第壱拾弐話:ていねい  四

 連絡をしてすぐ、主幹派出所の所長はやってきた。一昨日、当番を共にした巡査長と二人だ。両方とも、苦み走った表情を浮かべている。


「どういうことか、教えてえや」


 木場の事務机に掛けた所長は、制帽を取って頭を掻きながら言った。机に置くかと思ったが、もう一度かぶり直す。

 電話でもだいたいのことは話した。しかし所長が来るまでに木場の妻から聞き出したことを含め、もう一度説明をする。

 剛人の頼みを竜弥が請け負ってしまい、とりなす為に木場は駐在所を出た。向かった先は町内の飲み屋で、時間は午後八時になる前だったと。


「あののう、若蔵くん」


 深く深く、ため息が吐かれた。

 説教に、いくらも時間をかけていられない。それとも、面倒なことが起きたものだ。いや普通に考えれば、木場の身を案じて。


「民事不介入の原則いうもんがあって、警察は商売の話に首を突っ込んじゃあいけんのよ」


 もちろん知っている。警察官たるもの街を歩くのにも、声をひとつ発するにも、法令の裏付けがなければならない。

 こうしなくてはいけない、そうするべきだ。と明文化されていないことを、してはならないのだ。


「はい、すみません……」

「まあ始末書、書いといてや」


 ならばこういうとき、どうやって断れば良かったのかも教えておいてほしい。

 正直なところでは、そうも思う。だが同時に、「出来ないものは出来ない」と言えば済むとも分かっている。

 要は竜弥の経験不足だ。警察官としても、一人の人間としても。


「分かるかいの」


 キャビネットを開けて、何か作業をしていた巡査長に声がかかる。巡回連絡簿じゅんかいれんらくぼを見ているようなので、きっと剛人の連絡先を調べているのだ。


「はい、メモしました」

「よっしゃ、じゃあ行ってみようや」


 開けた場所に鍵をかけ、再びファミリアのエンジンがかかる。何も言われなかった竜弥は、入り口に立ち尽くす。


「何しとるんや、あんたも行くんで」

「あっ、はい!」


 問題を起こした当事者だから、じっとここに居て反省するのかと思っていた。しかしぐるぐると腕を動かし窓を開けた所長は、来るのが当然とばかり、苛々した顔と声で催促する。

 運転席には巡査長。助手席には所長が既に乗っている。竜弥は後席に、慌てて乗り込んだ。扉を閉めると同時に、ミニパトは走り始める。


「家の場所は分かるんかいね」

「分かります」


 所長の口調は柔らかかった。ずっと叱られっぱなしで、針の筵かと想像していたのに。

 けれどもそれが、この空間を正しく認識する余裕を生んだ。


 ――お客さんの席に、僕は座っとる。

 乗車する中で竜弥は最も若く、階級が低い。警察車両の後部座席に座るのは必ずお客さんだと、警察官同士は軽口にそんなことを言う。

 警備対象者。事情を聞く為の、事件の関係者。若しくは事件の被疑者。でなければ、乗車した中で最高位の者。

 警察という特異な業種にあって、客と呼ぶのが誤りとは誰も言えまい。倫理的にどうかは別の話として。


「その先に見える家です」


 整備の良くない農道をゆっくり走り、ミニパトは剛人の家の敷地に入った。コンクリートで固めた畦道は、スーッと滑るように車を運ぶ。

 オレンジの屋根瓦。一間半の広い玄関。その目の前へ無遠慮に停まる。


「ごめんくださぁい!」


 慣れた態度で玄関の扉を開けつつ、巡査長は声を張った。すぐには返事がなく留守かと思ったが、十秒ほど遅れて「はぁい!」と声がある。

 女性の声で、おそらく剛人の妻だ。よく磨かれた長い廊下を、奥から静かに歩いてくる。


「あらあらまあまあ。お揃いで、主人にご用ですねえ。お上がりになってくださいねえ」

「いやいや急ぎなんで。失礼ですが、ここでお話させてもらえんですか」


 話す間に剛人の妻は跪き、もうスリッパを二足並べていた。しかし必要ないと言われ、出しかけていた三足目を戻す。


「本当にここでええんですか。そしたら主人を呼んできますんで、お待ちくださいねえ」


 三つ指をつき、深く頭を下げる。その丁寧な応対に、所長はもう一度「いやいや」と言った。


「ん。どしちゃったんです、大勢で」


 奥へ引っ込んだ妻に呼ばれて、剛人はすぐに出てきた。

 防犯連絡会の会員である彼は、所長の顔を知っている。それでも何かの行事があるならともかく、急に来るのは意外だろう。

 どうしたことかと言外に、竜弥の顔を見る。


「お食事中すみません、ちょっと困ったことがありまして」


 警察官が居なくなったのを、どう切り出すのか。所長は意外にも、昨日から帰っていないとそのままを言った。

 食事中とは何のことかと思ったが、剛人は口中に残っていたらしい何かを急いで咀嚼し飲み込む。


「ええ、木場さんが? 昨日から? 儂ぁ昨夜ゆんべ、一緒に飲んどったですよ」

「そうらしいですのう。まだおそらくなんですが、その後に何かあったんじゃないかいうて」


 剛人は心から驚いていた。少なくとも竜弥には、そうとしか見えなかった。


「その時に何かおかしかったこととか、ありゃあしませんか。木場当人のことじゃのうてもええですけえ」

「何か言うてもねえ――」


 普段の生活で。ましてや酒を飲もうというとき、辺りを克明に記憶する者など居ない。これをスラスラ答えられるようなら、逆に怪しいというものだ。

 その意味で剛人は、潔白な者の模範的な反応を示す。懸命に記憶を探る素振りでいて、何も引っかかるもののない。


「ん、何かありますか」


 だが幾ばくかの間の後、視線がちらちらと竜弥に向けられる。気付いた所長は、すぐさま問い質した。

 視線の意図に、何となく思い当たる節はあった。明確にこれとは言えないが。


「いやぁ――言うてええんじゃろうか」

「言うてください。手がかりが何もないんですわ」

「はあ、じゃあ言いますが。若蔵さんを叱らんとってつかあさいねえ」


 前置いて、剛人は昨夜のことを話した。

 一緒に居たのは二人だけでなく、聡司もであること。取り引きの件が解決したわけでないが、竜弥に任せたのは取り消すこと。


「正直を言うて、不義理をされた思うとったんですわ。でも若蔵さん若ぁのに、何で押し付けてしもうたんか。儂自身、不思議なくらいで」


 どうやら木場は、尻拭いをやり遂げてくれたらしい。その後関係のない世間話をいくらかして、午後十時過ぎには別れたということだった。


「若蔵さん、すまんかったのう。無責任な言いわけじゃが、儂がどうかしとったわ」


 禿げた頭を撫でて、剛人は竜弥に頭を下げる。それこそ憑き物の落ちたように、申しわけないと表情に示す。

 竜弥は咄嗟に、返答が出来なかった。いいんですよなどと言えば、どれだけ偉そうなのかとなる。


「じゃけどそれで木場さんが居らんようになったんなら、儂ぁなんぼ謝ってもすまんですのう。何かお手伝い出来ることがありますかいの、何でも言うてください」


 下げた頭が、今度は所長に向く。事務的に作られた笑みが返された。


「丸く収まったんなら、そりゃあ関係なあでしょう。そちらさんのせいじゃあないですけえ、気にせんとってください」


 丸く収まったと、剛人は言っていない。が、個人間の問題に戻ったのなら余計なことを言うべきでない。

 木場の失踪が剛人のせいでないのは、その通りだ。


 ――大変なことになってしもうた。

 剛人のあと聡司の家へも行ったが、同じような会話を繰り返すこととなった。

 それは飲み屋に行っても、歩いて向かうのに通りかかったであろう近所の住人に聞いても変わらない。

 飲み屋での会合の後、木場の足取りはぷっつりと途切れた。


 ――僕が最初から、きちんと木場さんに相談しとったら。こんなことにならんかったのに。

 後悔をしても今さらだ。

 剛人の頼みを断らず、木場に相談せず、解決を先延ばしにした。その時その時のミスは、誰でもやってしまうに違いない些細なものだ。

 しかし積み重ねが、気付かぬうちに大変な問題になってしまった。


「あ。耵聹って……」


 耵聹とは耳垢のこと。彩芽の言葉が思い出される。

 耳垢は誰も自分では気付かぬうち、いつの間にか溜まっているもの。放置すれば、思わぬ病気にもなりかねない。

 あのあやかしが、どうして名付けられたのか。竜弥は思い知った。

 

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