第陸話:かくげん 二
「最初は、どうしたんじゃったっけ――?」
二百段余りを、ひとつずつ踏みしめる。山に登るのは、それだけで神聖な行為だと教えてくれたのも馳大だった。
「ああ、そうじゃ。彩芽さんにお使いを頼まれたんじゃった」
七歳のころだったか、自転車を買ってもらって行動範囲が拡がった。おかげでいつ訪れるか分からぬ彩芽を、ずっと待ち続ける必要もなくなった。
「コーヒーを買ってきてくれないかしら」
とても暑い夏の日に、彩芽は魔法瓶を差し出した。お客が途切れなくて、自分で行けないからと。
自転車でならさほどでない距離に、コーヒー店がある。知り合いなので、アイスコーヒーを詰めるくらいの頼みは聞いてくれる。
伊藤博文を一枚渡して、お釣りでお菓子でも買えと言われた。子どもにこんな振る舞いをする大人も居るのかと、驚いた。
「珈琲屋って名前のコーヒー屋さん?」
場所を聞くと、竜弥もよく行く辺りだ。入り組んではいるが、それほど多くの家や商店があるわけでもない。
だのに思い当たる建物がなかった。
――でも僕に頼んでくれたんじゃけえ、行ってみればええわ。
交した言葉は、既に無数と呼んでよかった。けれども取り立てて、知っているというほどのことは何もない。よく当たると評判の占い師。名前は守塚彩芽。それだけだ。
彩芽からしても、似たようなもののはず。それでも千円という大金を預け、未知の店を探し出し、果たした後は残りを好きにしろと。
その期待を裏切るわけにいかない。と、妙に力んでいたのが今では恥ずかしい。
「あの建物、いつからあるんじゃろ?」
焼き杉というのか。故意に焦がした板壁が、重ねた年月に色を濃くしていた。
乾ききった印象の格子戸には、模様入りの磨りガラスが嵌っている。照和の時代に似つかわしくない、
その家屋にも、そこまでの細い路地にも、見覚えがある。それなのに過去、ここへ来た記憶がない。
子どもの竜弥はそれほど気にせず、格子戸を引いて開けた。掲げられた木板の看板に、書いて見せられた店名があったから。
「お、君が竜弥くんか」
入るなり、名指しで声をかけられた。
知っているインスタントコーヒーの匂いと似て、しかしもっと複雑に入り組んだ薫り。焚き火の煤けた感覚に、果実の甘さがちらちらと見える。珈琲屋で最初に感じたのは、そんな空気だ。
「なんで名前を知っとるん?」
「彩芽に聞いたからな。いつか来させるって」
タバコ屋にあるような真四角のショーケースの灯りと、磨りガラスから射し込む外光。天井に照明はなく、薄暗い店内。
ケースの上へ腕と顎を乗せたまま、黒いシャツに無精髭の男は答える。深山馳大も、今と同じく三十代後半に見えた。
「ほれ、出せ」
出された手に、千円札を載せる。すると馳大は、咥えたタバコを落として笑った。火は点いていなかったようだが。
「これも要るけどな、先にそっちだよ」
にかっと笑った馳大の指が、ぎゅっと抱えたままの魔法瓶を指した。
しまった間違えた。そんなはずもないのに、叱られる気がして身を強張らせる。
「――あ、ああ。ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
タバコ臭い手が、乱暴に頭を撫でた。そのまま手早く蓋を外し、中を軽くすすいでコーヒーを注ぐ。
既に出来上がっていたようだが、不思議には思わなかった。
「何か欲しいものがあるか?」
これという感情もなく話すときの馳大は、鋭い眼が怒っているように見える。最近では和らいだが、あのころは特に怖ろしかった。
たしかにそう思う反面、強そうだと感じた。か弱そうな彩芽に、こんな人が知り合いで居るなら大丈夫だ。
別に危険な目に遭っているとか聞いたでもなく、勝手に心強く思った。
「お駄賃があるんだろ? ここの物ならカネは要らないから、小遣いにしろよ。まあ、菓子とかなくて悪いが」
馳大の店はとても狭かった。入った扉から奥の壁まで三畳ほどの面積しかない。
真ん中をショーケースで区切って向こう側は、小さな流しとコーヒーを淹れる道具が渋滞している。
こちら側。客のスペースは、若干の余裕があった。横の壁に低いテーブルが置かれ、小物が並べられた。
マッチ、百円ライター、飴、ガム。後ろ二つはミントの強い物で、子どもの竜弥の嗜好には合わない。
「ううん。それはええんじゃけど、この中にあるのがコーヒーなん?」
「ああ、コーヒー屋だからな」
ショーケースは飾りでなく、本来の目的を果たしていた。
ただし小さな蛍光灯に照らされるのは、薄茶色の紙袋たち。焼き芋か文房具でも買って入れてくれるならお似合いだが、コーヒーぽくはないと思った。
竜弥の知る物はビニールパッケージに金文字で銘柄が書かれ、スーパーなどで売られている。
「自分で作ったん?」
「さすがにコーヒー豆を作るほどの土地は持ってないな。仕入れたんだよ、自分で豆農家に行って買ってきたんだ。そこに書いてあるだろ?」
なるほど並んだ袋の手前に、文字の書かれたカードがある。飴玉一つの包み紙より、小さな物だが。
「エチオピア、スマトラ、ハワイ、グアテマラ、ジャマイカ?」
「今あるのはそれだけだな。欲しいのがあれば、言ってくれりゃあ買ってくる」
「僕、コーヒーって飲んだことないんよ」
缶コーヒーを自販機で買ってくるくらいに馳大は言った。口にした国名が日本からどれくらいの距離にあるのか、そのころの竜弥は知らなかった。
重要な会話はあっさりと流れ、コーヒーを飲んだことがないという部分に馳大は声を上げる。
「なにぃ?」
「あっ、ご、ごめんなさい」
「飲んだ後に嫌いだってなら仕方ないが、飲んだことがないのは勿体ない。飲んでみろ、まずけりゃ残していいから」
「えっ、あの――」
否も応もなく、ショーケースから出されたコーヒー豆が、真っ黒に時代を染み込ませた道具で砕かれる。
意外に華奢で骨ばった指が、繊細にハンドルを回した。
きらきらと光るガラスの容器が組み立てられ、ひょうたんのような格好になった。挽いた豆を投げ込み、湧き上がったのを軽く撫で付け、鋭い眼が一瞬の変化も見逃すまいと睨み付ける。
子ども心にも、真剣で楽しんでいるのが分かった。こんな風に淹れられた物なら、さぞかしうまかろうと思った。
「さ、飲んでみろよ」
暗がりでなお、濃い黒。カップの中に落ちた光が、絹を被せたように揺蕩う。
とろみがあると錯覚すらさせる暗いうねりから、純白の湯気が上がるのを奇妙と考えてしまう。
「甘い」
香りをじっくり楽しんでから、などと
その最初の感想が、甘さだ。だが後を追って、苦味が襲う。他に似たもののない酸っぱさも僅か。
「コーヒーってこんなに苦いんじゃね。すぐなくなったけど、酸っぱいのも知らんかった」
「酸っぱい?」
「酸っぱくないん?」
「いや……お前の舌、凄いな」
何だか説明はなく、毎日でなくていいからなるべく来いと言われた。それからは馳大のブレンドした豆を試飲するのが、竜弥の役目のようになる。
――そうか、ずっと試飲もしてないんじゃ。
味覚が優れていると褒められたのが嬉しくて、生意気にも意見を垂れ流していた。負い目を感じる今では、とても言えないようなことを。
赤面する想いの中、最後の石段を踏んだ。赤土が平らに、テニスコートほども拡がる。真ん中を石畳が伸びて、突き当たりにお稲荷さんの社はある。
赤い鳥居を屈んでくぐり、お社に手を合わせた後、建物の脇を奥に進む。おさん狐が棲むのは、裏手のほら穴だ。
「おさん、居るかな。変わったことでもないか思うて、寄ってみたんじゃけど」
会いに来た。わざわざ来たと言うと、おさんは怒る。だからどれだけ手土産を持っていても、訪れたのはたまたまだと声をかける。
彼女も散歩をしたり、出かけることはあるはずだが、留守に遭遇したことはない。
「おさん?」
しかし今日、初めておさんと出会えなかった。
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