第漆話:かくげん 三
ほら穴は真っ直ぐで短く、小さな虫でもなければ隠れる場所もない。おさんが居ないのに間違いはなかった。
――どっかから、ふらっと来たって言っとったなぁ。
何十年かごと、気紛れで棲む場所を替える。それが今日だったのかもしれない。竜弥が出遭うずっと前から、彼女はここに居たのだから。
「それならそれで、挨拶くらいしたかったのぅ……」
竜弥より既に何倍も生き、竜弥がこれからの一生を終えた後も生き続ける。そんなあやかしたちに、自分の都合を押し付けたくない。
だから別れの言葉を「またの」とも言えない。ならばこれで良かったのだ。そう思うことにした。
「ぐるっと回って、帰ろうかの」
国道を少し戻り、住宅地の外周を舐めるように県道を進めば駐在所へ帰れる。いつもは住居の多い辺りを適当に縫って通るのだが、今はそうする気になれない。
石段を下るのに、とぼとぼと歩めばまた気が重くなる。駆け足ぎみで、最後には一段飛ばしで駆け下りた。
「おお
最下段に到達したところで声をかけられた。数歩手前で気付いていたが、付いた勢いはそう簡単に収まらない。
膝を使って止まり、沈んだ身体を起こし、ようやく返事ができる。
吸った空気が、ひどくタバコ臭かった。待ってくれている相手に、そんなことも言えなかったが。
「あ、どうも。下河内さん」
生地の薄くなったヘンリーネック。ポケットのたくさん付いた綿のパンツ。ふくよかと言ってはお世辞が過ぎる丸顔に、頭髪は淋しい。
聡司が畑を買うか悩んでいた、下河内剛人だ。向こうに止めてあるボルボには、見覚えがあった。あれに乗っているということは、今日は農作業の予定がないのだろう。
「いやいや剛人でええよ。誰のことか分からんようになるけえ」
「そ、そうですね」
豊山町には下河内姓が多い。聡司もそうだ。何代も遡れば縁はあるのかもしれないが、現役世代の知る限り親戚ではないらしい。
そうなると下の名で呼ぶのが合理的だ。しかしそれほど親しくもない年上の相手にそうするのは、抵抗があった。
と言うよりも、彩芽と馳大が例外なのだ。同年代であろうと、苗字以外で呼ぶ相手は居ない。
「お参りしとりんさったん?」
「ええ。神社仏閣も、警邏の対象ですし」
それを言うなら、剛人は何をしているのか。彼の家も畑も、うっかり通り過ぎたとするには遠い。
もちろんお稲荷さんへのお参りは自由だが、そういうタイプではない気がした。これは竜弥の偏見でしかないけれども。
「そうなんじゃ、大変じゃのう。まあ天気もええし、散歩がてらに思えばええわ」
「あの、お参りです?」
剛人は町内会の役員であり、苛部警察署の設ける防犯連絡会の地区会員でもある。ゆえに顔はよく知っているし、話す機会も多い。しかしこれまで、こういう世間話をしたことはなかった。
今日がその最初ならそれでも良いが、どうも嫌な空気を感じる。
「いや? 駐在に行ったら、若蔵さんがこっちへ来たいうて聞いたけえ」
「はあ、何かご用です?」
先任の木場を差し置いて、竜弥に用事などと。見当がつかず、とぼけた声で返事をしてしまった。
「大したことじゃないんよ。これ、見てもらえるかのう」
聞く姿勢を見せたからか、剛人は機嫌を良くした声で尻のポケットを探る。出てきたのは、よく見かける茶色の四号封筒だ。
さらにそこから、折り畳まれた白い紙が取り出される。小学校で習字に使うような半紙に、文字がたくさん書かれていた。
「何です?」
「まあまあ、読んでみてえや」
押し付けるように渡された半紙には、頭書きとして売買契約書とある。甲が聡司で、乙は剛人だ。以降の文章をざっと読むと、やはり相談を受けた土地取り引きの文書に違いない。
対象物は畑とトラクター。他に支払い方法と期限が示されている。
「契約書ですねえ」
「聡司さんに、買ええ言うてくれたんじゃろ?」
「いや買えとは言うてませんけど。見せてもろうても、書式とかには詳しうないですよ」
警察学校では、司法書類について習った。一般常識として、民法や商法も。
その知識で言うなら、売買契約書に決まった形などない。売り手と買い手が誰で、何をどういう価値で取り引きするのかが分かれば良い。
だからこれで問題ないのか聞かれたとして、答えようがないのだ。
「そうじゃあないんよ。たちまちその契約書に、どうしてもおかしいところはないじゃろ?」
「ええまあ――所在地とか相場とかが
「うん、それは
この答えで、契約書の役目は終わったようだ。さっさっと畳んで封筒に収まり、尻に戻された。
「ほいでの」
「はあ……」
ここまでは前提条件で、本題は今から話す。意図の透けた笑みが、不気味に思える。
「聡司さんが、買うのをやめたい言うとるんよ」
「契約書まであるのにですか」
「そうなんよ。困った人じゃろ」
今ここに書面があるということは、昨日のあれからすぐ署名をしたに違いない。
それが明けて今日、もう撤回するとはどうしたことか。多額の話だから、揺れる気持ちも分かりはするが。
「儂ももう、この話を当てにして次の契約をしてしもうて、無しにはできんのよ」
「そりゃあ忙しいですねえ」
聡司もそうだが、剛人も急いている。この町は「今日もあれば明日もある」という雰囲気の人が多いのに、この二人は例外か。それとも金銭が絡むとそうなのか。
ともあれ剛人の用事とやらは、きな臭いものとなった。もはや焦げ臭いと言っても良い。
「ほいで、銭をちゃんと払え言うてもらいたいんよ」
「ええ? 取り立てをやれぇ言うんですか」
「そうじゃあないよ。約束したことは守りんさいいうてね、忠告してくれりゃあええ」
直接に金銭を徴収しないだけで、やることは取り立てと変わりない。警察官の仕事ではないし、竜弥の性格的に得意な方面でもなかった。
ただ聡司に、何も問題がないなら買うと言ったのも事実。勧めたか勧めなかったか問われれば、勧めたことになるのかもと思う。
「じゃあ頼んだで」
「あっ、僕は――」
「聡司さんの話は聞いたんじゃろ? ほしたら儂の話も聞いてもらわにゃあ」
背を向けた剛人を、引き留めようと手を伸ばした。しかし同じ住民を公平に扱えと言われては、ぐうの音も出ない。
ボルボの重々しいドアが開けられ、悠々と乗り込んでいく。左ハンドルの窓がすうっと開いて、念が押された。
「頼んだけえの」
少し低くした声を、国産車にはない低いエンジン音が運び去る。
断らねばならなかった。いきさつはどうあれ、生半に首を突っ込んで良い話ではない。押し切られてはならないと、明確に思ってもいたのに。
――やっぱり苦手じゃ。
人から頼まれるのを。特に年上から言われたことを断わるのが、心苦しい。それこそ罪に問われそうな気持ちになってしまう。
この性格を形作ったものには、心当たりがある。およそ北に走る国道の先を、恨めしく睨み付けた。
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