廣島あやかし異聞【青年篇】
須能 雪羽
第壱話:にしん 一
※ この物語はフィクションです。登場する名称、法制、出来事等すべて架空のものです。
「どうしたらええかねえ」
事務机を挟んで向かい合う
泥染みのとれないポロシャツ。首には
たいして運動経験のない竜弥が勝っているのは、身長くらいだろう。腕相撲をしたとて、勝てる自信は全くなかった。
そんな男が、相談の相手として選んだはずの自分を見ない。
「どうしたらいいかって、僕には決められんですよ?」
「そりゃあ分かっとるわいね。先生ならどうするんかね思うて、聞いてみよるんよ」
まだ十九歳。社会に出たばかりの竜弥を、聡司は先生と呼ぶ。今日は休みの先輩が居る時には、若い先生と。
それは着ている衣服のせいだ。暗いグレーのシャツ。同色のスラックス。腰には分厚く硬い
二人の話している建物の入り口には『
「奥さんは、どう言っとってんです?」
「あんなに言うたって、分かりゃせんよ。足し算引き算もできゃあせんのに」
「えっと――そうなんですねえ。お子さんとか?」
年配の使う古い廣島弁。妻のことを「あんなもの」呼ばわりしても、嫌っているわけでない。
むしろ近辺では最も仲の良い夫婦だと竜弥は思う。
けれども足し算も引き算もという部分は、事実に近い。尋常小学校にもきちんと通えたか怪しい世代だ。
だが、気になる。竜弥が初めてこの駐在所へやってきた日、荷台にいっぱいの野菜をくれた聡司。いつも快活な口調に、何か靄がかかったようではあった。
「街に出たんじゃけえ、田舎のことを言うてもね」
「そうなんですねえ……でもかなりの金額になりますよねえ」
「いや、大したこたあないんよ。六反が三百万、トラクターが二百万いうんじゃけえ」
六反。約六十アールの畑と、中古のトラクター。特に後者の高いのは聞き及んでいるが、きっと破格なのだと推測する。
それでも五百万円。給与というものをもらい始めてまだ一年と少しの竜弥には、想像し難い買い物だ。
「お得なんですよね?」
「安いなあ安いねえ。相場を思うたら、トラクターはタダみとうなもんよ。手ぇ拡げようか思いよったし、ちょうどええんじゃけどね」
――そこまで分かっとるなら、僕が言うこたあ何もないじゃあないね。
情報の確実なところを言う分には、視線が逸れない。どうして先輩の居る日でなく、竜弥だけが居る今を狙って訪れたのか。
この沈黙の間も、また窓の方へ目が泳ぎ始める。その辺りを総合すると、聡司の訪問した意図は知れた。
要するに、背中を押して欲しいのだ。
経験の豊富な先輩ならば、家族や農協などに相談しろと丸め込むに違いない。
だから仮にも先生と呼ばれる職業で、都合のいい意見を言ってくれそうな竜弥が相談相手に選ばれた。
「絶対に損をせんのなら、迷うことはないんでしょ?」
「ほりゃほうよ」
当たり前のことを言うなと口にはしない。しかし苦笑が物語っている。
竜弥がそうしろと言ったから決めたことにしたいんだ早く言え、と。圧力と言えば大げさだが、それに類する感情が見えた。
アルミサッシの掃き出し戸から、晩夏の涼しい風が流れ込む。県道の向こうに続く山がちな景色を、聡司の軽トラが遮った。
「なんでそこまで悩むんです? いや高い買い物なんは分かりますけど、その為のお金も用意しとったんでしょう?」
もう一つ、察しのついたことがある。
どうしても欲しかった物を、いざ買おうという時。それが何十万も何百万もするとなると、尻込みする気持ちが芽生えてしまう。
それは誰しもあることで、何ら不思議はない。
だが、今日の聡司はおかしい。どうして門外漢もいいところの人間に、責任を負わせるような問いを続けるのか。
竜弥が地元の出身で、同年代で、同じく農業をやっていて、幼なじみとでもいうなら分かる。しかし実際は、どれも当て嵌まらない。
「用意しとるよ。じゃが関係なしに、畑のことを知らん人でも買う言うてもろうたら、安心できるけえね。嘘でもええけえ、言うてえや」
聡司は両手を合わせ、拝む。懇願と呼んで良い。嘘でも良いからとは、もはや何の保証にもなるまいに。
とは言え「買うべきだ」「買ってはいけない」と意見でなく、竜弥ならどうするかくらいは告げても良いように思える。
しかしその前に一つ、やっておかねばならない。
「あれ、額に何を付けとってんです?」
「ん、何か付いとるかいねえ」
「ああ取りますよ、眼を瞑っとってください」
聡司は素直に従う。新品の白手袋を素早く着け、呟いた。
「
数十センチの距離にある、聡司の耳にも届かぬほどそっと。
同時に指先を、眉間から上に擦り付ける。言いわけにした通り、汚れを拭う感覚で。
額を過ぎ、そのまま頭上へ。するとごま塩頭の脳天に、変化が顕れた。
ズズッ。と、輪郭がずれる。
赤青のメガネをかけずに見た、立体映像のように。ただそれには、中身がない。縁だけをなぞって、目鼻も口も描かず塗り潰したかのごとく。
駐在所の貧弱な蛍光灯が作った影にも思えた。しかし本物のそれは、コンクリートの床に薄っすらと落ちている。
ほんの僅か。長袖に腕を通すくらいの抵抗だけで、引き摺り出されていく。現実にある物かと問われれば、竜弥は答えを持ち合わせない。
――意外と大きい。
色は薄くとも、全身分がある。つま先が脳天から離れたところで、急に萎んでいった。
これそのものが、何という名か知らない。だがどのような存在かは教わった。その対処法も。
「取れたかいね?」
「あ、すみません。もうちょっと」
こそばゆげにする聡司の額を、もう一度撫でる。さっきとは違う指でだ。
――蓋をしておかなきゃ。
「
また呟く。こうしておけば、もう憑かれることはない。少なくとも同種のそれには。
あやかし。
いま吸い取ったのは、まだそうなる前の何か。竜弥がどうにかできるのは、この段階までだ。
「取れましたよ」
「ありがとの。ん、手袋で拭いてもろうたんか。悪かったのう、
煤が付いたように、まだらに汚れた指先。聡司は気付いて、新しいのを買って返すと言った。
「いやいや、警察官用で普通には売ってないし。洗うても色が落ちんけえ、そろそろ捨てよう思うとったんです」
「ほうなんか。ほしたらまた、畑から何か持ってくるけえ」
「気にせんとってください」
朗らかに笑う聡司の眼が、先ほどとまるで違う。水面に油を浮かべたようなぎらつきがなくなり、日光と酒に焼けた赤みがその下に差した。
「ええと。ほいでさっきの話ですけど、僕なら。あくまで僕自身じゃったらですよ」
「うん、どうする?」
「そのお金がなかったものと考えても差し支えないなら、買います。損をしたときに困るようなら買わんです」
至って普通の、当たり障りのない答え。事業を拡大するや否やの相談に対して、幼稚ではある。
「ほうか、やっぱりそうよの。儂が思うんと同じじゃ」
満足そうに聡司は頷く。結局どうしろと言うのかはっきりしろ、などと喰い下がることはない。
「相談しに来て、えかったわ。今日は手ぶらじゃけえ、また寄らせてもらうわ」
「それは気にせんとってください」
用件が済んで、聡司はすぐに椅子を立つ。畑仕事だけでなく、青年会の役割りなど、やることはいくらでもあるのだ。
見送ろうと竜弥も腰を上げかけ、気が付いた。聡司の後ろに、誰か立っている。
「竜弥くん、良くないわ」
長い栗色の髪が、風に靡く。花の薫りのお香が、駐在所を満たした。
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