合わせない。

 まばらな人家にしか灯りのない町の、さらに外れ。昼間でも薄暗い林道を駆け登る。悪路の走行に慣れぬがゆえに、ギアは二速へ入れっぱなしだ。


「誰か居るじゃろう、一人くらい!」


 昨年に降り積もった落ち葉が、タイヤを滑らせる。今年のも落ち始めていて、見分けがつきにくい。

 道幅は広いところでも一メートル。悪ければその半分。この速度で沢へ落ちれば、ただでは済むまい。だがゆるりと時間をかけている猶予はなかった。


「ここも居らん……」


 タンスやソファ、冷蔵庫。流し台までも放り投げられている谷へやってきた。どうやって運んだものか、ジープタイプの車なら可能だが、車体を傷だらけにしただろう。

 不法投棄の方法はさておき、ここは付喪神の巣窟だった。一般に長く大切に扱われた物に命が宿ると言うが、大切に扱われぬまま長く放置した物も同じくだ。

 良くない存在になりがちだが。


「付喪、お前らは動けんじゃろう! なんで居らんのじゃ。居って黙っとるだけか? 返事をしてくれえや!」


 どうもしようというのでない。たった一つ聞きたいだけだ、この町に何が起こっているかと。

 案山子や鏡は、既に自分の意志を持って長い。自由に動けるから会えないのだ。ならば自由に動けぬ者を訪ねれば良い。

 名案だと思ったのに、また当てが外れた。


「正真正銘、次が最後じゃ」


 尾根を二つ越えて、業として山を歩く者もなかなか入らぬ辺り。近隣の支流である椎名川に注ぐ、源流を辿る。


「爺ちゃんは居るじゃろうの――」


 両手が塞がっていなければ、拝んでも見せたかった。そうまで懇願する理由は、木場の為。

 世話になっている先輩の失踪と、あやかしたちの集団家出と。重なったのがたまたまなど、竜弥は信じない。


 ――見えた、滝じゃ。

 そそり立つ岩壁が、先に見える。林道はその手前で、大きくカーブした。

 神聖な場所であるそこに、直接は乗り付けられない。DRを停め、懐中電灯を取り出し、白い岩の坂道を登った。

 距離は三十メートルほど。真ん中辺りで、しめ縄をくぐる。そこから空気が、ひやっとしたものに変わる。


「爺ちゃん……」


 風呂場に備えられたシャワー程度の、ささやかな落水。飛沫の只中に、石を掘った御神体が祀られている。たしか観世音菩薩だったか。

 けれども竜弥が目を向け声をかけたのは、滝の脇。全身を白い着物で包み、頭髪はなく、長い白髭がつま先まで伸ばした老人にだ。


「誰かと思えば。その行灯を向けるな、眩しいじゃろうが」

「あっ、ごめん」


 まだ九月とはいえ、山間の夜は冷える。そこへ以て老人は、滝の水に曝され立っている。

 そんなことを意に介した風もなく、懐中電灯の光に文句が付けられた。消してしまっては何も見えないので、足元へ向ける。


「足繁く通うてくれるのう。お主がこの地へ来たと挨拶に来て以来か?」

「そりゃあ悪かったよ。なかなかここまでは来れんのんよ」

「まあ良いわ。そもそも儂を見える目を持って挨拶してくれるも、昨今は稀じゃからの」


 老人の姿は、普通の人間に見ること叶わない。かといって観世音菩薩の化身とかでもなく、この滝の精だ。

 自由に動くだけの力はあるはずだが、ここから離れたことはないと聞いている。


「また秋祭りの時期に、掃除しに来るけえ」

「ほう。その約束、違えるなよ」

「任せてえや。ほいで今日は、聞きたいことがあるんよ」


 無精を窘められてすぐ、頼みごとをする。これは通り越して、無礼に当たるだろう。滝の精も眉の片方を上げ、睨み付けた。

 けれども老人の機嫌を取っている暇がない。たった今、木場が無事で居るのかも分からないのだ。


「お主のう」

「気に入らんかったら謝る。でも、早うせんといけんのじゃ。嫌な予感がして堪らんのじゃ」


 土下座でもすべきか。古くから生きてきたあやかしに、その作法は格段の意味を持つに違いない。

 そうと知ってするのは計算尽くのようで嫌だが、それも致し方ないと呑み込む。


「ふん、まあ待て。お主が聞きたいことは分かる。あやかしどもが、おかしいと言うのじゃろう? それは儂でなく、教えようという者が待っておる」

「爺ちゃんじゃなく?」


 片膝をついたところで滝の精は鼻で笑い、静止を口にした。こちらの意図を分かった上で、答える誰かが別に居ると竜弥の後ろを指さす。


「誰が――」

「やあお前さん、あたしをお探しかい?」


 怪談の最中、「お前の後ろだ」と脅かすのは常套手段としてある。それを現実にやられては、知った相手でも悲鳴を堪えられなかった。


「うわあっ!」

「おや酷いねえ。あんたとあたしの仲じゃないかさ」


 映画などでしか見たことのない、重ねられた着物。後ろ襟にはゆったりと余裕が持たされ、結われた髪には艶めかしい後れ毛が目立つ。

 昔の遊女は、きっとこういう姿だったのだ。全く知らない竜弥でも納得してしまう。事実はどうであれ、多くの人がイメージした姿そのまま。


「おさん! どこへ行っとったんや、探したんで!」


 何度もと言うほど通ったわけでない。しかし今会いたいというとき会えないのは、相手が誰であれ想い募るものだ。

 思わず本音を言って、しまったと口噤む。


「さ、探しただって? お安いおためごかしだね、何の魂胆がおありだい。あた、あたしがそんなで靡くような、うぶだと思われちゃあ心外ってもんだよ」


 おしろいを透かしてなお、頬が紅く染まる。照れているのは一目瞭然だが、出てくる言葉は叱りつけるものばかり。

 どういう経緯かは知らないが、これが彼女に与えられた想いだ。昔の旅人を街道から外れたところへ呼び出し、喰い殺す。たくさん居た、おさん狐の中での個性。


「いや、そうじゃのうて。聞きたいことがあるんよ」

「聞きたいこと? あたしのことはどうでもいいって言うんだね、つれないもんだよ。ああ男ってのは時代が変わったって、いつもそうだ」


 このやりとりの果てに、おさんは男を食う。最近はあまり手を出さなくなったそうだが、完全にやめたわけではない。

 しかし竜弥は、普段このやりとりを楽しんでいる。どういうわけか、殺意を向けられないから。


「おい、おさん。お主も本気で好いた男が困っておるのを、助けたいんじゃろうが。今か今かと待っておったではないか」

「なっ、何てことを言うんだい。このジジイ!」


 瞬間。夜闇にも浮かぶ白い腕が、薄い褐色に変わった。先に閃いた煌めきが、滝の精を鉤裂きにする。

 と。たしかな存在感を持っていた老人の身体は、弾け飛ぶ水の塊と化した。


「チイッ、忌々しい!」

「ほっほっ」


 物理的な接触では、傷付けられないらしい。おさんが爪を引っ込めると、老人は先と同じ姿で笑う。


「それで」

「えっ」

「何か教えろって言うんだろうよ。何だい、ばくちのことかい」


 終わってみれば茶番劇と言う他ない。目の前にした竜弥には、紛れもない殺意を見せつけられたのだが。

 それで呆けた間に、不意打ちだった。新たに放り込まれたその言葉が、問いの答えか。


「ばくち? 賭けごとの?」

「違うのかい。あたしが家を空けたのは、そのせいだよ。一昨昨日さきおととい、お前さんが来たろ? その後ろを着いてきてたからさ」

「僕の後ろを?」


 一昨昨日、とはいつか。

 まず指折って数えた。三日前だ。というと何をしていた日か。おさんの棲み処を訪ね、会えなかった日だ。


 ――あのとき、何かが僕を着けていた?

 舌なめずりするおさんは「そうさ」と、気に入らない様子で目を吊り上げる。

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