第壱拾壱話:ていねい 三
明けた朝、午前六時に目が覚める。いつもは七時に起きるのだが、心苦しくて目覚ましを一時間早くしておいたのだ。
しかし逆に、普段は食べない朝食をとれてしまった。菓子パンを二つとコーヒー牛乳。
――面倒ごとを木場さんにやらせて、僕は何を優雅にしとるんじゃ。
自己嫌悪に陥りながら、封を切ったものはもったいないと食べきった。自身の若い食欲に負けた。
「何て謝ればええんじゃろ」
本署への出勤も、三十分前倒しになった。忙しそうな姿しか見たことのない老年の警部補が、まだ何の仕事もせずにコーヒーを飲んでいる。
挨拶をすると「今日はえらく早いんじゃねえ」と、初めて聞く気安い返事があった。四六時中を苛々して過ごすと思っていたのは、誤りだったようだ。
八時半ちょうど。指示室へ集まって、警邏課長からの指示がある。大抵は県警本部からの通達を周知させるだけで、課長独自の話などない。
――やっぱり誰にも言うとらんみたいじゃ。
実務経験の浅い竜弥には剛人の件が公になったとして、どれほどの責めを受けるか予想がつかない。
ただ警察という組織は、何でも連帯責任だ。取り締まりの成績が悪いとか、ちょっとしたミスをしたとかは、集まった同じ当番の者たちの前で指摘される。
他山の石。この言葉を聞かぬ日はないと言っても過言でない。
「あ、若蔵くん」
「はい所長、何でしょう?」
派出所、駐在所へ個別に配布される物品を取り出し、警邏課の部屋を出ようとする。そこで主幹派出所の所長である警部補に声をかけられた。
――この人には話が上がっとったか。
密かに深呼吸をして落雷に備える。
良いことも悪いことも報告義務があって、組織とは成り立つ。警察学校に入って、ふたつ目に教えられたことだ。重要だからと、繰り返し言われ続けている。ひとつ目は「給与に文句を言うな」だった。
「これ、木場くんに渡しといてくれるかのう。儂が借りたんじゃが、早うに返したほうがええけえ」
「え、あの、はい――それだけです?」
「他に何かあるんか?」
「いえ何も」
贈答に使うような和菓子の手提げ袋。中にはスーパーのレジ袋に包まれた、少なくとも菓子ではない何かが入っている。触れてみると、どうやらVHSのビデオテープだ。
「人の物を勝手に触れんので」
「あ、すみません」
日本の平均身長そのままくらいの竜弥より、所長の背は低い。しかし見るからに筋肉質で、ボディビルでもやっていそうに見える。階級の力もあって普通に話しても威圧的に感じる声が、今はこそこそとして感じた。
――はあ、気が重いのう。
まったくの私用な頼みごとも含めて、よくあることだ。あまりにもいつも通りの光景だった。
考えてみれば、明らかな失態によって叱られるのは初めてだ。書類の不備や、手順のミスとかの指摘ならば数え切れない。
「素直に謝って、次に何か挽回できることを頑張るしかないよのう」
とは昨夜、彩芽と馳大が揃って言ったことだ。下手にどうこうして、状況を良くする手立てはない。先達が任せろと言うのだから、任せれば良いと。
国道百九十一号線から県道四十号線を、一路北へ。およそ三十分をかけ、豊山駐在所へ向かう。
「日に日に寒くなってくるのう」
苛部警察署は、廣島市の北の果てにある。それでもやはり、建物や人車の往来は街中という活気が感じられた。
それが県道の半ば辺りで、ふっと途切れる。ちょっと林が続くなと思って、次に景色が開けると農業地帯に変貌する。
だから、と言えば語弊があるだろう。見通しの良い田畑を舐めて吹く風には、夏の気配が残っていない。
「次は外套を持ってこんといけんわ」
交代制の派出所と違って、竜弥が行かなければ帰れぬ誰かは居ない。それを思うと駐在所へ着く前に、どこかへ寄って行こうかなどと考えてしまう。
独り言が多いのも自覚している。頭の片隅にあるそのものを言っては、自分の気持ちがつらい。関係ないことを口に出して、一時的に意識を塗り潰そうとしているのだ。
――大したことじゃない。いうて、馳大さんも言いよったのう。
些細と言っては良くないが、拘っても解決にならない。次に活かせば良い。
理屈では分かるが、そうあっさりと気持ちを切り替えられない。自分の責任と呼べるほど確固たるものでなく、僕のせいと表せる幼稚な気持ちで。
「おはようございます」
あれこれ考えているうち、駐在所前に黒バイを停めていた。ぼんやりしていて、いつものコースを通ったのか自信がない。
事故をしなくて良かったのはさておき、入り口のアルミサッシを開けた。
「木場さん?」
派出所や駐在所はどこも、ビニールハウスと揶揄されるほどに中が丸見えだ。ゆえに木場の姿がないのは、開ける前に分かっていた。
それでも死角へ居る可能性に対して挨拶をしたが、やはり居ない。
勤務表を思い出すと、木場は今日も日勤のはず。真面目な人なので朝は帯革を着けていないとか、そういうだらけた姿さえ見たことがない。
――何か事案じゃろうか。
可能性としては、現場に出ている場合が有力だ。けれどもそれにしては、苛部警察署内だけで運用する
「誰かに呼ばれたんかな?」
残るは近所の住民からでも、ちょっとした頼まれごとをされたパターンだ。それこそ「漬物がよく出来たから取りに来て」とか。
ならば待っていればいい。竜弥が出勤することは、木場も知っているのだから。
ガタッ。ガタガタッ。
持参した荷物を事務机に置いたところで、奥の戸を誰かが開けようとした。
駐在所と住居部分を分ける扉なので、木場でないならその夫人に違いなかろう。
バンッ。
中から弾けるような勢いで扉は開く。余力で扉当ても悲鳴を上げた。
見えた顔は、やはり木場の妻。一見して、顔色が悪い。血の気が引いて真っ白な頬や喉。眼だけが真っ赤に血走った。二十代半ばのはずが、十も老けて見える。
「あ――若蔵さん」
「はい。え、何かあったんです?」
人見知りというのか奥ゆかしいというのか、木場の妻とはそれほど話したことがなかった。
それでももちろん声や話し方は分かるし、おっとりとした人となりも何となく知っている。
その彼女が、これ以上ないほど明確に動揺している。いま慌てて扉を開けたのも、おそらく木場が帰ったと思ったのだ。
「木場さん、居らんのです?」
「あの。うちの人は――うぅっ」
声を詰まらせ、
寝間着姿のこの子に事情を聞いても、さすがに分かるまい。しかし小さいながら、母親を案じる視線が痛々しい。
「あの、奥さん。木場さん、どこへ行っちゃったんです?」
夫人は薄手のトレーナーに、くるぶしまで隠れるスカートを穿いていた。彼女の好む普段着と思える。
だが着替えてから一時間や二時間には見えない。昨日の昼間から、同じ服を着たままなのだろう。髪もあちこち飛び跳ねている。
何も聞けていないが総合すると、木場は昨日どこかへ出かけて帰宅していない。それはおそらく、竜弥と電話で話して以後。
「ええと。下河内剛人さんか、聡司さんか、どっちかのとこです?」
「う、ううぅ、そうでずぅ。あの人、どごへ行っぢゃっだんでずが……」
泣き崩れる夫人の声は、鼻が詰まって聞き取りづらい。
たったひと晩で、とは思わなかった。互いに言いたいことを言い、「ありがとう」とか「ごめんね」とかも恥ずかしげなくきちんと言葉にしていた。
そういう二人の片方が連絡もなく、帰るべき場所に帰らない。これほどの一大事はそうそうないに決まっている。
竜弥は警察電話の受話器を取り、主幹派出所の番号を押した。
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