第玖話:ていねい 一
「仕事、しなきゃ――」
我に返った竜弥は、また周囲を見回す。野山にも空にも、当てにする誰かの姿は見付からない。
――あやかしが相手でないと、助けてくれないのかな。
約二年半も、一方的に距離を置いていた。だのにいざとなると、頼ろうとしてしまう。
助けてほしいなどと考えなかった。そう無理に思い込んで、駐在所へと戻る。
「バイクは寒いじゃろ?」
「いえ。気持ちいいですよ」
待ち構えたように、木場は熱々のお茶を出してくれた。と言っても、淹れたのは木場の妻だろう。竜弥専用にしてくれている萩焼きの湯呑みは、いつも駐在の家屋側にある。
「ついでにもう、昼メシにしょうか」
「そ、そうですね」
壁の時計を見ると、正午に十分ほど届かない。厳密には規範に反するのだが、その程度をとやかく言う者はここに居なかった。
苛部警察署から駐在所までの道中に、オレンジ一色の小さな弁当店がある。十種類ほど並べられる中で、竜弥はシャケ弁当が好きだ。
「お。またシラヤのシャケ弁? よう飽きんね」
「ええ、おいしくて……」
自炊をしない竜弥には、他にスーパーの惣菜くらいしか選択肢がない。しかしそれは、男の身にみっともない気がした。
ならば別の弁当を選べば良いのだが、のり弁当に次いで二番目に安い三百八十円。己の嗜好と合致する、コストパフォーマンスの高さに勝てない。
「何かあった?」
奥の扉から奥さんの差し出すお盆を受け取りつつも、言い淀んだことに反応を示す。
他者の微妙な変化を見落とし、聞きそびれるようでは警察官など勤まらない。
「木場さんのお昼、いつもおいしそうじゃと思うて。僕も早く結婚したいです」
「ああ。何じゃったら、若蔵くんのも用意させようか?」
言いわけだったが、実際にいつもおいしそうとは思っている。出来たての温かい食事というだけでも、全く気分が違うはずだ。
「いやそれは図々しいですけえ」
剛人に頼まれた件を、報告せねばならない。その場で断れなかったのは良くないが、まだ間に合う。頼めば木場は快く、一緒に話してもくれるに違いない。
「お稲荷さんに寄ったんですけど、棲みついとった狐が、居らんようになっとったんです」
「ええ、狐なんか居ったん? 俺も見てみたかったのう」
「あれ、言っとりませんでしたっけ」
言えなかった。言わなかったというほうが、おそらく正確だが。
自分のミスなのだから、自分で片付けるべきだ。釈明としては、そう考えていた。けれども本当のところ、何だか心苦しい。
言うのが正しく、結果的に迷惑となる度合いも少ない。分かっているのに、相談しては木場に悪いと思う気持ちでいっぱいだった。
――そうじゃ、揉めごとにせんかったらええ。聡司さんの事情を聞いて、剛人さんに伝えるだけなら何も問題ないんじゃけえ。
それだけしてやったら、次こそ仲立ちを断ろう。強引にそんな理屈で自分を納得させる。
単なる先送りに過ぎないと、冷静であれば気付いたろう。しかし竜弥はどうしてか、木場を頼ってはならないと強力に思い込んだ。
午後三時を過ぎたところで、竜弥は主幹派出所へと移動した。
駐在所は警察官が住み込みである為に、二十四時間いつでも対応できるわけでない。であるから複数の駐在所を取り纏める、幹部所在の派出所が置かれている。
その仕組みは住民たちも知っていて、駐在員に不満があれば幹部に直接怒鳴り込むことも可能だ。
――剛人さん、急かしに来んかったらええんじゃけど。
その気になれば、午後いちばんに聡司を訪ねることは可能だった。しかしどう切り出したものか思い付かず見送った。
所長の警部補と
竜弥も普段は警察学校時代の教科書を復習するふりをしたり、巡査部長に倣って読書に勤しむ。
「部長、警邏に出んですか」
広域無線からは、市街地の賑やかな様子が伝わってくる。聞いていると、自分が酷く不真面目でだらしなく思えた。
「お、そうしょうか。若蔵くんは
ミニパトでの警邏は原則として複数員。しかも竜弥は運転する為の、内部資格を持っていない。
道連れに選んだ巡査部長は、同行を了承してくれた。
事案など一晩じゅう起こらない、田舎の派出所の夜。竜弥はファミリアの助手席で、回りの遅い時計の針をじっと睨み付け堪える。
だが眠れぬ仮眠時間を終えるころには、頼ろうと心変わりしていた。
――やっぱりしんどいわ。彩芽さんか馳大さんに相談しょう。
「で、電話してきたわけだ」
「そうです。面目ないです」
苛部警察署に最寄りの電話ボックスから、珈琲屋へかけた。彩芽もどこかに家があるのだろうが、住所も電話番号も聞いていない。
受けた馳大は「じゃあまた晩メシを食おう」と答えてくれた。
そうして今、先日と同じ料理屋に同じ三人が顔を揃える。
「彩芽さんも、わざわざすみません」
「構わないわ、予定なんてないし」
座卓に載るのは鍋でなく、今日は焼き鳥と刺し身だ。彩芽の希望で、ハツの分量がやたら多い。
――そういえば電話に出たんじゃけえ、昨日は着いて来とらんかったんじゃろうか。
という事実には、馳大の顔を見てから気付いた。すると見張っていたのは彩芽か、誰も居なかったのか。
問う必要もなく、疑問はすぐに解ける。
「下河内剛人ってあれだろ、お稲荷さんの前に居たデブで禿げだろ?」
「えっ。あ、そうです」
こういうところが、この男を「まあ馳大さんじゃし」と評価することになる。
ここで話を変えて、どこから見ていたのかとは聞けない。どんな答えでも驚きはしないが、聞くことそのものが不躾に思う。
「放っとけばいいと思うがなあ。警察官ってなると、そうもいかないんだろうな」
「ええまあ――うやむやにするのは、後でばれたとき一番ひどいことになります」
「警察官僚とかは、大好きに見えるけどな。うやむやってのが」
返答に困る発言を放り投げて、馳大はハマチを三切れまとめて口に運んだ。深く味わうように何度も噛み、最後にハイボールで流し込む。
わさびを付けないのは意外だった。そういえば香辛料を口にする場面を見た覚えがない。それは彩芽もだ。
「まあ竜弥くんが思う通り、お互いの事情を伝えてあげて終わりにするのがいいと思うわ。もっといいのは、先輩の木場さん? その人と一緒にね」
大ぶりのお猪口を、彩芽はゆっくりとだが深く傾けていく。料理が揃うまでに、もうとっくりが二本空いた。
「そうじゃと思うんですけど。何か申しわけのうて」
「でしょうね」
他人に遠慮がちな性格を、二人はよく知ってる。だから彩芽の返事も、意外なものとは言えない。
ただ、含みを感じた。唇からお猪口を離し、揺らすようにする素振りが。
「どうかしたんです?」
「どうかしてるのは、竜弥くんよ」
「ええ?」
からかうような口調を、馳大は気に留めた様子がない。「これうまいな」と、鶏皮を二本一度に食っている。
「ねえ」
座卓の向かいから、おしろいで塗り潰したような腕が伸びてくる。顎を指先で摘まれても真っ赤なマニキュアがあるだけで、化粧っ気た匂いはない。
「また人間の心に憑くあやかしを拾ったのね。どうしたっていうの?」
酔いを微塵も感じぬ彩芽の瞳が、竜弥の奥底を見通すように見つめる。
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