第壱拾話:ていねい 二
「そのあやかしはきっと、ていねいだわ」
「正体まで分かっとるんですか」
「たぶんね。にしんよりもっと隠れるのがうまいから、私にも姿は見えていないけれど」
摘んでいた指が顎を弾いて離れる。挑発的というか、突き放されたと感じる。これほど短期間に二つも、良くないあやかしに魅入られては仕方がないのかもしれない。
――やっぱり相談するんじゃなかったのう。
いつも手間ばかりかけてしまう。
竜弥は自身を責め、今度こそ二人と決別する覚悟を決めた。これからは何があっても迷惑をかけない、と。明らかに常軌を逸した、自身の性急な感情の変化に竜弥は気付かない。
「自分で何とかするけえ――」
座敷の隅に置かれた伝票挟みを拾い、竜弥は膝をついて立ち上がろうとした。
「そう。それが、ていねいよ」
「え?」
引き留められるかと思ったのに、彩芽がよく分からないことを言っただけだった。
いや、一人でどうにかすると決めたのだ。引き留められては困る。運動靴を履き、店の出口の方へ。
夕食どきというのに、他の客は見えない。支払いのレジ前に立ち、店主が応対に来るまで。さっきまで居た座敷席に視線を投げる。開いた襖の向こうに見えるのは、馳大だけだ。もう話題を変えたのか、楽しげに笑っていた。
――これでええんじゃ。そもそも住む世界が違うんじゃ。
悲劇的に。恩人との別れを悲しむ。涙も込み上げたが、目の前には手を差し出した店主が居る。鼻をすすってどうにか堪えた。
「お代は戴いとるんで、結構ですよ」
染み一つない白い調理服には、藍の細い襟。馳大より少し若そうな凛々しい店主は、柔らかく手の平を見せ支払いを断った。
「え、ああ――そうですか」
「また来てくださいねえ」
ポケットから出しかけた財布を、不格好に押し戻す。
――また、なんかないんじゃけど。
この店を訪れることも、二度とあるまい。事実の確認というより、己に言い聞かせる。このおかしさにもやはり、竜弥は気付かない。
視界の端でもう一度、馳大が笑っているのを見た。
――これでええんじゃ。
と、もはや脈絡のない感情を抱えてガラス障子を開ける。
一歩。踏み出した目の前に、彩芽が立っていた。
「ていねいを誘き出すには、気持ちを極端に追い込めばいいの。無理にそうしなくていいわ、ちょっと方向を与えてあげれば、ていねいが自分でそうするから」
足下にコンクリートでない感触がある。目を落とすと、真っ白なタオルだ。
――しまった。
引き付けられる感覚に、竜弥はそう思う。胸の内に在る誰かが考えたことを、自分の想いとして。
「逃さないわ」
この店で爪楊枝として置いてある、短い竹の串。数本がぱらぱらと落とされ、タオルに突き立った。
手に残された最後の一本が、竜弥の胸の中心を指す。
チクリと、先端がほんの少し刺さる。
「実体が見えていれば、すぐに焼いてしまえるのに。あなたたちはちょっと面倒なのよ」
――やめろ、見るな。見るんじゃない。
芝居がかった言葉が頭に浮かぶ。ようやくこれを、竜弥はおかしいと思う。
見てほしくないとは、たしかに考えている。しかし同時に、目の前に彩芽の居ることが嬉しい。
「さあ出てきなさい。私は竜弥くんと、楽しく夕食を食べたいのよ」
――失せろ女。邪魔をするな。
竜弥の胸を薄く引っ掻いて、彩芽の持つ竹串が引き下ろされる。終いにその先は、タオルの中心を刺す。
「ぎやぁぁぁ」
絶叫。
ただし竜弥が本当には叫ぶことなどないだろう、わざとらしい声。漫画の描き文字を、抑揚なく読んだような。
苦しい。痛い。その感覚はないのに、気持ちだけが湧きあがる。
「……あ?」
ぷつり。身体のどこかで、細く千切れた気がした。
すると急に、彩芽に抱いていた負の感情が消え去る。いやさ彼女だけでない。馳大に、店主に、自分自身に向けられていた悲劇的な想いが溶けていく。
「取れたみたいね」
「ええと――」
埃でも払った気軽さで言い、彩芽は膝を曲げた。スカートが皺にならぬよう後ろを撫で付け、すっかりしゃがみこむ。
さっさっとタオルの四隅を畳み、そうして出来た新たな四隅をまた畳む。それから四つ折りにすると、店内へと戻っていった。
「あの、それ」
「ん? 話せるようだから、聞いてみたいことがあるの」
実体のないあやかしは未熟で、悪さをしないよう説得もできない。それでいつもは、すぐに焼いてしまう。
歩く背中に投げかけた竜弥の疑問を、彩芽は振り返らず正確に答えた。
「ありがとう。竹串とタオルの代金は、深山くんが払うから」
店の損害の補填も忘れない。店主は商売臭くない笑みで、深く頭を下げる。
「ていねいはね、憑いた人間の感情を膨らませるの。怒りでも悲しみでも、どんな些細な気持ちも馬鹿丁寧にね」
「それで、ていねいなん?」
座敷の桟に腰かけ、彩芽は七、八センチほどのヒールを脱ぐ。正面から見下ろす格好の竜弥は、何か見てはいけない気がして眼を逸らした。
「いいえ。その丁寧という字の両方に耳を付けて、
「耵、聹――」
説明通りに字を宙に書く。難しい字の多い法律用語でも、見たことがない。
「耳垢のことよ」
「耳垢って、耳クソ?」
「そう」
「なんでそんな名前に」
「さあ、昔の誰かが付けた名前だから。理由は知らないわ」
眼を戻すと、彩芽はもう自分の席に座ろうとしていた。慌てて竜弥も運動靴に手をかける。
と、そのとき。
リリリリ。リリリリ。
控えめな黒電話の音が鳴った。この店の物だ。すぐに店員が受話器を取り、受け答える。
何となくだ。靴を脱ぐ手を止め、応対を見ていたのは。
「ええと、若蔵さん?」
「はい僕です」
「お電話ですよ」
そんな気がした。話口を手で押さえて差し出す店員に「ありがとうございます」と礼を言って代わる。
「代わりました、若蔵です」
『あ、若蔵くん? 木場じゃけど非番のとこ、ごめんね』
相手は少し意外だった。しかし木場であれば、わざわざ電話をしてきた理由は一つしか思い当たらない。
「大丈夫です。何かあったんです?」
よくこの店と分かりましたね、とは聞かない。
警察官は自宅から一歩でも出るときに、必ず本署へ報告しなくてはならない。竜弥であれば昼間なら警邏課、夜間は当直に。
それが書き留めてある
この仕組みもベテランになるほど有名無実化して、竜弥と同じくきちんと報告する者のほうが少ないが。
『何かって。若蔵くん、下河内剛人さんと何か約束したんじゃないん?』
やはりそれか。緊張に、心臓が一つ鳴った。
昨日、木場に報告する時間と機会はいくらでもあった。剛人からすれば、まだひと晩ではあるが放置されていることになる。
「ええっと、実はそうなんです」
『実は、じゃないけえ。何で言うてくれんのん。日誌にも書いてないんじゃろう』
専門外であっても、剛人がしてきたのは相談だ。どんな内容でどう答えたのか、勤務日誌に残しておく義務がある。
書いたところで、幹部がそれを確認するのは月初だが。
「すみません。どうするんがええか、悩んどって。明日言う気じゃったんです」
『そりゃあ信じるけど。剛人さん、えらい剣幕よ』
「あ、ええと……」
根本は竜弥の性格にも原因がある。だが昨日と今日、頑なに抱え込んだのは、ていねいのせいだろう。
誰かのせいにするのは嫌だったが、どうも事実はそうらしい。
――なんて言うても、信じてもらえんし。
自分は引き付け体質で、人間からもあやかしからも面倒ごとを寄せ集めてしまう。
そんなことを言えば正気を疑われるか、酷くふざけた言いわけとしか捉えられまい。
『まあ詳しいことは明日でええわ。引き受けてしもうたのは間違いないんじゃね?』
「えっ、と。そうなります」
『分かった。俺が今から行って、話をつけてくるけえ。若蔵くんは官舎に戻って、おとなしうしときんさい』
余計なことをするな。主幹派出所の幹部にも、何も言うなということだろう。
大きな問題にならないよう、動いてくれるらしい。もちろん竜弥だけでなく、上長の木場にも責任のかかる話だ。
ツー、ツー、ツー。
既に回線の切れた音がしている受話器を、のろのろとした動作で戻す。
「やっぱり警察官に向いてないんじゃろうか」
先輩に迷惑をかけてしまった。その想いが、今度はあやかしと関係なく責任を感じさせる。
どうして警察官なんかになったのか。
馳大の問いが。答えられなかった自分の気持ちが、重くのしかかってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます