第32話 兄貴とにわかラーメン道

「チャンスってのはよ、努力してる奴の前に現れる。でも、掴もうとしなけりゃ、その手には何も残らねぇ」


 それは、修行時代の勝司が、ある男に言われた台詞である。

 ふらっと店を訪れた男は、注文したラーメンを一心不乱に啜った。そして徐に顔を上げると、話し掛けて来た。


「あんた、この店は何年目だ?」

「一年目です」

「前は何処で修行をしてた?」

「駅二つ向こうの、甲斐って店です。十年程お世話になりました」

「甲斐は魚介ベース、ここは豚骨だ。修行の店を変えた理由は?」

「おやっさんの味に惹かれて」

「それで、十年も勤めた店を辞めて、簡単に移ったのか?」

「そんな軽いもんじゃ無いですよ。それとお客さん。申し訳有りませんが、次のお客さんに席を譲って頂けると」

「済まなかったな。おやっさんに宜しく」


 あのお客さんは何者だ? 常連か? それにしては、初めて見る顔だ。それより何で自分は、あんな事をペラペラと喋ってしまったのか? 仕事仲間にも話した事が無いのに。

 男を見送りながら、勝司はそんな事を考えていた。だが、直ぐ我に返ると、次のお客さんに声をかける。


「お好みは有りますか?」


 ☆ ☆ ☆


 名店と謳われたラーメン結では、月に一度だけ半額になる日を設けている。

 その日に限り、一人の従業員が店の味を決める。他の従業員は、その一人をサポートする。


 どんな味と出会えるのか、新たな才能が見つかるのか。常連客は、そんな輝きを求めて足を運ぶ。

 ラーメン結は多くの名店を、そして凄腕の職人を輩出して来た。それは、従業員が己の腕を磨き、また仲間達と切磋琢磨した結果であろう。

 

 この日は、勝司の番だった。ようやく訪れたチャンスだった。次々とお客さんは入れ替わる。たかが一杯、されど決して気を抜く事は許されない。

 渾身の一杯を作り続ける内に、余計な事は頭の中から消え去る。妙な男の事など、頭の片隅にすら残っていなかった。

 

 やがて、仕込んでいたスープが無くなる。

 店を閉めた後、片付けをする勝司は、ある種の高揚感で満ちていた。

 精一杯やった、憧れの味が再現出来た。お客さんの入りも普段と遜色ない。その証拠にスープが無くなった。

 間違いなく、満足して貰えたはずだ。


 結果は、売り上げの数字が物語っている。

 勝司は小さくガッツポーズをした。そんな時に、後ろから声がかかる。


「おう。まあまあの上がりみたいだな」

「おやっさん。お疲れ様です」


 実の所、売り上げは二の次だ。そうで無くては、半額の日など設けない。

 弟子の明るい顔を見れば、嬉しくもなる。店主は柔らかな表情で、従業員一人一人の表情を眺めた。


 誰もが、疲れた顔をしている。だが幾人かは、納得しきっていない様に感じた。


 自分の方が上手くやれる。


 そんな言葉が顔に浮かんでる者は、必ず現れる。

 これは競い合いの場だ。満足気な顔より、不満そうにしている方が、見込みがある。

 店主が気になったのは、それとは少し違う表情だった。


 店主は、お客さんに書いて貰った、アンケートへ目を落とす。一枚、また一枚と読む内に、店主の表情は曇っていった。


「おい。アンケートは読んだのか?」

「いえ、これからです」

「集計が終わったら、必ず目を通せ」

「わかりました」


 店主の言葉に、やや怒気がこもる。

 勝司は、その理由を理解出来ずに、首を傾げた。それはそうだろう、満点の結果を残せたと、思っているのだから。

 アンケートを見て、勝司は何が起きていたのか気が付く。


 仕事は丁寧で好感が持てた。でも、味はそこそこ。

 一生懸命さは伝わった。味については、イマイチ。

 新鮮味に欠けた、今回は残念。

 期待外れ。おやっさんの劣化コピー。

 新店は期待薄。自分なら通わない。

 

 どのアンケートにも、旨いの一言が見当たらない。その瞬間、勝司の中に怒りが込み上げる。


 そんな筈が無い。劣化コピー? 冗談じゃない、完全に再現したんだ! あの味を再現出来たんだ。

 どんな舌をしてる? それでも常連客なのか? ふざけんな!

 

 屈辱だった。周りを見渡せば、仲間達が嘲笑っている様に見えた。

 アンケートを破り捨て、テーブルをひっくり返したかった。期待に満ち溢れて始まった一日を、満足に終わったこの一日を、全てを壊してしまいたかった。

 そんな事をすれば、憧れの人を失望させる事がわかっていたとしても。


 何も出来ず、ただ顔を真っ赤に染め上げる。そして虚ろな瞳は、無造作に置かれたアンケートを、ぼんやりと映す。

 しかし、瞬間的な怒りは、そう長く続かない。


 いや、待て。スープは飲んでくれたのか? 常連なら、あの旨さがわかるはず。残していたのか? 


 勝司は、ラーメンを作る事だけに、集中していた。お客さんの反応は見ていなかった。当然、残されたスープの量など、目にも入らない。

 だから仲間達は、勝司に労いの言葉をかけられなかった。決して、嘲笑っている者はいない。


 失敗した。


 今回お客さんが求めていたのは、おやっさんの味じゃ無かったのかも知れない。

 そう気が付いた時、勝司は真っ暗闇に取り残された感覚に襲われた。

 耳が音を拾っても、脳がそれを拒否する。茫然自失と、勝司は立ち竦む。


 どれだけ経っただろう、勝司は身動き一つ取る事が出来なかった。しかし唐突に、塞いだ心を揺り動かす、力強い声が店内に響き渡る。


「おやっさん。卒業試験はどうなったんだ?」

「見ての通りだ。坊主、流石に気を使え!」

「相変わらず甘えなぁ! だから十年もやってるベテランが、このザマなんだろ?」

「仕方ねぇよ。お前みたいに、機転が効く奴ばかりじゃねぇんだ」

「それで、いつまでもチョロチョロ着いて来るのを、いい子いい子って構うのか?」

「そうは言ってねぇ!」

「おやっさん、卒業試験は延期だ! この馬鹿、鍛え直してやるから、俺に預けろよ!」

「坊主……」

「オイコラァ! てめぇの事を言ってんだぞ! ボケっとしてねぇで、何か言えや! てめぇ、それでも男かよ! 悔しかねぇのかよ! あぁ?」


 多分その時、勝司は殴られたのだろう。体が宙に浮いた後、床を転がる。痛みが全身を掛け巡る。


「どいつもこいつも、やらかして恥かいて、そんで強くなんだよ! てめぇは、これかも恥をかき続けろ! 強くなれ! 男になれよ!」


 痛い? 違う! 悔しい!

 その想いは、勝司を覆う暗闇を晴らしていく。そして気が付くと、昼間の妙な男から見下されているのがわかった。

 

「思い出してみろよ! お客さんが店に入って来た時、どんな目をしてた?」

「それは……」

「キラキラしてたろうが!」


 頑張れよ。

 チャンスを逃すなよ。

 期待してるよ。


 思えば前日、お客さんに声をかけて貰った。

 そうだ、お客さん達は期待してくれたんだ。その期待を裏切ってしまったんだ。


「仲間はどんな顔してた?」

「え?」

「お前を必死に、支えたんじゃねぇのかよ!」


 まだ間に合うからアレンジしろよ、協力するからさ。

 勝司さんの腕は、皆が認めてるから間に合いますよ、チャレンジしましょうよ。


 仲間達からも、励まされた。

 違う。こうなると、わかってたんだ。差し伸べてくれた手を、自分が払ってしまったんだ。


「そんで、てめぇはどうすんだ?」

「もう一度、チャンスが欲しい!」

「よく聞け! チャンスってのは、努力してる奴の前に現れる。でも、掴もうとしなけりゃ、その手には何も残らねぇ。てめぇが、まだ諦めてねぇなら、この手を取れ!」

 

 気が付いた時には、男の手を取っていた。そして男は、力強く勝司を引き起こす。


「宮川忠勝だ。てめぇは?」

「吉屋勝司です」


 ☆ ☆ ☆


「それで、おやっさんが来たんすね?」

「そういう事だ。まぁ、ケジメだな」

「ケジメっすか?」

「そりゃあ、開店資金やら準備やら、坊主が全部やったんだぞ!」

「じゃあ、この店は兄貴の店っすか?」

「試験に合格したら、勝司へ譲る事になってる」

「お金とか、どうするっすか?」

「坊主に返していくんだとよ」

「そうなんすね。何だかんだで、二人は似てるっすね。身内に甘い所とか」

「止せよ。坊主の方が、よっぽどお人好しだ」

「そうっすか?」

「あいつは、要領が悪い奴ほど、ほっとけねぇ質だからな」

「それって、遠回しに馬鹿って言われてるっすか?」

「お前の何処が、小器用なんだ? 胸に手を当ててみろ!」

「あ〜確かに、そうっすね」

「まぁ、ゆっくりやれや。その内、坊主から合格点を貰えんだろうよ」


 柔らかな笑顔に心が弾む。

 料理を旨くするのは、心なのだろう。それは、食べる相手を思う気持ちであり、醸し出される雰囲気なのだ。


 勝司の作る一杯が、お客さんの舌を喜ばせる。それはお客さんの為にと、積み重ねて来た努力の証。

 そして今日が、勝司のスタートとなる。

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