第37話 兄貴と美人のお姉さん
「ほっほっほ〜。秋になったら文部卵、実は一個五千円〜」
ある日の午後、たけしはスキップしながら、商店街に向かっていた。
右手の買い物袋は、グルングルンと大きく縦に回転している。良い事でもあったのか、上機嫌に鼻唄まで口ずさむ。
そんなたけしを、ある人は優しい笑顔で眺め、またある人は心配そうに買い物袋を見つめる。
そして、商店街の入り口まで来ると、たけしは徐に足を止めた。
人気を博していた飲食店だけでなく、肉屋の前にも僅かだが行列が出来ている。酒屋の改装工事やドラッグストア店舗の新設等で、多くの職人達が忙しそうにしている。飲食店で行列を待つ人々は、期待を込めて工事を眺める。
そんな風景を見ていると、自然と笑顔が浮かんでくる。
顔馴染みのお客さん達は、たけしに声をかける。そんな人達に笑顔を返し、たけしは飛び跳ねる様に歩みを進めた。
「鰤はブリっと、ぶりぶりり〜。秋鯖は〜、嫁に食わすな〜」
「うちの前で、妙な歌は止めろ! それよりたけし、ちょっと来い!」
たけしを呼び止める声がかかったのは、魚屋を通り過ぎようとした時だった。他の店と異なり、閑散とした様子をしげしげと眺め、たけしは少し溜息をついた。
「おっちゃんの店は、お客さんが居ないっすね」
「違う、見ろ! 売り切れたんだ!」
「夕方のお客さんは、どうするんすか? 見込みが甘いって、兄貴に報告しとくっす」
「明日は挽回する! 頼むから、それだけは止めてくれ!」
流石に、叱られたく無いのだろう。政は、縋るように手を合わせる。ただ、そんな素振りは一瞬で終わる。政は、たけしに顔を近付けると、小声で話し始めた。
「さっき、あんちゃんと一緒に、美人の姉ちゃんが挨拶に来たぞ! あんちゃんのアレか?」
「いや、近いっす。キモいっす」
「おい! キモいって、酷くねぇか?」
「うるさいっす。それで、どんな人っすか?」
「二十代の半ば位か? 短めの髪で、ちょっと肌が浅黒い感じ。愛想の良い超美人だ!」
「それだけっすか?」
「それが何だってんだ?」
「そっすか。なら、彼女さんのお仕置きコースっすね」
気持ち悪がられた上に、妙な告げ口をされては堪らない。政の声量が、徐々に上がっていく。
「知世ちゃんは、関係ないだろ! 見てただけだし!」
「美人さんに見惚れるから、大事な事を見落とす上に、色々と聞き逃すっす」
「どういう事だ?」
「兄貴の他にも、スーツの人が一緒だった筈っす」
「そうだっけ?」
「美人さんは、仲間になるんす。彼女さんに叱られない様に、気を付けるっすよ」
「えっ? ちょっ!」
政は首を傾げる。そんな政を置き去りにし、たけしは歩き出す。直ぐに、たけしを呼び止める声が、遠くなっていく。
たけしの足取りは、空でも飛びそうな程に軽い。そして、ビルまでの遠くない距離を、一瞬にして縮める。
それだけ新たな出会いは、たけしに良い影響を与えているのだろう。入り口を潜ると、話し声が聞こえる。
たけしは、ウキウキとしながら、一階事務所の扉を開けた。すると忠勝の反対側に、噂の女性が座っているのが見える。
「やっぱ、ソム姉さんっす、ようこそっす。建築のおっちゃんは、久しぶりっす」
「お〜、たけし君!」
「たけし君、元気そうだね」
「たけしぃ! 妙な呼び方、すんじゃねぇ!」
「良いんですよ、宮川さん。たけし君、元気にしてた?」
「ソム姉さんのせいで、まだ筋肉痛っす」
「そう? 鍛え方が足りなかったかな?」
「倉川。こいつで足りるなら、幾らでもこき使ってくれ」
「お言葉に甘えて、たけし君は暫く私の手伝いね」
「スパルタだけは、止めて欲しいっす」
ショートの髪がふわりと揺れ、快活そうな笑顔がキラキラと輝く。そして温かで心地よく、また心を軽くする香りが、フワリと漂ったように感じる
彼女を美しいと感じるのは、何も容姿だけでは有るまい。纏った雰囲気にも、惹かれるのだろう。
「たけし。人数分の飲み物と、冷蔵庫のアレを持ってこい」
「わかったっす。急ぐっす!」
たけしは、勢い良く事務所を飛び出し、音を立てて階段を駆け上がる。その様子に、忠勝は苦笑いを浮かべ、倉川は柔らかな笑みを浮かべた。
「良い子ですね。宮川さんに似たのかな?」
「そうか? 俺もあいつも、まだ半人前だ」
「以前とは見違える様だ。宮川さんの指導が有ってこそでしょうけど」
「三橋さんまで、持ち上げんじゃねぇよ。それより倉川。講義の場所は仕方ねぇとして、軽食も任しちまって、本当に良かったのか?」
身内を褒められれば、誰でも嬉しい。忠勝は、照れ隠しに話を逸らす。二人はそれを察して、軽く頷いた。
「ええ。せっかく宮川さんに、チャンスを頂いたんです。本業に集中しないと」
「どの道、反応次第だな。軽食は隣に移してもいい」
「結局は、お任せしちゃう事になりますよ」
「構わねぇ。お互い様ってやつだ」
「助かります。MGHOの皆さんにも、お世話になりっぱなしです」
「それこそ気にすんな。俺達だけじゃねぇ、源吾達もお前から学ぶ事は多い」
「では倉川さん。取り敢えずは、図面通りに進めるという事で。ご相談等が有れば、随時仰って下さい」
「わかりました、三橋さん。持ち帰って再度確認します」
三橋から、大方の説明は済んでいたのだろう。倉川は大事そうに、建築図面を鞄にしまう。
倉川から追加の要望や、大幅な修正案が出なければ、予定通りの日程で改築が行われる筈だ。
倉川が出店するのは、青果の専門店。それも、全国各地で野菜に関する講座や料理教室を行っている、著名な野菜ソムリエが開く専門店だ。間違いなく話題になる。
それ故に忠勝と倉川は、長い時間をかけて準備してきた。
納得する野菜を店に出せる様に、忠勝と倉川は多くの農家を周り、栽培方法や品質を確かめ、幾つかの農家と契約を行った。そして、鮮度の高い野菜が店に届く様、配送業者との提携を行った。
また、忙しい倉川にとって、スタッフの存在は不可欠だ。その育成にも、充分な時間と力を注いだ。
契約農家から出荷する品は、飲食店でも使用される。倉川が推した数々の野菜が、提供する料理の味を高める。
忠勝が、カレー専門店を出そうと考えたのは、倉川との出会いが有ったからと言っても過言では無い。
倉川の存在は、商店街の価値を著しく高めるだろう。
「イベントの後は、雑誌とテレビの取材だ。忙しいのはこれからだ。覚悟しとけよ」
「はい。何から何まで、ありがとうございます」
「相変わらずですね。宗岡さんの手配ですか?」
「感がいいな、三橋さん。あいつのやる気は、下心だけどな」
「ははっ。下心ってまさか? いや、あの人なら有り得るか」
「倉川、気ぃ付けろよ。メディアに露出したら、宗岡より質がわりぃのが湧くからな」
「へ? 私ですか? いやいや、今まで告白すらされた事ないですよ」
「ソム姉さんは、美人さんっす。魚屋のおっちゃんが、ドキドキしてたっす」
「た、たけし君?」
「たけし。ちゃんと、知世に伝えとけよ」
「わかったっす。変態兄さんのお仕置きは?」
「あいつは、暫く出禁だ」
「ふふ、ふふふ、はははっ。いいコンビね、すっごく安心する」
「そんな姉さんに、サプライズっす」
倉川の笑い声が、周囲の空気を緩やかにする。そして、三人が囲むテーブルに、人数分の飲み物とケーキが置かれていく。それを目にした瞬間、倉川の目が輝いた。
「これ、南瓜のモンブラン? 宮川さん! 作って下さったんですか?」
「感触を確かめたくてな。レシピ通りの筈だ」
「やった〜、うれし〜!」
「あれ? たけし君、今日は紅茶かい?」
「ソム姉さん直伝の、ミルクティーっす。今日は、ディンブラって茶葉を使ったっす」
「ほうほう。弟子の腕前は、上がったのかな?」
倉川は、味を確かめる様に、ゆっくりと舌の上でケーキを溶かす。次に、紅茶の香りを感じながら、口に含ませていく。
弾ける様な笑顔が、感想の代わりだ。倉川の反応を見届けて、忠勝達はケーキを口にした。
「美味しいですね」
「ありがとよ。でもな三橋さん。旬のは、もっと旨ぇんだ」
「そこを加味して。ケーキは九十点、紅茶は八十点かな」
「なかなか満点を貰えないっす」
「そろそろ、メニューも決めなきゃですね」
「頼むな。何せ、倉川未雅プロデュースだ」
「三橋さんもな」
「はい。この後はMGHOで、カレー屋の打ち合わせです」
「倉川。お前のレシピを、向こうで再現してる。講義会場の下見ついでに、指導してやれ」
「はい。喜んで!」
「ソム姉さんは、猛獣の巣に行くんすか? 度胸あるっすね。大丈夫っすか?」
「心配なら、お前がついてけ。今日は堀と大迫が居る、鍛えて貰え」
「ゔぁ〜、嫌っすけど、お供するっす」
「あははっ、ふふ、ははは。頼もしいね、たけし君」
「ソム姉さんが、エス姉さんになるっす」
「あはは、そんな事ないよ〜」
ケーキが笑顔を運んで来る。事務所は笑い声で溢れ、会話がはずむ。例え、この時間が束の間だとしても、賑やかな時はこれから続いていく。
倉川は商店街の仲間入りを果たした。男だらけの商店街に、華やかさと明るさが加わった。
やがて倉川が行う、野菜に関連した各種講座は人気を博し、全国各地から受講者が訪れる事になる。また、青果専門店と軽食屋は、商店街を牽引する存在となる。
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