第弐話:にしん 二
二十代半ばに見えるその女性は、ヒールの音を響かせて歩いた。事務机の脇を通り、竜弥の肩へ手を乗せる。
たおやかな動作は柳が風に揺れるようで、いかにも女らしい。体形のはっきり分かる、タイトなスーツのせいもあるだろうが。
「……あ。先生の知り合いかいね?」
艶のある真っ白なロングスカートの、バックスリットから覗く脚。見とれていたのをごまかすように、聡司は問うた。
「え、ええ。昔からお世話になっとる、占い師さんです」
「へえ、占い師。初めて見たわ」
「初めまして。
会釈の代わりに傾げられる首。血に染めたような赤い唇が、きゅっと両端を上げた。切れ長の眼も、細筆で引いた一本の線に見える。
この微笑みで油断しない男を、竜弥は未だ見たことがない。
「牧師? 教会の人じゃったんか」
「いえ占いには、
「ああ、すまんのう。占いたら、よう知らんのじゃ。女房やら娘は好きなんじゃが」
「構わないわ」
吐息混じりに小さな笑声を発して、彩芽は聡司に座るよう手で示す。
自身も壁に立て掛けていたパイプ椅子を取り、音もさせず撫でるような仕草で開く。長い脚を組んで座ったときには、聡司と差し向かいの格好だ。
ひとり立ったままの竜弥は所在なく、気配を消すようにそっと座り直した。
「相っていうのは、人や物の表面に見える運勢を読む方法。命は、生まれた日や場所、その人に纏わる経歴から先を読むの」
「はあ、なるほど」
今の説明を後で聞いても、薄ら笑いの聡司は覚えていまい。細く長い指に触れられ、あまつさえ手を挟まれてしまっては。
「そして卜は術具を使って、その動きや流れで宿因を知る。平たく言うと、未来に関わる事件のこと」
「ええ? 儂が何か、事件に巻き込まれるんかいね」
「違うわ。喩えば結婚式だって、その人にとって大事件よね? 良いこともそうでないことも、大きなものも小さなものも。人間の宿には何もかも刻まれているわ」
竜弥は知っている。彩芽の使う術具とは、占う相手そのものだ。
ならば手相や人相と同じではないか。以前にそう聞いたこともあるが、違うらしい。
「ご近所の人から、土地と機械を買うか迷っているのね。お金の問題よりも――」
聡司の手を左手に乗せたまま、彩芽の右手はあちこち動き回った。腕を這い上ったかと思うと、顎を撫でる。そこから胸の中心を通って、腹を突き刺すようにする。
爪は長いが、よく手入れがしてあって痛くないはず。ただし、良からぬ勘違いをさせる動作だ。
「その人との折り合いを気にしている、のかしら?」
「あんた、すごいのう。そがいに
美人なのは占いと関係がない。反射的に思って、そうでもないかと改める。
平たい顔にゲジゲジ眉毛の竜弥が同じことをして、素直に占わせてもらえはしないだろう。左官仕事としては上等だと、酷い悪口を言われたこともある。
「大丈夫。その人は、あなたに悪意を持っていないわ。誰か別の人から横槍でも入らない限り、問題は起きない」
「ほうか。そがぁに言うてもらえたら安心じゃわ。
自信たっぷりの笑みが、また信憑性を増す。聡司もへらへらと笑って、何度も頷く。
交渉相手の
「解決したなら良かったわ。あ、そうそう。後から言って悪いけど、ロハでは占わないことにしているの」
「カネが要るんかいの。んん、まあええわ。なんぼ?」
「竜弥くんのお仕事を盗ってしまったし、百円でいいわ」
「なんじゃ、そがぁに安ぅてええんか」
実年齢は知らないが、彩芽は美人だと竜弥も思う。その人に触れられて、悩みも聞いてもらえる。
それが百円なら、たいていの男は喜んで払うだろう。
――僕はそんなこと目当てにせんけど。
誰に対してか分からぬ弁明を竜弥がする間に、聡司は軽トラから小銭入れを取って戻る。黒く薄っぺらい小さながま口からは、白銀色の硬貨でなく青みがかった紙幣が取り出された。
四つ折りになったそれを受け取り、彩芽は丁寧に開く。見慣れた岩倉具視の顔が、逆さまだ。
「お釣りは要らないということかしら?」
「ええよええよ。はっきり言うてもろうて助かったけえ」
「そう。事業がうまく行くのを祈っているわ」
運転席に片足を乗せたところで、聡司は振り返った。
事業とは何のことか、竜弥は聞いていない。だが図星だったようで、驚きが顔に浮かんでいる。
「何でもお見通しじゃのう。また見てもらおうてぇ」
「いつでもどうぞ」
手を振る彩芽に、聡司も恥ずかしげながら振り返す。黒煙を吹くエンジン音も、いつもより張り切った風で走り去った。
「お久しぶりです彩芽さん。じゃけどここに居るって、よう分かりましたね」
「そのくらいは、すぐ分かるわよ」
さも意味あるように、晴れた空を彩芽は見上げる。
それでだいたいは察しがつく。警察官になったことも、勤務先がここであることも、知らないはずの彼女が来れた理由が。
どうやら占いではないらしい。
「そんなことより、その手。見せなさい」
「あぁ、やっぱりそのことなん」
聡司に憑いたあやかしを吸い取った白手袋を、竜弥はまだ着けたままだ。
言われた通り差し出すと、手首がつかまれて引き寄せられる。反対の手では、頭が撫でられた。幼いころから姿の変わらぬ彩芽に、何度こうしてもらったことか。
――いや、今はまずいじゃろ。
「あ、彩芽さん。僕、勤務中じゃけえ」
警察官が駐在所内で女と抱き合っていた、などと。誰かに見られては困る。
幸いに目の前の道路は、十分に一台も車が通るかどうか。すぐ隣の家までは、歩いて十五分かかるけれども。
「黙ってじっとしていなさい。死にたいの?」
はっきりと言いきる口調に、厳しさはない。あくまでも彩芽の物腰は柔らかい。
しかしなぜか、逆らいがたいものがある。誰にも見られぬことを願い、竜弥は身を委ねた。
「大丈夫。まだ引き剥がせるわ」
「面倒かけます」
じっと手袋を見ていた彩芽は、おもむろに噛みついた。治りかけの包帯を取るように、ゆっくりと竜弥の手から外す。
黒く汚れていた手袋に、白さが戻りつつある。その色がどこへ行ったかと言えば、竜弥の手だ。墨汁の染みに似て、皮膚の中まで侵み入って見える。
なおかつ古い油汚れのような、ぎとぎととした糸が手袋と手を繋ぐ。
――こりゃあ入院コースじゃ。
彩芽が来てくれなければ、そうなるところだった。運が良いのか悪いのか、入院の代わりに今日は酷く叱られるに違いない。
「少し熱いかも」
何度も見てきたので知っている。それでも彩芽は断って、咥えていた手袋を宙に放った。枯れ葉が舞うように、高い位置からひらひらと落ちる。
「ふうっ」
並木道を抜けた気分にさえなる、清涼な吐息が吹き付けられた。と、瑠璃色の火が手袋を包む。続いて吹かれた、竜弥の手も。
熱い。が、我慢できないほどでない。表面よりも、内側が。よく効く温泉に入ったような、染み込む熱さが段々と心地よくなっていく。
「終わったわ」
一瞬、気を失ったかもしれない。立ったままだが、彩芽に支えられていた。頭を撫でる手はそのままに。
「す、すみません」
「謝ることが違うわ。ほんと、竜弥くんに空く間術式を教えたのは間違いだったわ」
彩芽の声はいつも柔らかい。それだけに、叱られると胸へ重くのしかかる。心から案じてくれていると、痛いほど伝わってくる。
「今のあやかしはね、にしん。とても弱いけど、とても危険よ」
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