第参話:にしん 三
すっかりと日の暮れた、午後八時前。国道百九十一号線の、歩道のない側を歩く。
駐在所の周囲とは違って、車が途切れない。歩く人の姿もちらほら。年齢のせいか、あまりにのどかなのは逆に落ち着かない。かと言って廣島駅やらデパートやらある辺りは賑やかすぎる。
夜の涼しい風が、着替えたトレーナーにも心地良い。間近から吐き出される排気ガスが生温くともだ。
――このくらいが丁度ええよ。
嘯いて立ち止まり、手に摘んだ紙片を見返す。ビニールの赤いアーケードに、黒いゴシック体の店名。
どうやら無事に、彩芽の言った店へ辿り着いた。両脇をまた別の飲食店に挟まれて、間口は一間半ほどしかない。
「いらっしゃい!」
黒ずんだ木枠のガラス障子を引き開けると、威勢のいい声が飛びかかってきた。右手の奥に、捲り上げられた暖簾が見える。そこからだろう。
調理をしながらよく気付くものだ、と感心しつつ見回す。厨房の手前にカウンター席。左手には座敷のテーブル席。
照和六十年九月二日。壁にかかった大きな日めくりカレンダーが、祖母の家を思い出させた。
しかし肝心の客の姿は一人としてない。長押に取り付けられた扇風機が、元気良く首を振る。
有線放送のBGMだけが虚しく滑りゆく。
「こんな女でも忘れないでね、か」
男女の別れの歌だったか。歌謡は聞かないので、よくは知らないが。
待っていると言っていたけれど、先に着いてしまったのかもしれない。彩芽は駐在所まで、何の乗り物を頼るでなく訪れていたのだから。
どうしたものか。カウンター席で待っていれば良いか。考えていると、また厨房から声が上がる。
「味噌鍋あがりぃ!」
何か料理が出来上がったようだ。すると客は居るのか。
大きな土鍋を運んでいく中年の女性を目で追う。白い三角巾が向かったのは、店の最奥。閉じた襖が見える。
いや、気付いてはいたのだ。暗がりで、客を通しているとは思わなかった。
開けられた向こうに黒いワイシャツ、黒いスラックスの男。オールバックに撫でつけた短い髪も、墨を流したように黒い。
――
やはり世話になった、
「遅くなりました」
戻っていく店員の女性とすれ違い、襖の向こうを覗く。四畳半の和室に、六人でも使えそうな座卓が仰々しい。壁際からガスのホースが伸びて、運ばれたばかりの鍋をコンロで温めている。
「お、竜弥。久しぶりだな」
「遅くないわ、むしろ急がせたんじゃない?」
三十代後半に見える馳大に、渋味の利いた声がよく似合う。懐かしいとまで言えば、大げさかもしれない。被せられた彩芽の声もそうだったが、およそ二年半ぶりだ。
差し向かいに座る二人のうち、馳大の隣へ腰を下ろした。古そうだが、ふわっとした座布団に正座で。
「まあまあ飲め飲め」
伏せられていたグラスを取り、馳大は手酌の格好でビールを注ぐ。断る間もなく、鼻先にグラスが突きつけられた。
「あ、いや――」
「何を言ってるの。竜弥くん、まだ十九なのよ」
「ありゃ、そうだったか」
窘められた馳大は、迷わずそのグラスを一気に呷る。逆さにした中身が、奇術のように消え去った。相変わらずの無精ひげに、白い痕跡が僅か残る程度だ。
改めて冷たいお茶を頼み、ついでに白飯も。店員の女性が何度か往復する間、彩芽は冷酒を、馳大は冷えたビールを、静かに飲み進める。
「とりあえずご注文は以上でぇす」
「ああ、また後で頼むよ」
気の強い感じと思っていたのに、意外と可愛らしい喋り方の店員。馳大と笑い合って、そっと襖を閉じた。
誰も声がなく、BGMも遠く、煮立った鍋の音がグツグツと際立つ。
「……あれから、二年と五ヶ月か」
独り言。ないしは心の声が漏れたのだろう。馳大はぼそりと言った。誰かに向けたとすれば、鍋の中の鶏か豚くらいだ。
チッ。
小さく舌打ちがされた。びくっと背を動かし、しまったという顔を浮かべる馳大ではない。だが向かいの彩芽も、ちょうどお猪口を傾けている。肉厚の焼き物で、本当に飲んでいるかは見えないけれども。
「竜弥くん。今日のあやかしはね、にしんと言うの」
「え、ええ」
それはもう聞いた。とても弱いがとても危険と、よく分からない説明も。
「にしんかぁ、そいつは良くないな。食い合わせが悪い」
あやかしに食い合わせとは。相性が良くないという意味だろうが、何に対してか。
その言い方からすると、彩芽は馳大に事前の知識として何を話してもいない。竜弥と夕食を食べるから来いと誘っただけに違いなかった。
「あの。にしん、って?」
「漢字を当てるとすれば、二つの心。
あやかしの生まれる経緯からすれば、発端にはなり得る。しかしそんな気持ちがすべてあやかしと言うなら、もはや人間の心がそうとはならないか。
「ええそうよ。そんな気持ち、誰でも持っているわ。あやかしの種ではあっても、いちいち対処する必要なんてない」
やはり竜弥の疑問ごとき、彩芽にはお見通しのようだ。口調は優しくとも、言葉の一つ一つが重く感じる。お叱りモード。
馳大は隣で間を持て余したか、鍋の具材を三人それぞれに取り分け始めた。
「あやかしがどうして命を吹き込まれるか、教えたでしょう?」
「たくさんの人間が長い年月をかけて、在ると信じること。土地の風習や、強い力を持った何かで早まることもある」
昔の旅人が夜道を歩く背に、得体の知れぬ何者かが在ると感じた。風に飛ばされた白い帯を見て、宙を舞う不可思議な生き物が在ると思った。
そんな想いが強まり、噂を呼んで重なり合い、あやかしの命を形創る。神社などのように何かを祀ったり、力を持った場所では成長が早い。
人間がその目に見て、耳で聞くだけがこの世の理でない。と、彩芽に教わったのは五歳のときだ。
「でも迷うのなんか、あって当たり前の気持ちじゃあないですか」
「そうよ誰にでもある。だからその中の誰かが、これは怪しげな存在に誑かされたと思ったっておかしくない」
信じきる必要はなく、ほんのちょっぴり「そうかも」と想うだけできっかけにはなる。彩芽といえど、世界中の人間のちっぽけな心の動きまで感知できようか。
その原理を思い出させられれば、否を唱える余地はなかった。
「彩芽が危険とまで言うほどなら、そこに何かあるんだろうなあ」
取り皿の平鉢を、馳大が勧めてくれる。中にはたくさんの薄い豚肉が、白味噌の出汁に浸かっていた。
「食べながらでも話せるわ」
彩芽に渡された平鉢には、手羽元が山盛りになっている。彼女は意外にも素手で握り、空いたほうの手で隠しながらかぶりつく。
舐めとったように綺麗な骨が鉢に戻され、繊細な指はおしぼりで拭われた。
「たぶん豊山町には、というか聡司さんだったかしら? あの人の周りにね。でもそれだけじゃなくて、竜弥くんには危険なのよ。にしんと言うあやかしは、あなたの天敵と言ってもいいわ」
ついさっき、馳大が言ったのと同じ。つまり食い合わせの相方は、竜弥自身であるらしい。
「なあ竜弥」
急に彩芽は、何か言いにくそうに口ごもった。それを間髪入れず、馳大が引き継いで語りかける。豚肉も白菜も、ごちゃごちゃに取った平鉢を空にして。
「どうして警察官なんかになったんだ? いやすまん、立派な職業だと思う。でも俺たちに黙って、逃げるように」
彩芽を思い遣ってか。それとも目を逸らしているのか。問う馳大は、正面を向いたままだ。
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