虹を見にいこう 第5話『皇帝ペンギンの見る空』

なか

Chap.5-1

 東京の空がカラッと隅々まで晴れ渡っているのを見る機会は少ない。いつでも薄くヴェールのかかったような色をしている。それは自動車の排気ガスや工場の排煙で、空が汚れているからなのだろうか。それとも東京の空は雲が流れこみやすいのだろうか。

 レースのカーテンをめくって、目にした今日の空も薄曇りだった。スカッと晴れた青空ももちろん好きだが、先週末は海で騒いで少し疲れてしまったから、今の気分にはこれくらいの穏やかさがちょうどいいようにも思えた。キッチンでコップ一杯の水をぐっと飲み干す。寝起きでカラカラの喉に水が染み渡る。


 休日出勤の代休が急に取れることになって、予定のない平日の休暇。

 せっかくだから思いっきり寝坊をしようと思っていたのに、目覚まし時計の設定をオフにするのを忘れていて、いつもの時間に景気よく鳴り響いてしまった。しばらく布団の中でゴロゴロしていたのだが、すっかり目が冴えてしまって、のそのそと起き出した。

 相部屋のリリコさんはいつも僕より早く出勤するので、既に姿がなかった。週末どれだけ飲み明かしてもきっちり出勤していくのだから、そのバイタリティだけは尊敬できる。

 ゲイデビューして間もない僕に、リリコさんは「もっとアクティブになりなさいよ、もったいない」と口グセのように言う。でも引きごもりがちなのは、もともとの性分なのだから仕方がない。


 リビングは、窓から差し込む朝日の淡い光に包まれていた。

 チャビがひとりゲームに没頭していたので、「おはよう」と短い挨拶を交わす。特に会話も続かないが、いつものことなので気にならない。ユウキも既に仕事に行ってしまったようだし、遅い時間までお店をやっているタカさんは午後になってから起きて来ることが多い。しんとした室内に、ゲームの電子音だけが小さく響いていた。

 ソファに腰を沈めてテレビのリモコンを操作した。画面に大きなパンダの看板が映し出される。上野動物園だ。東京に住んでもう何年にもなるが、行ったことがない。スウェットズボンに手を突っ込んだまま、ぼーと朝の情報番組を流し見する。

『実は百年以上の歴史のある上野動物園。長い歴史の中では悲しい出来事もありました』

 かわいそうなゾウの話。テレビのリポーターが、いつかどこがで聞いたことのある、そんな話を始めた。日本とアメリカが戦争をしていた頃。戦火が国土におよんで、動物たちを銃殺するように軍から通達があった。混乱に乗じて逃げ出した動物達が人を襲うことのないように。まったくもって身勝手な人間の言い分だ。動物園の人達は銃殺を選ばず、動物のエサに毒を混ぜた。少しでも安らかにいってくれることを願って。

『でも、ゾウだけは最後まで毒の混ざったエサを食べませんでした』

 頭の良いゾウはエサに良くないものが混ざっていることを敏感に感じて、決して口にしなかった。結果、ゾウたちは絶食による餓死をとげることになる。

『この話は語り継がれ、現在にいたりますが、実は猛獣が人を襲うことを恐れた軍の命令ではなく、戦火から遠い東京の市民へ危機感を見せしめるために、行政が指示した事であったという真実が近年わかりました』

 テレビのレポーターはそう続けた。

 後に東京は大空襲に見舞われることになる。もし生きていたら、逃げ出した動物たちが人を襲ったかどうかはわからない。だがそもそも動物を殺し見せしめることが目的だったという後味の悪さ。そんな理由で……と悔しさのあまり思わず前のめりになっていた。深く息を吐いて、再び身体をソファに沈める。そうか、もうじき終戦記念日なんだと思い当たる。

「かわいそう……」

 ふと気がつくと、僕の足下へ寄り添って、チャビもテレビに目を向けていた。お気に入りのペンギンのマグカップを両手で包むように持ったまま、グスンと鼻をすすっている。チャビの頭にそっと手を乗せた。柔らかい栗色の髪の感触が手のひらに伝わる。そのマグカップが気に入っているのも、ペンギンのロゴマークがあるからのようだし、もしかしたらチャビは動物が好きなのかもしれない。

「上野動物園、行ってみる?」

 自然とそんな言葉が口をついた。

「え?」

 チャビは鳩が豆鉄砲食らったような声を出して、こちらを見上げた。

 チャビと二人でどこかへ出かけたことはない。そもそも食事のとき以外はほぼゲームをしているチャビとは会話の内容も限られていた。「チャビ」というあだ名以外、考えてみると何も知らないのだ。

 チャビのことをもっとよく知りたい。

 一緒に暮らしているルームメイトとして、そんな思いがずっとあった。ユウキとの仲が悪いのも気になったままだ。

「上野動物園て、ペンギンいるかな?」

 ボソッとチャビがつぶやく。

「どうだろう。チャビはやっぱり、ペンギンが好きなんだ?」

 マグカップの絵柄に指を向けると、チャビはコクリと肯いた。

「うん。ペンギンは鳥なのに、飛べないところがカワイイでしょ?」

「ダチョウも鳥なのに飛べないよ」

「ダチョウはカワイクない。カッコイイかもだけど……」

 眉をへの字に曲げるチャビ。まあ、言わんとすることはわからなくもない。

 上野動物園にペンギンがいるのか。チャビが期待を込めた目で見つめてくるので、スマホの検索ウィンドウに『上野動物園』と入力してみる。

「あ、いるよペンギン。園内マップにペンギンマークがついている」

 スマホの画面をチャビに向けた。短足で黄色いクチバシ、頭に毛が三本生えたペンギンのアイコンだ。途端にチャビの目が輝いた。

「ホントだあ。じゃあ、上野動物園行きたい」

「よし、そうと決まれば、さっそく準備しよう」

 ソファから跳ね起きる。

 予定のない休日にふと決まったお出かけだ。自分で言い出したことだけど、動物園に行くなんて久しぶりだし、始めての場所に心も弾んだ。まずこの寝起きのスウェット姿をなんとかしないといけない。シャワーも浴びて、歯磨きもしなければ。昨夜洗濯したポロシャツはもう乾いただろうか。

 あれこれと僕が行ったり来たりバタバタやりだした一方で、チャビは自分の部屋から緑色のリュックを持ってくると、携帯ゲーム機の充電コード突っ込んで、もう準備は万端といった様子。よくよく見るとリュックにもマグカップと同じペンギンのロゴマークが入っている。そのリュックを両手で抱え、これから散歩に行く犬のようにして、僕の準備が終わるの待っていた。ペンギンがそのブランドのロゴマークなのだろう。

 軽くシャワーを済ませリビングに戻ってくると、チャビが、

「あ、そうだ。バイトのシフトを取り消さなきゃだ」

 慌てた様子でリュックのポケットからスマートフォンを取り出していた。

「へ? チャビってアルバイトしてたんだ?」

 袖を通したポロシャツのボタンを留めながら何気なく聞く。

「だって働かないとご飯食べられないよ」

 もちろん誰だって働かなきゃ生きてはいけない。でもチャビはアルバイトすらしているイメージがなかったというか。

「バイト、そんな急にキャンセルしちゃって大丈夫かい?」

「うん、大丈夫。もともとあるかどうかわからないんだ。シフトを入れておいて、仕事が入ったら行く感じなの。予定をウェブ上で取り消すだけだから」

 簡単に取り消しが出来るのは便利だが、随分不安定なバイトだなあと思う。

 何のアルバイトだろうと思って正直に感想を口にすると、

「ボク、学校もまともに出てないから就職もちゃんとできないんだ」

 スマホ画面を操作しながらチャビは言った。

「学校も出てないって、高校?」

「うん、そう。高校中退なの。なんかボクってまわりの人をイライラさせちゃうみたいで。クラスにもなじめなくて、途中で行くの止めちゃったんだ。みんなをイライラさせちゃうのは今も直ってないけどね。だからバイトも長続きしなくて」

 チャビにしては珍しく早口で、さっさとこの話題を終わらせたいのが伝わってきた。

 いろいろ説教じみた言葉が喉まで出かかる。が、思い直した。毎日のようにブラブラしているチャビをユウキが嫌っているのもわかる。ただ、チャビが高校中退だってことすら今まで知らなかった僕が、偉そうに何かを言っても、チャビには何も届かないような気がした。


Chap.5-2へ続く

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