第6話 兄貴と注文を取らない料理店
忠勝は、昼食を外で取る事が多い。理由は単純、昼時にたけしが帰宅する事が少ないから。
ついでに言えば、忠勝は自炊をしない。料理は食べて貰ってこそ、それが忠勝の信念だから。
故に忠勝は、たけしに手解きをしても、自らの為には腕を振るわない。
また、コンビニや弁当屋を、殆ど利用しない。理由は、商店街にそれ等の店舗が存在しないから。
弁当を食べたい時は、肉屋に作らせる。パン屋に訪問時間を告げれば、焼き立てを提供してくれる。
即ち、商店街で事が足りるのなら、他で金を落とす必要は無い。
商店街の中でも、忠勝が特に気に入っているのは、京烙屋という名のレストランである。また利用する際、忠勝は十四時近くに自宅を出る。
入り口のガラス戸を開けると、カランカランと来客を告げる音が鳴る。店に足を踏み入れると、厨房カウンターからマスターが顔を覗かせる。
店内には、アンティーク調の二人掛けソファとテーブルが並ぶ。さり気なく配置された丁度品や照明、明る過ぎない暖色系の壁紙等が相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出す。
また、スピーカーから流れてくるジャズバラードが、居心地の良さを引き立てる。
ピークを過ぎ、ガランとした店内を見渡すと、忠勝は光が差し込む窓際の席へ腰を下ろす。
忠勝が座ったのを見計らい、マスターが水を運んで来る。そして軽く会釈をすると、何も言わずにカウンター奥へ戻っていく。
余計な会話は不要、寧ろ無言の語らいが心地よい。ここだけが俗世と切り離された様な、特別な時間が流れる。
店にはメニュー表が無い。提供する料理は、マスターがお客の表情等を観察して決める。
更には、最初に出て来る飲み物も、水とは限らない。お茶、コーヒー、ぬるま湯、経口飲料等、お客の表情に加え、提供する料理を観察して、出す物を決めている。
店に足を踏み入れた時、既にサービスは始まっている。回転率を重視するラーメン屋では、こうはいくまい。
レストランという形態と、少ない来客だからこそ、一人一人に対して、行き届いたサービスが提供出来るのだろう。
心休まる音楽に耳を傾けていると、あっという間に時間が過ぎ去る。
この日、忠勝の前に運ばれて来たのは、彩り豊かな野菜が添えられたテール煮込みであった。
豪快な骨付きの見た目と裏腹に、スプーンだけでとスルリとほぐれる肉が、濃厚なデミグラスソースに絡み、旨味の奔流が口の中に溢れる。
一切れ口に入れたら最後、もう止まらない。
あっという間に肉を平らげ、余ったソースは野菜に絡めて、全てを味わい尽くす。
十二分の満足感を得れば、強張った表情も緩むだろう。忠勝とて、例外では無い。
そんな時に限って、悪魔は微笑む。それは忠勝を、容赦無く日常へと引き戻す。
カランカランと音を立てて、ドアが開く。そして、馴染み深い快活な声が、店内に響き渡る。
「ちわ〜っす、マスター! 出前っす!」
「何で、お前が来るんだよ! 余韻が台無しだよ!」
「兄貴? 仕事っすよ!」
「マスター! お前は、コックだろ! 出前を取るな! まかないを食え!」
「お客さんが居るのに、自由過ぎかよ! って、ツッコミは無いんすか?」
「今は、ツッコミが渋滞中だよ!」
「マスター、中ネギチャーシュー、硬め、濃いめ、多め、お待ちっす!」
「スルーすんな!」
「兄貴、静かにして欲しいっす。仕事の邪魔っす」
「お前が邪魔なんだよ!」
一瞬にして、心地よいBGMがかき消される。たけしは、つかつかと店内を歩き、カウンターに注文されたラーメンを置く。
「一千万円っす! お代は、兄貴のツケで!」
「何で俺のツケなんだよ!」
「やだな兄貴。アメリカンジョークっす」
「うるせぇよ! 昭和のボケだろうが!」
天国から地獄へとは、正にこの事だろう。それまで、静かでオシャレな大人の空間が、大衆劇場に様変わりしたのだから。
また、カウンターの奥では、マスターが一心不乱にラーメンを啜っている。
「食い始めんな! 俺を処理しろ!」
流石の忠勝も、この状況は見過ごせない。
しかし当のマスターは、チラリと忠勝を見やり、極上の笑みを浮かべた後、再び麺を啜り始めた。
「旨いんだな、よ〜くわかるぜ。でも、食うのを止めろ! せめて、会計が終わってからにしろ!」
「兄貴、それは可哀想っす。麺がのびるっす」
「可哀想なのは、俺だろ!」
「兄貴の代金なら、貰っておくっす」
「何で、お前に払うんだよ!」
「相殺ってやつっす」
「何でだよ! この店のランチは、一律千五百円だ!」
「差引の分だけ、テーブルに置いとけば良いっす」
「ったく、お前らは! 後が面倒だから、領収書だけは必ず発行しとけ!」
最終的に、忠勝は呆れた様に深い溜息をつく。しかし忠勝の悪夢は、それだけで終わらなかった。
五百円玉をテーブルに置き、店を去ろうとした時、カウンターから話し声が聞こえる。それは、たけしの声だけでは無かった。
物静かな雰囲気を欠片も感じず、楽しげにたけしと会話するマスターを見て、忠勝は呆気に取られた。
忠勝が商店街に居を移してから、週に二度はレストランに足を運ぶ。それは、忠勝の習慣にさえなっている。
それにも関わらず、忠勝は初めてマスターの素を知った。
「ちょっと待て! マスター、お前……」
忠勝自身、馬鹿な質問をしたと思っていた。しかし、問わずにはいられない。
これまで感じていた、心が繋がった様なやりとりは、何だったのか?
「あぁ、それすっか? マスターは、極度の人見知りっす」
「いや、待て待て! 一年も通ってか? しかも、商店街の会合でも、顔を合わせてるんだぞ!」
「それは、やっぱりあれっす。兄貴が怖いから、話しかけられなかったんす」
たけしの言葉を聞き、忠勝はマスターを見やる。するとマスターは まるでヘッドバンキングの様に、ブンブンと勢い良く、首を立てに降っていた。
「兄貴ってば、もしかして。ハードボイルド的なあれに、浸ってたんですか?」
「なっ!」
「兄貴って、可愛い所も有るんすね!」
「うるせぇ! 二度と来るか、こんな店!」
そう言い放つと、忠勝はズンズンと足を踏み鳴らしながら、店を出ていった。
その後、一週間程に渡り、忠勝がレストランを訪れる事は無かった。しかし、提供される料理は、忠勝の舌を満足させる事には変わりない。
ムッスリとした表情を浮かべ、忠勝が再びレストランを訪れるのは、そう遠くない未来の出来事であろう。
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