第19話 兄貴と看病の日
毎日、同じ時間に目を覚していると、自然とそれが身につき、目覚し時計が不要になる。
それは忠勝も同じ。たけしが起こしに来る前に、支度を済ませている事は多い。
たけしが来るまで目を覚まさない時は、用事を片付けるのが、深夜に及んだ時くらいだろう。
いつもの様に目を覚した忠勝は、着替え終わると、二階のリビングルームへ向かった。そして洗顔等と、身だしなみを整える。
ここまでの間に、たけしと顔を合わせない事も有る。
何故なら、たけしはやる事が多い。ビル全体の掃除に始まり、ペットの世話や朝食を作る。
手早く終わらせないと、忠勝の仕事に影響が出るどころか、自分もバイトに間に合わなくなる。
故に、バタバタとビル内を駆け回るたけしと、入れ違いになる事は、さして不思議な事では無い。
この日も忠勝は、たけしと顔を合わせる事なく、支度を整えるた後、ペットの部屋に向かう。
しかし忠勝は、若干の違和感を感じていた。
たけしは、いつも丁寧に掃除をする。ただ、この日ばかりは、明らかにやり残しが目立っていた。
基本的には、真面目な男である。故意に行ったとは、考えられない。寧ろ、疲れていると考えた方が、納得出来る。
普段と同じ行動が出来ない程に疲れているなら、休息を取らせるべきだ。しかし、今それを言っても、たけしは納得しまい。
真面目で優しい弟分は、意地でも与えられた事を、熟そうとするだろうから。
少しの違和感と不安を抱えながらも、忠勝はペットの散歩に出掛ける。散歩自体は、小一時間もかからない。
そして忠勝が帰宅した時、違和感の正体が判明した。
「あにき? まだごはん出来てないっす」
「お前は、なに作ってんだ?」
「おぐとーっすよ」
「盛り過ぎだ。あんこの山だろ。タッパーに戻せ」
「え〜」
「え〜じゃねぇ!」
焦点が合っていないのか、たけしは虚ろな目をしている。また、平衡感覚に異常が有るのか、ゆらゆらと体を前後させている。
たけしが、如何に甘い物を好んでいるとて、限度は有る。トーストの上に、あんこを山の様に乗せているのは、頭が朦朧としているせいだろう。
これ以上は語るまでも無い、変調を来しているのは明らかだ。
実はこの時、珍しく忠勝は慌てていた。当然ながら、自覚は無い。
そもそも、自分が慌てていると認識出来るなら、それは冷静になっている証であろう。
そして忠勝は、懐からスマートフォンを取り出して、電話をかける。
「起きたか、ヤブ医者」
「なんだよ、朝から」
「あのな、たけしが変だ」
「いつもの事だろ?」
「そういうんじゃねぇ! 何か妙だ!」
「違うなら、何が変か教えろ。熱でも出たか?」
「熱? そんなもん、出る訳ねぇだろ」
「はぁ? 馬鹿かお前は! いやお前は、風邪をひいた事すら無いから、わからないんだな」
「ごちゃごちゃ言ってねぇで、飛んで来やがれ!」
「わかったよ。行くから、横にして熱を測っとけ。体温計くらい有るだろ?」
「そんなもんねぇよ!」
「全く、仕方無い奴だな。市販の薬は?」
「それもねぇ!」
「取り敢えず、ドラッグストアに寄ってから行く。少し待ってろ」
忠勝は電話を切ると、たけしと自分の額を交互に触る。
まともな思考が出来ないのだろう。たけしは、不思議そうにしながら、忠勝を漠然と眺める。当の忠勝は、首を捻っていた。
「お前……。熱なんか、有るのか?」
「知らないっす」
「ヤブ医者の忠告だ。部屋に戻って休んでろ」
「え〜、お腹空いたっす」
「早く行け」
「はい〜」
調理を途中で止めて、たけしは歩き出す。その足取りは、覚束ない。恐らく、朝の作業に時間がかかったのは、これが原因だろう。
このままでは、階段を踏み外して、怪我をする可能性が有る。単なる打撲程度ならいつもの事だが、転げ落ちれば大怪我では済まないだろう。
それは、決して杞憂とは言い切れまい。また、最悪の事態を想像したが最後、悪夢に取り憑かれた様に、不安が襲って来る。
「たけし、ちょっと待て!」
「なんすか?」
「その調子だと、危ねぇ。俺が連れてってやる」
「歩けるっすよ」
「歩けてねぇんだよ!」
「ワガママっすね」
「誰がだ! いいから、運ばれとけ」
「恥ずかしいっす」
「喚くな! お姫様抱っこで、運ぶぞ!」
「それだけは、いやっす!」
結局たけしは、忠勝に担がれる。
また忠勝は、たけしの体重程度なら、重いと感じないのだろう。何事も無かった様に、たけしを担いで階段を上る。
部屋に到着すると、忠勝はベッドにたけしを投げ捨てる。直ぐに反転し部屋を出ると、洗面器と氷等を持って、再び現れた。
洗面器に張った氷水に、タオルを浸してたけしの額に乗せる。
「暫く、大人しくしてろ」
「暇っす」
「何か食いたいもんは?」
「おぐとーっす」
「それ以外は?」
「すっごくでっかいプリン?」
「普通のプリンにしとけ」
頭の回転が早く、専門的な知識も有している忠勝の、弱点と言えるのが病気に関する知識だろう。
実の所、忠勝は体の変調を感じた事が無い。
それは普段から、異常な程に体を鍛え続けているからだろうか。それとも、暴飲暴食を控えているからだろうか。有り余る体力のせいだろうか。
まさか免疫機能が、忠勝に似て凶悪な程、強い訳では無いだろう。所謂、馬鹿だから、風邪をひかないのではない。鈍感だから気が付かない。
忠勝の場合は生い立ち故か、痛みや辛い等の感覚に慣れ過ぎている。
どちらにせよ忠勝は、熱が四十度を超えないと、調子が悪いと思わないだろう。
故に、病気になる感覚を知らない。そして、病人を目の前にして、どうしていいかわからない。
何処かで聞いた様な事をしてみたが、それが適切か判然としない。
冷房を弱に設定し、忠勝は部屋を出て二階へ向かう。リビングに入ると、そのままキッチンへ向かった。そして行うのは、作りかけの朝食を片付ける事ではなかった。
忠勝は、冷蔵庫を開けると、牛乳と玉子を取り出す。後は、棚から砂糖とバニラビーンズを取り出せば、材料は揃う。
食欲が有っても、あんこが山盛りのトーストを食べさせるより、プリンの方がましだ。それは忠勝なりの、配慮なのだろう。
また他の菓子より、手順が簡単で済むのも、理由の一つに違いない。
プリン液を浸したカップを、オーブンに入れた所で、インターホンが鳴る。モニターを覗くと、少し痩せた初老の男が映っていた。
「往診なんて、やってないんだ。特別なんだぞ」
「わかったから、早くたけしを診ろ!」
「相変わらず、目上への敬意が足りないな」
「尊敬して欲しけりゃ、たけしを治せ!」
「そう、がなり立てるな。案内しろ」
冷静に見えて、かなり焦っている。初老の医師は、忠勝の強い語気で、それを悟った。
医師の事は気に留めず、勢い良く階段を上る姿からも、それを察する事が出来る。
医師が知る忠勝は、配慮が全く出来ない男ではない。
「ちょっと待て!」
「あぁ?」
「どうせ、持ってないだろ? マスク位は、着けておけ」
「俺が、ウイルス如きに、負けると思ってんのか?」
「お前の為じゃない、たけしの為だ。原因が、お前の可能性だって有るんだぞ」
そう言われると、着けるしか有るまい。ましてや、信用のおける専門家のアドバイスは、素直に聞くべきだ。
マスクを装着して、二人はたけしの部屋に入る。診察は、多少の時間を要し、忠勝の表情は険しくなっていった。
「一応、検査はしたけど、恐らく風邪だな。熱が高いから、解熱剤でも飲んでおけ。食欲は有るようだから、しっかり食って寝れば治るはずだ。何日も熱が続く様なら、病院へ来い」
「ごはんなら、おぐとーが作りかけっす」
「お前は、馬鹿か? 栄養が有って、食べ易い物にしとけ!」
「それなら、俺がプリンを作ってる」
「プリンか……。お粥かスープの方が良いだろうな」
「プリンは、駄目っすか?」
「逃げはしない。ちゃんと栄養を摂って、しっかりと休んでからにしろ」
医師の言葉で、忠勝は安心したのだろう。少し和らいだ表情で、たけしの部屋を後にしようとする。
そんな忠勝を、医師が引き留める。
「ちょっと待て。忠勝、お前も熱を測れ」
「何で俺が!」
「言う事を聞け!」
「仕方ねぇな」
忠勝が大人しく言う事を聞いたのは、先の言葉が有ったからだろう。自分が原因で、たけしが体調を崩したなら、人と会うのを避けた方が良い。
ただ、結果は余りにも予想外であった。
「はぁ? 何でたけしより、熱が有るんだ! 三十九度を超えてるぞ!」
「だから何だ!」
「おかしいだろ? 三十八度でも、そこそこ辛いはずだ。その熱で、平気な筈はない!」
「熱を測る棒が、故障してんだろ?」
「そんな訳ないだろ! お前も診てやる」
「うるせぇヤブ医者! 俺は、ピンピンしてんだ!」
「兄貴は、人間じゃないっす」
「人を化物みたいに、言うじゃねぇ!」
「たけし、もっと言ってやれ!」
「兄貴は、ウイルス星人っす。退治されるといいっす」
「そうだ! 真人間になれ!」
「俺を、侵略者扱いすんな!」
「やかましい! 座薬をぶっ指すぞ!」
「やれるもんなら、やってみろ!」
結局、忠勝は診察を受ける。
そして、安静を言い渡されるが、聞き入れる忠勝ではない。たけしの看病をする為、ビル内を走り回った。
翌日には、二人共に平熱に戻り、初老の医師を呆れさせる。当然ながら、診察の際に行った検査は、陽性反応が出なかった。
ただこの一件で、忠勝とたけしは病院へ呼ばれる。そして初老の医師に、病気の基礎知識を叩き込まれるのであった。
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