Chap.5-3

 暗闇に慣れてしまった目がくらむ。屋内舎を出ると、雲が晴れ夏の日差しがギラギラと照りつけていた。

 上野動物園は東と西の二つのエリアに分かれている。お目当のペンギンがいる西エリアへ移動するためには、長い橋を渡って行くことになる。

 見通しの悪い木々の間を抜け、西エリアに続く歩道橋の上に出ると、ちょうど空へ向かって、白い翼を持つ水鳥たちが羽ばたいて行った。西エリアの半分を占める広大な不忍池の景観が橋の上からよく見渡せた。太陽の光を弾く水面。少し先を行くチャビがその景色に、「わー!」と声を上げた。歩道橋の上からずっと続いて行くように見える空をバックに振り返るチャビへ、僕も手を振り返した。

 西エリアを探索する前に、少し休憩。近くの売店で買ったフレッシュジュースを片手に腰を落ち着ける。

 僕がトイレから戻ってくると、チャビがベンチの側でそわそわとしていた。

「どうしたの? チャビもトイレ行く?」

「ううん、大丈夫。早く行こう」

 そう言いながら、僕の手を引っ張った。早くこの場を離れたい。そんな感じだ。辺りを警戒しているようでもある。とにかくずんずん先に行ってしまう。

「ちょっと待てってば。何かあった?」

「うん……ちょっと」

 ベンチを離れて少し安心したのか、チャビはタテガミオオカミの檻の前で、僕が追いつくのを待ってくれた。

「スローロリス。ボクに似てるって、いっぺいくん言ってたでしょ?」

「え? ああ、そうだね」

 夜の森のコーナーにいた動物だ。話が飲み込めずに曖昧に相槌を打つ。

「ホントかなと思って、SNSにアップしたの。ボクに似てる? て聞いてみたんだ」

「アレ? チャビもSNSやってたっけ」

「うん。あんまり発言してないし……アルバイト用なの。バイトの都合でアカウントを作らなきゃいけなくて」

「そうなんだ」

 アルバイトでSNSをしなくちゃいけないというのがイマイチぴんと来なかったが、話の腰を折ってもしょうがないので肯いておく。

「フォロワーさんに、仕事をキャンセルしたから体調でも悪いの? て聞かれてね。心配させたら悪いかと思って、スローロリスの写真をアップしたんだよ。そしたら、ボクがいるとこ、上野動物園だってわかっちゃったみたいなの。近くにいるからこれから会いに来るって」

「誰が? 友達? バイト先の同僚とか」

「ううん。友達ではないの……バイトのお客さんなんだけど、すごく一方的にボクのこと好きって言ってて」

 チャビは言いにくそうに口を濁した。ネットストーカーという言葉が頭をかすめる。そもそもSNS上で、客に向かって専用アカウントを作らないといけないアルバイトとは……。

「でも、たぶん大丈夫。今までもそんな風に言われて実際に来たことはなかったから。ちょっとした冗談なんだと思う」

 心配をさせまいと気をつかったのか、それとも何かを悟られないようにしたかったのか。チャビはいつものように愛想のいい作り笑いをした。


 お楽しみのペンギン舎は一番最後にとっておき、地図を頼りに他の動物たちを見て行く。

 やはりさっきの出来事が気になるのか、ときどき周囲を警戒するように見回しているチャビは、無理して元気に振る舞おうとしているようだった。いくらはしゃいで見せても、僕の表情が優れないことを悟ると、チャビはとぼとぼと歩き出した。

 西エリアの隠れた人気者は「ハシビロコウ」というペリカンの仲間だ。何年もかけて風化してしまった紫色の怪獣みたいな姿をしている。絶滅危惧種に指定された大変めずらしい鳥らしい。日本でこのハシビロウコウを見ることができるのは、上野動物園を含む数箇所だけ。そんなことが解説の看板に書いてあった。

 じっと動かない姿が静かな人気を呼んでハシビロコウ「さん」の敬称付きで親しまれている。ケージの前はカメラをかまえた人たちで賑わっていた。しかも女子率が高い。チャビはハシビロコウさんに興味があったようだが、女子の群れに遠慮をしてしまったようだ。

「ボク、女の子が苦手なの。だいたいボクのことを避けるから」

 出かけ際に聞いた、高校に馴染めなかったという話を思う。多感な年頃の女の子にとって、太ってるというだけで忌み嫌う対象になるのかもしれない。

「チャビはもっと自分に自信を持ちなよ」

 自然とそう言っていた。昔のチャビとは違う。自分が一部のゲイにモテることだって気がついているはずだ。そうでなければ、SNSでチヤホヤされるようなアルバイトなんてしないだろう。

「そうかなあ。ボク自身は何も変わってないんだ、あの頃と。そばにいる人をイライラさせたり不快な気分にさせる。きっと、ユウキくんが、ボクのこと嫌いなのとおんなじ理由だよ。みんなそうだった……昔からそうだから、わかるんだ」

 コビトカバの檻の前をゆっくりと歩きながら、チャビは話を続けた。今日のチャビはいつになく饒舌だ。いや、いつも無口だと勝手に思っていただけなのかもしれない。

「ボク、お父さんもお母さんもいないの。お母さんは、結婚もしていないのにボクを産んで、そのときに死んじゃったんだって。高校までは面倒みてやるって、オバさんのとこで暮らしてたんだけど。高校も中退しちゃったし、ほとんど家出みたいに飛び出してきちゃった。お金もないから、どうせ大学も行けなかっただろうけど」

 コビトカバの耳が水面からピョコンと飛び出していた。小学生のグループが「うわあ、カバくっさーい!」とゲラゲラ笑っている。

「タカさんに出会わなかったら、ボクまともな暮らしをしてなかっただろうな、てすごく思うんだ。今もゲームばかりで、まともじゃないかもしれないけどさあ。でもあの頃に比べるとだいぶマシだよ。みんなボクの話をちゃんと聞いてくれるし。ユウキくんだって、高校の頃の同級生に比べたら、コソコソ影でボクに聞こえないように悪口を言ったりしないでしょ? ボクの何が悪いのかちゃんと言ってくれる。それで自分のことが少しだけ好きになれたの。だからユウキくんが、ボクのことを嫌いでもそれはしょうがないんだ」

 チャビが自分からユウキのことを言い出すとは思わなかった。いつもニコニコとマイペースに見えるチャビだけど、むしろ本当は人よりも繊細で多感な青年なのかもしれない。

「ユウキにも悪いところはあるんだ。しょうがないで片付けてしまったら、ユウキだって自分の悪いところを直せないだろ? チャビも少しずつユウキに言ってあげたらどうだい?」

 僕の言葉にしばらくチャビは沈黙した。

「……少しずつ、そんな風になれたらいいね」

 そうつぶやいて、コビトカバの檻の前にたたずむチャビ。何を考えているのだろう。虚ろな瞳をカバに向けるチャビの横顔をそっと見守った。


Chap.5-4へ続く

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