第伍話:かくげん 一
彩芽たちと鍋を囲んだ次の日。竜弥は先輩の
「じゃあ、行ってきますけえ」
「了解。無線の電池、入っとるよね?」
「もちろん新品を入れとりますよ」
豊山駐在所の本来の勤務員は木場だ。ほんわかとした雰囲気の妻と、まだ小学校に入る前の娘が一緒に暮らしている。昨日は
いっぽう竜弥は、通い駐在員の扱いになる。昨日は
「だんだん冷えてきたなあ」
備え付けのミニパトもあるが、竜弥は黒いバイクで出るほうが好きだ。錆びたフェンスの扉を開け、ホンダのベンリィに跨ると、夜の冷気が微かに感じられた。西中国山地の只中という立地は伊達でない。
キーを回し、セルボタンを押し、一度咳き込んだだけでエンジンはかかる。まあまあの調子だ。
南北およそ十六キロ。東西およそ十二キロ。なかなかに大きな豊山町の半分を、豊山駐在所は受け持つ。キャンプ場が一つある他は、これといった施設もなく山ばかり。五千人ほどの人口も、一応は住宅地めいた集落から山の奥まで方々に散らばる。
一人で一時間や二時間を走っても、回りきれるものでない。だが竜弥は、この時間の為に警察官になったと思う。そういう意味では、ゆうべ言った「動機がない」というのは嘘になる。
「何か、してあげたいんよ――」
はっきりしない、という部分に限ればその通り。誰に、何をしてやりたいのか。想いだけが強く、対象が分からなかった。
彩芽の言う、もう一つの人格。それによって感じているのかもしれないが、定かでない。
国道とは名ばかりの、四百三十三号線を進む。片側一車線の両脇に広々とした畑、段々に作られた田が代り番に流れていく。
この風景のどこかに、何かしてやるべき相手が居る。根拠はないが、確信があった。
「ん?」
行く先を、何か横切った。大きさや姿からすると、イタチか狸かそんなものだ。
しかしちょうど、牛を飼っている家に近い。涼やかな風に、牛糞堆肥の薫りが混ざり始めたところだ。
「居るんじゃろ。出てきんさいや」
黒バイを止め、跨ったまま辺りを見回す。きっとあいつだと、心当たりがあった。
「シャシャッ」
咳き込んだまま笑うような、息苦しい音がする。となるとやはり間違いない。
「今さら僕を、からかいんさんな」
「シャシャシャッ」
きっと何か話しているのだろうが、理解はできない。ちょっと小馬鹿にして、遊ばれているのは分かるが。
「シャッ」
「ああ、そこじゃったんか。びっくりするじゃろうが」
黒バイの真後ろ。ひと跳びで届く距離に、必ずそれは現れる。姿はイタチと同じ。ただし全身の毛を常に逆立てた、あやかし。
シイだ。
晴れた日は、警邏中のどこかで必ず現れる。だから隠れ場所を探すまでもない。
しかし道を進む者の後ろに現れて、おどかすのが彼の生きる目的だ。本来は牛や馬を相手にするそうだが、少しでも欲求を満たしてやっている。
「今日は手羽元を持ってきたんじゃ。好きじゃろ?」
昨夜の鍋にあった具材を、持ち帰ったものだ。放り投げると、飛び上がって口で咥える。太い牛の骨も平気で噛み砕く顎が、うまそうにもぐもぐと動く。
昔は付近に、たくさんの仲間が居たらしい。機嫌が悪いと家畜を死なせてしまうので、嫌われていたようだが。
「僕が居る間は相手したげるけえ、いたずらすなよ」
「シャッ」
あっという間に五本を平らげて、シイは茂みに姿を消す。あちらが上という態度だが、気に入られているのだろう。肉しか食わないのでなかなかの出費となるものの、悪い気はしない。
「そうじゃ、おさんのところへ先に行こう」
昨日は一人での勤務だった為に、警邏へ出られなかった。もちろん戸締まりをすれば良いけれども、彩芽も含めて来客が途切れなかったのだ。
その前は非番だったので、三日ぶりになる。約束していたでもないが、受け持ちに棲むあやかしでは一番の大物だ。拗ねさせるわけにいかなかった。
しかも駐在所から最も遠いので、往復で一時間はかかる。
「気のいいあやかしばかりじゃったらええのに」
再び黒バイを走らせつつ、独りごちる。
幼いころから数え切れぬほどのあやかしと出逢ったが、危険な者もそれなりに在った。
けれども話して分かる相手も在る。シイが然り、おさんもそうだ。
聞く耳を持たぬ者が怖い。それににしんのように、自身の意思を明確に持たぬ者も。
「なんで見えるようになったんじゃろ……」
死を感じたのも一度や二度でない。その度に助けてくれたのが、彩芽と馳大だ。
面倒をかけるのが申しわけなく、ならば見えないほうが良いのかと思う。だがそうすると、二人が構ってくれる理由もなくなりそうだ。
絶縁しようとした者の言い分ではないが、彩芽と馳大と出会わなかった人生も悲しすぎる。
――たしか彩芽さんに声をかけられる、ちょっと前じゃったんじゃ。
それは五歳のとき。そのころ住んでいたのは、廣島湾に浮かぶ厳島だった。
さらに前は廣島市内に居たのだが、父が亡くなり母は実家へ戻ることとなった。それから高校を卒業し、警察学校へ入るまでずっとだ。
「ねえ、お名前を教えてくれる?」
家のすぐ近くの林で遊んでいるとき、彩芽がそう声をかけてきた。写真も撮っていないが、今と変わらぬ容貌だったように思う。
観光地である厳島神社の隅で、占いをやっていると名乗った。
「竜弥くん。君の中には、もう一人の君が居るわ。眠っているみたいだから、そっとしておくのよ」
名乗り返した次の言葉がそれだ。
五歳の子に言って、どうしろと。思い返すとそう思うが、不思議と受け入れられた。おそらく意味も取り違えなかった。
あやかしを見るようになったのは、そのころだ。
彩芽と会った後であれば、彼女が何かした可能性もあるだろう。けれどもきっと、会う以前だった。
「たぶんそうじゃった……んじゃろうか?」
どうもそのころの記憶は曖昧だ。
彩芽の印象や遊んでいた場所などはくっきり覚えているのに、あやかしが絡むとぼやけてしまう。
そのままを問うてみたこともある。しかし彩芽は「何もしていないし、理由も分からないわ」と答えた。
「雲行きが怪しくなってきたのう」
記憶を探っているうち、おさんの棲み処近くへ到着する。頂上に小さなお社のある、緑の濃い丘の麓だ。
雨が降るにはまだだが、すぐには退きそうもない雲が空を覆っていた。
「そういえば、どこかに居るんじゃろうか」
しばらく竜弥を見張る。昨夜、そう言っていた。見張ると言うなら馳大の役目かなと思うが、景色を上から下まで見渡してもそれらき影さえ見付けられない。
――まあ、馳大さんじゃし。
他の者が聞けば、理由になっていないと言うだろう。されど竜弥には、それで十分だ。
彩芽とはまた違った意味で、あの男には驚かされる。懐かしく思い出しながら、竜弥は石段を登っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます