第肆話:にしん 四
「よく……分からんです。いつの間にか申し込んで、試験を受けて、受かっとったって感じで」
「そりゃあ――」
馳大が目を合わせてくれなくて良かった、と安堵する。鷹を思わせる鋭い眼光は、当人にその気がなくとも睨んでいるようで怖い。
それとは別に、彩芽と同じ意味でごまかせそうにないから。この二人は、竜弥を心から想ってくれている。
「いや、記憶がないとかじゃのうて。僕がはっきり、そうしょうって決めたタイミングがないんです」
「ああ、昔からお前はそうだからな」
強いてきっかけがあったとすれば、母親の知人が募集のパンフレットを持ってきた。ノルマのようなものはあるが、どうしてもではない。そんな説明と共に。
ちょうど警察官が主人公の漫画を読んでいるころだった。事件の捜査などはほとんどエピソードにならず、警察官同士のドタバタコメディだ。
その顛末を告げると、彩芽も馳大も首を捻る。
「有名なのか? そうだな、映画になったりとか」
「ううん、そこまでじゃあないと思う。ただそういう人らが本当に居って、見とられたら面白いじゃろうなって」
「――うん、まあ。漫画だからな」
「分かっとりますよ。実際は居らんのかって、がっかりもしとらんです。じゃけえ結局、理由が分からんって答えになるんです」
馳大は漫画だけでなく、本の類を一切読まない。家に上がったこともあるが、一冊たりと見かけなかった。
そんな彼だが世間の風潮に従って、漫画を出鱈目と言ったのではない。と竜弥は知っている。竜弥が小説のタイトルを挙げていれば、小説だからなとセリフが変わったはずだ。
どんな人間が言ったことも、流されるままにならない。それはこの二人に共通した。
「たぶん、面白いと思ったんが消防士なら消防士。サラリーマンじゃったらサラリーマンになっとったと思いますよ」
「それならなおさら、教えてくれても良かったと思うのだけど。秘密を白状しろと言ってるわけじゃなく、世間話としてね」
彩芽の言う通りだ。進路を決める時期に、以前と同じ交友があれば話していた。どころか、どうすれば良いか意見も求めただろう。
二人との関係は、高校二年の終わりに途切れたのだ。それも、竜弥が拒絶した。相談をする選択肢など、存在しなかった。
「やっぱり、かくげんの時のこと?」
「それは……」
違わない。
違うと言おうとしたが、言えなかった。彩芽の占いなら、竜弥がどう考えているかくらい分かるはずだ。しかし彼女はそうしない。
世の中の全てを知れそうな彩芽が、おしぼりを握っては放し、握っては放し。真実が分からず、もどかしそうにしている。
その誠意に、嘘が吐けない。
「僕は彩芽さんと馳大さんに、酷いことを言うてしもうたんです。助けてもろうたのに」
「それはいいのよ。言ったじゃない、私はあなたを守ってあげたいの。その体質のまま、一人で生きていくのは無理よ」
その言葉が途轍もなく嬉しくて、苦しい。自分で自分を守るだけの力が、竜弥にはない。鍛えたりしてどうにかなる話ですらない。
だからと面倒を見てもらうのは、虫が良すぎる。この件に関して自身を悪と決めつける竜弥は、どうにも妙に力んでしまう。
「彩芽さんたちが僕を構うてくれるんも、その体質のせいじゃあないんですか」
「そんな、違う。私はそんなことで――」
「彩芽、そうじゃない」
馳大は遮って、おもむろに鍋の汁を掬った。それを大盛りの白飯にぶっかけ、じゅるじゅるしゃばしゃばと音を立てて掻き込む。
見ている間に、呼吸は五往復もしたろうか。空になった丼が座卓に置かれ、箸が投げ込まれる。
「竜弥、俺はお前が好きだ。生きてきた時間やら、違うことは数え切れないが。そんなことは関係なく、お前と話すのは楽しい。これが友だちってのか、連れってのか、方便は何でもいい。助けたいってのは、その先の話だ」
ひと息で言った馳大は、丼にビールを注いで飲み干す。「ぷはあっ」と大きく息を吐いたのは、果たしてそのせいか。
「お前はどうなんだ。俺なんかとは付き合えないって言うなら仕方がない。あの時は驚いただけで、今も好いてくれてるなら問題は何もない。どうなんだ」
問う最後、横目にぎろっと瞳が向いた。その奥にある気持ちを聞いたのは、初めてかもしれない。
彩芽を見ると、同じ気持ちと示すように頷く。
「僕は――」
俯いて、座布団の模様を眼で辿ってしまう。
会おうと思えばすぐに会える距離に居て、遠ざけていた。それを二人は知らぬふりで、見過ごし続けてくれた。
――それが何で、今日だったんじゃろう。
お正月でもお盆でも、連休でもない。何をきっかけに、駐在所へやって来たのか。正直なところ一年を過ぎた辺りで、見放してくれたと思っていた。
考えても答えは出ないが、確実なことも一つある。きっと今日、この時が最後の機会だ。
密かに深呼吸をして、顔を上げた。
「僕も、お二人が好きです。彩芽さんにはたくさんの知識を、馳大さんにはたくさんの面白いことを教わったけえ。あ、いや。だからってことじゃのうて、その思い出が楽しかったってことで。でも僕はお二人に何もしてあげられんで」
何か見返りがあるから、言うのではない。
そう伝えたいのに、言葉を重ねれば重ねるほど、違う場所へ向かっていった。
「いや、こういうことじゃのうて――」
「ああ、分かったよ」
膨らんだ馳大の頬が、細く強く息を吹いて萎んでいく。また喉が潤すつもりか、座卓に置いたグラスへ、どぼどぼとビールが注がれた。
「飲め、俺が許す」
まだ新米とはいえ警察官の竜弥に、大胆なことを言う。しかし酒を飲んだことのない身にも、どういう心情かは分かる気がした。
数拍の逡巡を経て、「じゃあ」と手を伸ばす。
「深山くん?」
常には土鈴の音色にも似た彩芽の声。それが土鍋にすげ替わった。低く呻るようでも、優しげなのは変わらない。
ただし、感じる圧力は土壁のごとしだ。
「はい、すみません。冗談です」
「それならいいんだけど」
水墨画にしたいような、彩芽のはっきりとした目鼻が笑う。もしも二人が夫婦になっても、亭主関白とはなるまい。
「それでね、実は竜弥くんの宿を見たの。普通に占う範囲でね。そうしたら、良くない気配があって」
「あやかし絡みでなん?」
「ええ、そう。行ったら早速、危ないことをしていたから慌てたわ」
過去のいざこざは、もうなかったことになったらしい。もちろん竜弥が気にしないよう気を遣って、あえてではあろうが。
「あなたは引き付け体質だから、ずっと縁は切れない。でもちょっと、今の状況は異常だわ」
いつの頃からか。あるいは生まれた時からか、竜弥の周囲には色々な相手が集った。それは人間も、あやかしも。
良くないものに憑かれたとき、自分で対処する方法が何もないでは困ると教わったのが、空く間術式だ。
「警察官になった理由が特にないっていうのも、体質だから納得なの。でもそれが危ないのも分かるでしょう?」
「分かります」
竜弥は、頼まれたことを断れない。性格ではないかと思うのだが、彩芽はずっと体質と言う。
ともあれ図々しい人間というのはたくさん居て、便利に使われることも多かった。
危ないとは、あやかしにもそういう性格の者が居る。人間に憑いて自由に操ろうとまでするのは稀だが、異常に集っているのなら確率が上がる。
「憑かれるまでもなく、竜弥くんの中には二つの人格がある。そこへ持ってきて、にしんなんて。散り散りに引き裂かれてしまうわ」
もう一人の自分が暴れないよう。あやかしに利用されないよう。彩芽と馳大が、ずっと守ってくれている。
同じだけの恩を返せるなどと、思い上がりはしない。だが少しでも役に立ちたい。それをあの日、竜弥は「化け物」と言い放ってしまった。
「まあしばらく窮屈だろうが、見張らせてもらうからな」
「お手数かけます」
また、返しきれない恩が積み重なる。だのに胸の軽くなった気がしたのは、竜弥の思い違いだっただろうか。
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