第10話 兄貴と夏の夜
日中の熱が冷めやらぬ真夏の夜、忠勝は揚げたての天麩羅を楽しんでいた。
いつものダイニングテーブルでは無く、カウンターテーブルの前に、忠勝が座る。そしてたけしが、丁寧に揚げた天麩羅を、忠勝の下へ運ぶ。
忠勝の手元には、塩、抹茶潮、天つゆ、すだち等が置かれ、タネに合わせて選べる様になっている。
また忠勝にとって、決して欠かす事の出来ない酒は、数種類が用意されていた。
「どうっすか? ネットで調べて、買ってきたんすけど」
「案外、悪くねぇな。天麩羅には、日本酒だけかと思ってた」
「そうすっか。なんか不思議っすね」
「まぁな。お前も酒が飲める歳になったら、わかるかもしれねぇな」
「何をつけるか、何を合わせるか。ある意味、組み合わせは無限っすね」
「そうかもな。試して無いだけで、知らない楽しみ方が有るんだろうな。それよりたけし、そろそろこっち来て、お前も食え」
「もしかして、お酒解禁っすか?」
「駄目だ、二十歳になってからだ!」
「なんか、そういうノリだったじゃ無いっすか?」
「酒が無くても、旨い物は旨い! ほら、冷めちまうから、早く来い!」
忠勝を喜ばせようと、たけしは揚げたてを提供する。しかし忠勝は言う、一緒に食べようと。その瞬間、たけしの腹が音を立てる。
そしてたけしは、照れ臭そうにすると、自分の茶碗にご飯を盛り席へ着く。
「う〜ん、鱧が旨いっす」
「魚屋のイチオシだからな。お前の骨切りも上手くなった」
「とうもろこしも、中々っすね」
「あぁ、甘みが際立ってる」
「でも、穴子が一番好きっす」
「お前の場合は、飯に合うかだしな」
「穴子、苦手だったすか?」
「いや、好きだ。旨いぞ」
茶碗を片手に、がっついて食べるたけしと、酒と一緒に味わう忠勝では、嗜好自体が異なる。
それでも、何気無い会話は、旨さを何段階にも引き上げる。
視覚、嗅覚、味覚に加える物があるなら、雰囲気や楽しみなのだろう。
それは、料理を単なる栄養摂取から、味わうに変える。きっと、印象に残るのは、そんな味わいなのだろう。
結局、半分以上の天麩羅が、たけしの腹に収まる。食べ終えるとたけしは、片付けを始める。また、たけしに合わせて、忠勝も晩酌を終え、ソファーへと移動する。
忠勝は急な依頼に備えて、酔う程の酒は飲まない。言い換えれば、常に自制し、緊張感を保っている。
それは、側に居るたけしが良くわかっている。故にたけしは、予てから考えていた事を口にした。
「兄貴。夏休みは無いんすか?」
「あぁ? そうだな……お前。たまには海にでも行って、羽を伸ばせ」
「は? いや、そうじゃ無くて」
「心配すんな。宿は俺が取ってやる」
「いや、だから兄貴」
「何だ? 小遣い位、くれてやる。土産はいらねぇ」
たけしの言葉には、主語が足りない。だから、しばしば勘違いをされる。忠勝に伝えたかったのは、自分のでは無く、兄貴のである。
上手く意図を伝えられず、たけしは言葉に詰まる。
お客さんが相手なら、少しは話せる様になった。茶化したり、とぼける事も出来る様になった。しかし、真剣に伝えるのは、中々に難しい。
人は誰しも、そんな一面を持つ。相手が尊敬する人物なら、尚更だろう。
「あの、兄貴。嬉しいっすけど」
「けど何だ? 海は嫌か? 登山でもしてぇか?」
「景色とか、別にいいっす」
「じゃあ何だよ? 遊園地か?」
「違うっす。兄貴っす」
「誰が遊園地だ!」
「そんな事、言って無いっす」
「何だよ? 温泉って柄じゃねぇだろ?」
「そうじゃないっす。なんて言うか、あれっす!」
「はぁ、たけし。少し整理しろ」
整理しろと言われても、伝えたいのは一つだけ。
しかし、単に休んで下さいと言われても、俺の事は気にすんなと返されるのがオチだ。
だから、言葉に詰まる。どうしたら、説得出来るのかと、考えを巡らせる。
しかし、上手い言葉が見つからず、もどかしさを感じる。学の無さを、腹立たしく思う。
そんな自己矛盾を覚え、それでも答えを見出そうと足掻いた先に、光は見えて来る。
脳裏に浮かんだのは、忠勝の側で漠然と眺めていた、TVのひとコマ。そこでの一言を思い出し、たけしは告げた。
「兄貴は、あれっす。あの、なんだっけ、あれ。そう! ワーカーフォーラム!」
「それは、何の討論するんだ?」
「あれ? 違った? そうだ、ワーキングホリデー!」
「それは、滞在費を稼ぐバイトだな」
「ん? ワークショップ?」
「それは、体験型講座だ! ワーカホリックって、言いてぇんだろ!」
「そう! それっぽいやつっす!」
「うるせぇよ! 適当な事、言うんじゃねぇ!」
「違うっす! 兄貴が休まないと、いけないんす!」
「言いてぇ事は、わかってたけどな。気にすんな」
「なら兄貴は、独りで寂しく、どこか行けって言うんすか?」
「寂しいのか?」
「兄貴と一緒が良いっす!」
「甘えっ子か!」
「それで良いっす!」
「はぁ全く、仕方ねぇな」
忠勝は、軽く溜息をつくと、たけしを見やる。
拾ってからずっと、たけしを働かせていた。毎日休まずに家事をさせた、社会勉強の為にバイトもさせた。正月休みは、手伝いで連れ回した。
多少は、生意気になった。しかし、生来の生真面目さは、そのまま。
また、不満を口にする事も無く、いつも明るく振る舞う。そして自分よりも、兄貴分の休暇を願う。
そんな愛すべき馬鹿野郎には、請われなくても休みを与えるつもりだった。
「それで、どこに行きてぇんだ?」
「遊園地に行くっす」
「そりゃ、シュールな絵面だなぁ」
「駄目っすか? なら、動物園とか水族館とか」
「あのな。そういうのは、デートで行け!」
「でもな〜、温泉卓球も捨て難いっすね。スリッパを使うんすよね?」
「何処のローカルルールだ! これ以上グダグダ言うと、富士山に登らせんぞ!」
「良いっすよ。いや、でも、兄貴の事だし……」
「わかってんじゃねぇか。ダッシュで、五往復だ」
「休みが修行になるっす〜!」
「なら、もう海でいいだろ?」
「やった〜! 泳ぐっすよ〜!」
「その前に、水着でも買ってこい」
そして忠勝は、財布から一万円札を何枚か取り出すと、たけしに渡す。
「いいんすか?」
「大事に使えよ」
「お菓子は幾らまでっすか?」
「好きなだけ買え!」
「ひょ〜!」
よほど嬉しいのだろう。たけしは、いつに無くはしゃいでいる。
対して、興味が無いとばかりにTVへ視線を移すも、忠勝の頬は緩んでいた。
こんな日が有っても良い。
労働の対価として、何かを得るのは当然だ。それとは別に、楽しいと思える時間が多い程、人生が豊かになる、未来の笑顔に繋がる。
「これで、カップ焼きそばを、箱買いするっす!」
「何でだよ! 海に行くんだぞ!」
「なら、全身タイツみたいなのを、買うっす!」
「はぁ? ウェットスーツの事か? ダイビングもサーフィンも、出来ねぇだろ!」
「多分、スノボは得意な気がするっす!」
「気がするだけだろ!」
「仕方無いっす。もっこりするピチピチのやつを、買うっす」
「何のアピールだ! 普通の水着を買ってこい!」
「兄貴は、注文が多いっす」
「お前が、訳わかんねぇ事、言うからだろ!」
取り留めの無い会話ですら、楽しいのだろう。たけしは嬉しそうに笑う。そして忠勝は、窓の外に目を向ける。
黒い鏡は、温かな家庭を映していた。
「まぁ、悪くねぇ」
「何か言ったっすか?」
「何でもねぇよ」
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