第8話 兄貴と優しいパン屋さん

 朝食を求め、開店前のパン屋へと、たけしが足を運ぶ。

 格別の配慮をして貰っているからこそ、営業時間に顔を出せば、一般のお客は無論の事、パン屋にも迷惑をかけかねない。


「いつも助かるっす」

「気にしないで下さい。宮川さんから受けた恩は、こんな事では返せませんから」

「何か、自分の事じゃないのに、くすぐったいっす」

「ふふっ。たかしさんは、宮川さんが大好きなんですね」

「大好きとか、止めて欲しいっす。それと、たけしっす」

「そう? もしかして、ツンデレ?」

「スルーっすか。奥さんには、敵わないっす」


 たけしは、焼き立てのパンを受け取り、主に接客を担当する、店主の奥さんと談笑する。

 そして二人の話し声が聞こえたのか、厨房の方からたけしを呼ぶ声が聞こえた。


「たけし君、ちょっと待っててくれ」


 暫くすると、何やら品物が入った袋を持って、店主が奥から現れる。そして、その袋を見ると、たけしの目が輝く。


「そろそろ、あんこが無くなる頃だろ? 多めに仕込んだから、持って行くと良い。バターも、多めに仕入れたからね」

「嬉しいっす!」

「今日のあんこは、上手く出来たと思うよ」

「兄さんが作るあんこは、最高っす」

「たけし君は、甘いのが好きだな」

「後、バターも旨いっす。エミューバターでしたっけ?」

「それじゃ、ダチョウの友達だよ。エシレバターな」

「そうそう、そのエミリバター!」

「それは、女性の名前だな」

「兄さん。話が進まないっす」

「たけし君が、ボケるからだね」


 会話を横目に、開店準備を進めていた奥さんが、吹き出す様に笑い始める。それは二人に電波し、店内は笑いで包まれた。


 恐らくたけしには、余り深い考えは無いだろう。それでも、この状況を作り出したのは、たけしである。

 忙しい朝の一時に訪れた、ささやかな笑いは、心にゆとりを取り戻させる。そして不思議と、やる気が湧き上がってくる

 笑いが収まると、店主は笑顔のまま、たけしに告げる。

 

「さてと、仕事に戻るか。お互い、今日も頑張ろうな」

「はいっす!」


 日々成長しているのか、たけしは買い物袋を振り回さずに、駈けていく。そんな姿を眺め、奥さんは呟いた。


「子供が産まれたら、あんな子に育つと良いわね」

「まぁ、元気は貰えるな。でも、手が掛かるぞ」

「元気なら、良いのよ」

「それもそうか。なら、余計に頑張らないとな」

「そうね」


 優しいトーンが、心地良く店内に響く。きっと、夫婦の優しさが、店内を安らぎの空間に変えるのだろう。そして、夫婦の愛情が、パンに旨さを与えるのだろう。


 開店時間が来ると、お客さんが押し寄せる。早朝に仕込んだパンが、あっという間に売れていく。

 朝の時間を過ぎると、次の仕込みに移る。忠勝から電話が来るとすれば、この時間帯である。

 そして、電話を受けるのは、接客担当の奥さんだ。

 

「はい、パン ド アフェクションです」

「おぅ、美里か」

「あら宮川さん、ご注文ですか?」

「あぁ。食パンは、まだ残ってるか?」

「まぁ残念、売れちゃったの」

「なら、ハード系のやつは?」

「カンパーニュが、一つ残ってますよ」

「それで、サンドイッチを作れ」

「よろしいんですか? うちの人が、仕込んでる最中ですけど」

「良いんだ、たいして変わらねぇだろ」

「畏まりました」

「いつも通り、具は任せるけどな。美里……」

「何です?」


 相手が忠勝であろうと、臆する事は無く普段通りに対応する。それは、夫の友人で、旧知の仲だからでは無い。忠勝の心根を、良く知っているからだ。


 忠勝が声を荒げようが、捲し立てる様に詰め寄ろうが、威嚇する様な低い声を出そうが、怒っていない。

 そして、忠勝が本当に腹を立てている時は、どんな時かを知っている。


 ただしこの時、奥さんは少しばかり、緊張をしていた。それは、忠勝の無茶振りは、今に始まった事じゃないから。

 今度は、どんな無理難題を、言われるのだろう。どうすれば、対応出来るのだろう。

 そんな、未知の虚実を妄想し、息を飲んでいた。しかし、それとて大抵は杞憂なのだ。


「フルーツサンドは、たけしに食わせるから、ともかくだ。納豆サンドは、作るんじゃねぇ!」

「あら、うちの人気商品よ。お口に合わなかったかしら?」

「納豆は、嫌いなんだ! お前も知ってるだろ!」

「ふふっ。好き嫌いは、いけませんよ」

「そう言う事じゃねぇ! 客の好みをチョイスしろよ!」

「そう言って、いつも草ばっかり食べてるじゃない。牛やヤギじゃ有るまいし」

「誰が草食動物だ!」

「そう言えば、鍛えてらっしゃるのよね。野菜好きのマッチョって……。ゴリラにでもなる気かしら?」

「俺は、そんなに優しい性格じゃねぇ!」

「あら、性格の事は言ってませんよ」

「はぁ、ったく。降参だ」


 多分、忠勝がどれだけ怒号を放っても、のらりくらりと躱した後に、黙らせる事が出来るのは、パン屋の奥さんだけかもしれない。

 そして忠勝は、敗北感を感じ、トーンを落として静かに語りかける。


「お前らの気持ちはわかる。でも納豆は、たけしも駄目なんだ。せっかく作ってくれたのに、捨てるなんて事したくねぇ」

「畏まりました。では、名誉挽回をかけて、最高のサンドウィッチを用意しますね」

「頼むぞ! ブツは、たけしが取りに行くからな」

「では、縁に連絡を入れますね」


 電話が終わる。電話越しに忠勝の声が、厨房まで届いていたのだろう。パン屋の主人は、クスクスと笑っていた。


「あなた、そんなに笑ったら失礼ですよ」

「今回は、あいつの好きな具にしてやろう」

「苦手克服作戦は、失敗したわね」

「あれならイケると、思ったんだけどな」


 パンが焼き上げるのを待つ間に、店主は急いでサンドウィッチを作る。そして、ラーメン屋に連絡を入れる。

 電話を切ると直ぐに、たけしが店に飛び込んで来る。


「今回の罰ゲームは、なんすか?」

「フフ、フハハ。罰ゲームなんて、入ってないよ」


 開口一番、たけしが言い放った言葉に、店主は思わず吹き出した。そしてたけしは、サンドウィッチの入った袋を覗き、店主へ告げる。


「そうなんすか? 食べたら激甘だったとか?」

「何で激甘?」

「兄貴は、辛いのが得意っす」

「そうだったね。でも、罰ゲームはしないよ」

「残念っすね。なら、激にがなら、いいっすか?」

「たけし君。そのうち、忠勝に叱られるよ」

「そんなの、いつもっす! だから、イタズラしたいっす!」

「結局、食べさせられるのは、たけし君だと思うよ」

「甘いのなら、イケるっす」

「それなら君の為に、納豆サンドを入れとこうかな」

「それは、駄目っす」

「そうだろ? だから、イタズラは禁止だよ」


 優しく諭す様に語る店主の表情は、柔らかい笑みを湛えていた。


 たけし自身、店主に悪意が一切無い事を理解している。

 いつも袋には、忠勝がバランスの良い食事が出来る様に、よく考えられた品が入っている。

 だからなのだろう、たけしは何気なく店主に問いかける。


「兄さんは、優しいっすね。何でそんなに、良くしてくれるんすか?」

「それはね。あいつには、恩が有るからだよ」


 実はこの夫婦、土地の購入でトラブルに巻き込まれた経緯が有る。


 数年前の事である。夫婦は、不動産会社を経由して、土地の売買契約を締結した。この際、手付金と不動産への仲介手数料、約五百万円を支払った。

 売買契約締結から数日後、不動産会社が倒産。更に、売り主側の不動産へも、連絡がつかなかった。

 一抹の不安を覚えた夫婦は、売り主に連絡した。すると、土地は別の買い主に売却済みであり、登記が済んでいる事を知らされた。


 この様なケースの場合、売買契約の解除と共に、手付金の返還請求及び損害賠償請求を行うのが、一般的であろう。

 そして夫婦は、契約の解除等を行うべく、弁護士に相談した。


 弁護士が調べた所、土地の売買に関する一連の行為は、詐欺で有る事が判明した。しかし、警察に被害届けを提出しようという矢先、事件は停滞を迎える。

 それには、予想以上に大きな事態が隠されていた。


 売り主及び二つの不動産会社を含む、集団詐欺グループの背後に、暴力団が存在していた。

 その暴力団に、夫婦は酷い暴行を受ける。更に、他言すれば親族の命は無いと脅迫を受けた上、組員の監視下で軟禁状態にされた。

 実は、二重売買先の買い主も、同様の被害を受けており、他にも複数の被害者が存在していたのが、後に判明する。


 この時、状況を打開したのが、忠勝である。

 友人夫婦と連絡が取れずに、不審に思った忠勝は、自宅を訪問する。その際、暴力団員に襲われるも返り討ちにし、夫婦を開放した。

 その後、夫婦は警察に被害届けを提出した。しかし、直ぐに事件が解決した訳では無い。


 警察の捜査中に、忠勝へ報復する為、暴力団組員は挙って押し寄せる。しかし忠勝は、その全てを返り討ちにした。

 ただし、これで忠勝の怒りが収まった訳では無い。逃亡を試みる詐欺グループを、一人残らず捕らえた後、騙し取られた金銭の在処を吐かせた。


 詐欺グループは全て逮捕された。そして既に使用されて無くなった分を除き、騙し取られた金銭は、被害者達に返還された。

 無論、実行犯の暴力団員も、逮捕される事になる。


 その後、忠勝と暴力団の間で、イザコザは続いた。しかし、当の暴力団は、忠勝を害する事が出来ず、壊滅に追いやられて行く。そして、他の暴力団が間に入り、忠勝が住む街から撤退する事を条件に手打ちとなる。


 暴力団との抗争間、忠勝は夫婦に被害が及ぶのを恐れ、自らの自宅に住まわせ保護をした。

 身体だけで無く、心にも深い傷を負った夫婦が、笑顔を取り戻すきっかけを作ったのは、忠勝の尽力が有ったからと言えよう。


「そう言う訳だよ。だから、忠勝には恩返しがしたいんだ」

「良い話っすね」

 

 話を聞き終え、たけしはサンドウィッチの入った袋を抱えながら、目を閉じる。そして感慨深げに、当時の様子を想像する。

 ただ、目を瞑っていた為、たけしは周囲の様子がわからなかった。その時、何が近付いていたか、店主が何故たけしから遠ざかっているのかを。


「余計な事を、言うんじゃねぇ!」


 その声が聞こえた瞬間、鈍い音と共に、たけしが蹲る。

 

「兄貴、痛いっす。喋ったのは、兄さんっす」

「うるせぇ! それに昇太! てめぇは、さっさと仕事に戻れ!」

「はいはい。あんまり、叱らない様にね」

「そうっすよ。良い話じゃないっすか!」 

「良い話じゃねぇ! 喧嘩なんて、しない方が良いんだ!」

「じゃあ、何で兄貴は道場で、ボコスカ殴るんすか?」

「お前に、護身術を教えてるだけだろ!」

「そうすっか? ストレス発散かと」

「何処のいじめっ子だ!」

 

 忠勝は、たけしの襟を掴み、強引に立たせる。そして、穏やかな口調で、語り始めた。


「なぁ、たけし。かっこいいってのは、傷ついても倒れない奴の事だ。見てみろ、あの夫婦をよ。あの笑顔こそが、強さの証だ。あんな大人になれ」


 忠勝の言葉は、たけしの胸に染み渡る。そして、カチリとはまった様に、理解をした。

 単純な力だけでは推し量れない、本当の強さ。それを夫婦に感じ、たけしは大きく頷いた。


「はい!」

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