Chap.5-2

 JR上野駅。公園口改札を出て、広大な上野公園の敷地を縦断するように美術館や博物館の間を歩いていくと、見晴らしの良い広場の向こうに、すぐ動物園の看板が見えてきた。白黒のパンダが笹の葉をかじっているイラストだ。

 券売機の前でリュックに手を突っ込んでゴソゴソとサイフを探しているチャビに、

「いいよ。今日は僕が誘ったから」と二枚発券した入園チケットの一枚を渡した。看板と同じジャイアントパンダのイラストが描かれている。チャビは「わあ、いっぺいくんどうもありがとう」と、とても大事なものを受け取るように、六百円のチケットの両端を持って目をキラキラとさせた。


 夏休みとは言え、平日の上野動物園は人もまばらで閑散とした雰囲気だった。

 猛獣やシロクマのような人気のオリの前を子供たちが占拠してはしゃいでいた。今は公開を中止しているというパンダが見れなかったのは残念だったが、ありふれてよく知っていると思っている動物たちでも、実際に目にする彼らの姿は新鮮な驚きに溢れていた。

 日差しを受けて翼を大きく広げるオオタカ、木の虚で身を寄り添わせて眠るフクロウの夫婦、ぐでえ、とやる気がなさそうに寝そべるバクの様子は、リビングのソファで缶チューハイ片手に寛いでいるリリコさんの姿を連想させた。

 シロクマ舎では、シロクマの巨体を下から見上げることのできるスポットがあって、チャビは強化ガラス越しに見えるシロクマの肉球と自分の手の平を見比べてから、僕の方へ振り向いて笑顔を見せた。早く次が見たいのか、ひとり出口のある光の差す先へ駆け出していく。

「わあ……ゴリラの毛並みって、すごいキレイだね」

 チャビから感嘆の声が漏れる。マウンテンゴリラの檻の前で、その毛並みの美しさに二人そろってため息が出た。黒く艶々とした大きな背中は実に逞しい。

「アザラシって頭の中のイメージより相当大きいね」とか。

「ボクがムササビだったら、好きな人にあんな風にダイブしたいな」とか。

 チャビのひとことひとことは、もしひとりだったら見逃していただろう驚きや感動を僕に教えてくれた。ペンギン目当てではあるけれど、やはりチャビは動物全般が好きなようだ。

 そしてもうひとつ発見。チャビって愛称は「可愛い子豚さん」て意味だが、チャビを形容するのにもっと相応しい動物が他にいたのだ。それはスローロリスという。

「ボクってこんなにノロマかなあ?」

 チャビは不服そうな顔をした。目が大きくて動作の緩慢な猿のような動物だ。ふてぶてしくて、図体を大きくさせたらナマケモノにも似ている。何かを問いかけてくる時、チャビはスローロリスのように素朴にこちらをじっと見つめることがある。そんなチャビの姿とスローロリスが小首を傾げる様子が重なった。

「これ、おじいちゃんじゃん」

 スローロリスを指をさしながら、チャビはおでこにシワを寄せた。

「ボク、まだ十九才なのに、こんなおじいちゃんみたいかなあ」

 チャビの呟きに思わず「エェ!」と奇怪な声を上げてしまった。

「チャビってまだ十代だったのか?」

「そうだよ」

 ユウキよりは年下だろうとは思っていたが、まさか十代とは……。貫禄があり過ぎる。マジマジとそのぽっちゃりとした体型を見つめた。

 僕にも最近ようやく理解出来たことがある。ゲイにモテる体型にも様々なジャンルがあれど、どんな体型を目指すにしても時間と労力が相当かかるものだ。一朝一夕に成し遂げられるものじゃない。そう、太るのにだって努力がいる。ただ緩慢に太った人のことを「駄デブ」と呼ぶように、モテるように太るためには筋トレだって必要かもしれない。だが、チャビはゲームばかりしていて、そんな努力をしている気配もない。それでもチャビは、その筋で相当モテるはずだ。しかもまだ十代でこの完成度。これは一種の才能かもしれない。

 チャビはデイバッグからスマホを取り出すと、「似てるかなあ」と何度も呟きながら、きょとんとした目のスローロリスの姿をカシャカシャと何枚も写真に収めていた。

 スローロリスがいる夜の森のエリアは、照明がほとんどついていない屋内舎で、本当に夜のジャングルを恐るおそる進んでいる気分になった。

 木立の影、暗闇に二つの光が閃いた。やや緑がかった光の点がパチパチと瞬く。

「トラの子供か?」

「ううん、ヤマネコだよ。ベンガルヤマネコ。日本に住んでるのはイリオモテヤマネコっていうの」

 イリオモテヤマネコ。うん、聞いたことがある。沖縄に住んでいる。確か天然記念物じゃなかったっけ。聞いたことのある動物で、しかも少し珍しいとなるとテンションが上がった。ヤマネコは僕らに一瞥をくれると、さっと低木の枝に乗り移り、身を翻して暗闇の中に消えてしまった。

「なんだ。愛想のないヤツだな」

「ネコは独立心が強いから。警戒や威嚇はするけど、自分の縄張りが守られていれば基本、他のことには無関心なんだ」

「無関心ねえ。なんかひとりぼっちで生きてくのは寂しそうだなあ」

 ヤマネコの消えた枝を見つめる。

「そうかな?」

「そうだよ。それって人間の価値観かもしれないけどさ。少なくとも人はひとりでは生きていけないだろ?」

 チャビはヤマネコの消えた暗闇をじっと見つめてから「ネコの縄張りの範囲てどれくらいか知っている?」と聞いてきた。

「え、どうだろう……」

 想像をしてみる。町で見かける飼い猫の縄張りは、そんなに広くはなさそうだ。マンション近くのコインパーキングでいつも見かけるネコは、そこ以外でほとんど見かけたことがない。せいぜい通り三つ分くらいか。ただヤマネコのように野生で暮らしている場合は想像もつかなかった。

「ネコの縄張りはね、だいたい1キロメートルから6キロメートルて言われてるよ」

「フーン、ずいぶん差があるんだな」

「うん。メスよりオスの方が行動範囲が広かったり、飼い猫で十分にエサが与えられてると、二、三百メートルしかない場合もあるんだって。エサの有り無しで変わっちゃうの。縄張りは、もともと余計な争いを避けて、自分のエサを確保するためのものだから。この範囲にあるのは、ボクの食料だよってね」

「生きるためのネコの習性か」

「ひとりぼっちで寂しいのと、エサをめぐって誰かとケンカしちゃうのとだったら、ボクもひとりぼっちの方がいいかもなあ」

 チャビは他にもネコの習性を教えてくれた。いつも決まった道を歩く『ネコの通り道』や、近隣のネコたちが夜な夜な集まる『ネコの集会場』について嬉しそうに話すチャビ。耳を澄ますと夜の森の暗闇から、翼を持つ動物の羽ばたきが聞こえてきた。


Chap.5-3へ続く

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