第27話 兄貴とおかえりなさい
「兄貴、おかえりなさい。飯にするっすか?」
「いや。食ってきた」
「それなら、風呂っすか?」
「あ~、そうだな」
「それとも、まわし?」
「あぁ? それを言うなら、あたしだろ?」
「それとも、たわし?」
「それで何処を洗うんだよ!」
「それなら。た、ら、い?」
「半身浴すぎるだろ! 普通の風呂にしろ!」
「それとも。う、が、い?」
「これからする! 手も洗う!」
「それとも。し、が、い?」
「何のだよ! 片付けとけ!」
「それとも。う、ま、い?」
「よく続くな。次はなんだ?」
「それとも。く、ら、い?」
「灯りをつけろ!」
「それとも。し、ま、い?」
「ようやく終わりかよ! 何なんだよ、このやり取りは!」
「楽しく無かったっすか?」
「疲れるだけだ」
「それより、なんのつもりだ?」
「それがっすね」
帰りを迎える側は、時としてなおざりにされる事が多い。
思春期の子供達は、一言も告げずに部屋へと向かう。仕事で疲れた夫は「おう」と一言、おざなりな対応をする。
これは何も、迎える側に留まるものでは無い。
外出先から会社に戻った時に「ただいま戻りました」と告げれば、稀に「お疲れ様」と返って来る事がある。ただし顔を見て、言葉が交わされる事は無い。
それは作業を口実にした、コミュニケーションからの回避に他なるまい。言わば習慣よりも、形式的な事柄に近いだろう。
挨拶には、必ずしも労いの想いが含まれるとは限らない。もしこれに、些かの寂しさを感じるならば、誰かへの想いが存在しているのだろう。
得てして、「おかえりなさい」や「ただいま」の一言に、安らぎを感じる事も有るのだから。
「ソンナコトヲ、マンガデ、オソワッタッス」
「それにしては、片言だな」
「ダイジョブッス、チャントオボエタッス」
「それで、ウザ絡みか? お前は、宗岡か?」
「流石にそれは、酷いっす!」
「それなら、もう少し工夫しろ」
「わかったっす。明日は、兄貴を楽しませるっす」
「そうか、頑張ってみろ」
そう言い放つと、忠勝は柔らかな笑みを浮かべて浴室へ向かう。
時に、天賦の才を持つ者とは別に、常人と異なる突飛な発想をする者が存在する。
何故そんな発想に至るのか。それは、常人と異なる視点で、世界を見ているからだろう。
忠勝は、過度の期待をしていた訳では無い。
しかし翌日、帰りが遅くなった忠勝を迎えたのは、全く想像し得ない出来事だった。
リビングの戸を開けると、忠勝は目を見開き、口を開けたまま硬直した。
たけしは、南国風の音楽に合わせ、両腕を伸ばして波を作る様に、ゆらゆらと動かす。それに合わせて、リズミカルに腰を左右に振った。
曲が終わると同時に、たけしはゴソゴソと、用意していた小物を手に取る。そして忠勝に近寄ると、レイに似た飾りを首にかけ、飲み物を手渡した。
「アロハ、ナマステ、安藤葉瀬央!」
「アロハはともかく、他は何だ!」
「世界中の挨拶っす。ワールドワイトっす」
「ワイドだ。それに、二カ国しかねぇ!」
「よくわかんないっす」
「お前のイメージは、ハワイだろ? 挨拶は、アロハだけにしとけ」
「サービスしたっす」
「今の小躍りに、インド要素が有るのかよ!」
「夕飯がカレーっす」
「それなら、韓国要素は?」
「何で韓国っすか?」
「どうせ、アニョハセヨって言いたかったんだろ?」
「あぁ、それっす」
「それは、韓国の挨拶だ! 葉瀬央じゃねぇ!」
「そうっすか。でも、キムチなら冷蔵庫に入ってるっす。カレーの付け合せにするっすか?」
「それも良いな……って流そうとすんな!」
「全くもう。兄貴は、何が不満なんすか?」
「言葉はちゃんと使え! その国の人達に失礼だ!」
「大丈夫っす。いま覚えたっす」
「軽いなぁ、おい!」
「それより、ウエルカムドリンクを飲むと良いっす」
「お前が飲めたらな」
「どういう事っすか?」
「抹茶にしては色が変だ! それに、匂いもおかしい! 何か入ってるはずだ!」
「そ、そんな事は無いっすよ」
「そもそも、フラダンスで迎えておいて、お茶は出て来ねぇだろ!」
忠勝を騙すには、工夫が足りなかったのだろう。
たけしは、忠勝に睨め付けられながら、用意していた苦くて酸っぱいお茶を飲み、一しきり床をのたうち回った。
しばらくして立ち上がるも、満身創痍かの様に疲弊した表情へ変わっていた。
「酷い目に有ったっす」
「因果応報ってやつだ!」
「カレーで口直しするっす」
「そうしろ。匂いでわかる、今日のカレーは合格だ」
「やったっす! 兄貴が笑ったっす!」
「うるせぇ! 早く準備しろ!」
「わかったっす!」
他人を笑顔にさせるのは、想い。
やり過ぎ感は否めないが、サービス精神が旺盛だと思えば、悪い気はしない。
また、やかましいだけなら、鬱陶しいと感じるだろう。そこに気遣いが有れば、鬱陶しいは温かいに変わるはずだ。
何よりも忠勝は、たけしの成長が嬉しかった。
元より優し子だ。しかし、取り巻く環境から身を守る為に、たけしは心を閉ざした。
忠勝が初めて見た時、壊れた機械の様だった。そんな抜け殻の様な子供が、数年も経たずに笑う様になった。
心を取り戻しただけでなく、こうやって他人を気遣って行動する様になった。
そんな成長の様子は、忠勝の目に眩しく写った。
だから、支えてやりたいと思った。また、尊敬足り得る存在で有らんと、研鑽を重ねた。
しかし、純粋で真っ直ぐなもの程、壊れやすい。ともすれば、弓なりに曲がってしまう鋼の様に。
心を許した者達の為なら、手に余る事態にすら、敢然と立ち向かう。忠勝はそんな男だ。
無論、宗岡やパン屋の夫婦の様に、忠勝の緩衝材になろうとする者は存在した。しかし彼らは、あくまでも忠勝の友人であった。
また忠勝は、異性との関係を一時的なものに留め、深い仲になろうとしなかった。それは、忠勝なりの優しさなのだろう。なにせ敵が多い、傷ついてからでは遅い。
故に彼らは、忠勝の家族になれる存在が、現れる事を願った。そして忠勝は、たけしと出会ってから、よく笑う様になった。
たけしは、少なからず忠勝に影響を与えた。そして忠勝は、真の意味で強さを得た。
多分、それが家族という関係性なのかもしれない。だからこそ、何気無い一言に腹を立て、何気無い優しさに癒やされる。
「どうっすか?」
「旨いな。マスターの所で出しても、良い位だ」
「本当っすか?」
「お前に、お世辞なんて使うかよ」
「そうっすか。ふふ、そうっすか」
「何だよ」
「嬉しいっす」
「そうか。たけし……ありがとうな」
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