第3話 兄貴と商店街の危機

 香ばしい焼き立てパンの香りが、商店街に広がる頃、数名が朝食を求めてパン屋に足を運ぶ。

 そして朝の喧騒が始まる。


 行き交う車は数を増し、往来には人の数が増える。

 しかし人々は、商店街を迂回する様に駅へと向かう。外の賑わいと反比例する様に、商店街は静まり返る。


 朝の喧騒が収まる頃、未だ息をする店のシャッターが開いていく。

 肉屋の前には卸業者の車が停まり、注文した品物を運び込まれる。レストランにも、別の業者が食材を運ぶ。

 ラーメン屋からはスープの香りが漂い始め、パン屋は昼に向けて仕込みを始める。

 それぞれが、普段の顔を見せ始めた頃、それは起こった。


「待て! おい、たけし! 待てよ!」

「後で聞くっす! 急いで兄貴に知らせないと、駄目っす!」

「最後まで聞け! おい、待て!」


 諌めようとする店主の声は、頭に入らないのだろう。たけしは開店前のラーメン屋から飛び出す。

 そして、腰巻きのエプロンを付け、タオルを頭に巻いたまま、商店街の奥に位置するビルへ走って行った。


「やばいっす! 事件っす!」


 脇目も振らずに、たけしは走る。そしてビルに飛び込むと、大声を上げた。


「兄貴! どこっすか? 兄貴!」


 たけしは階段を駆け上がり、二階のリビングスペースを覗く。ひと通り見渡すと、三階の寝室へと向かった。

 声を上げながら、各部屋の扉を開ける。


 既に仕事をしているはずの忠勝が、寝室に居る訳も無く、ましてやペットの部屋に居る筈も無い。

 三階の部屋を覗き終え、たけしは首を傾げた。


「兄貴、どこ行ったんすか?」


 思い付く限りの場所は調べたつもりだ、それでも忠勝の姿が見当たらない。探していない場所が、有るのだろうか?

 たけしは、息を整える事も忘れ、何度も辺りを見渡す。


 目まぐるしい勢いで、たけしの脳が回転しているのだろう。

 それは、焦りによるものだろうか? はたまた、切羽詰まった時に起こる、火事場の何かだろうか?

 そしてたけしの脳は、一つの答えを導き出す。 


「あっ! もしかして、出掛けたとか?」


 閃いたと言わんばかりに、たけしは勢い良く階段を下りようとする。そして二階に差し掛かった時、ゆっくりと一階の扉が開いた。


「うるせぇぞ! なに喚いてんだ!」

「兄貴? 何でそんな所に?」


 開いた扉から、忠勝が顔を覗かせる。いつに無く真剣なたけしの表情は、忠勝を見た瞬間に、ほんの僅か和らいだ。

 

 忠勝を見つけると、たけしはスピードを落とさずに、一気に階段を下る。そして、忠勝の下まで走り寄ると、荒い息のまま捲し立てた。


「やばいっす! ピンチっす! うちのシマが、荒らされてるっす! 兄貴、急いで欲しいっす! 大変なんす!」


 相当に焦っているのだろう、大変な事が起きている事だけは、何とか伝わってくる。しかし、事態は判然としない。

 それも当然だ、何一つ事態の説明が無いのだから。


「落ち着け、たけし! ゆっくり説明しろ! 何が有った?」


 忠勝は、溜息混じりに、大きく息を吐く。

 そして、たけしを落ち着かせようと、少し語気を強めて言い放つ。

 対するたけしは、漸く呼吸を整えると、説明に近い事を始めた。


「商店街で、取引が有るっす!」

「はぁ? 何のだ?」

「麻薬っす!」

「誰から聞いた?」


 たけしの口から、麻薬という単語が出た瞬間、少しドジな弟分の世話を焼く、面倒身の良い優しい兄貴分は姿を消した。

 それまでの呆れた様子は一変し、猛者達を伸して来た、鬼気が顔を出す。眉がつり上がり、眼は更なる鋭さを増す。ドスの利いた声は、たけしさえも威嚇する。


「て、店長から、聞いたっす」

「はぁ? ラーメン屋からかぁ? 何であいつが、そんな事を知ってんだ!」

「でも、言ってたっす!」


 この時、忠勝は迷っていた。

 忠勝は、常にアンテナを張っている。商店街の住人だけで無く、様々な者達と接触している。

 散歩と称して、一般市民から半グレと呼ばれる者達に、声をかける。

 また必要が有れば、水商売で生計を立てる女性に、会いに行く。時には、住所不定の路上生活者に金銭を渡し、情報を集める事も有る。


 商店街での麻薬取引は、忠勝の耳には入っていない。しかも、忠勝の住まう目と鼻の先で、そんな取引を行えば、どうなるかは言わずもがなだろう。

 

 恐らくは、たけしの勘違いであろう。しかし、単に勘違いで済ませて良い話では無い。万が一、たけしの言葉が本当なら……。

 そして忠勝は、深い溜息をついた後、徐に口を開いた。


「仕方ねぇ。案内しろ」

「何処へっすか?」

「売人の所に、決まってんだろ! 聞いてねぇなんて事ぁ、ねぇだろうな!」

「だいじょぶっす! 聞いてるっす! 案内するっす!」


 忠勝が黙念する間、たけしは普段の悠長な様子に戻っていた。たけしなりの説明をし、役目を終えた気になっていたのだろう。

 しかし忠勝の眼光が、再びたけしに緊張感を与えた。


 やがて意気揚々と、たけしは先陣を切って歩く。その後に続く忠勝は、様々な可能性を考えていた。


 己のテリトリーで、麻薬取引が行われていたとしたら、悠長に構えてなどいられない。

 しかし、何が目的だ? 少なくとも、この辺りの筋者で、宮川忠勝の名を知らぬ者は居まい。

 それを知って尚、仕掛けて来たのか? それとも海外のマフィアが、勢力を拡大して来たのか? 

 いや、それならヨゴレの連中やホームレス達から、情報が入って来たはず。

 なら、何故だ。重大な何かを、見落としてるとでも言うのか?


 眉根を寄せて、考え込みながら歩く忠勝は、異様にも見えただろう。

 一点を見つめているかと思えば、周囲の気配を感じ取っている様にも見える。

 そして、殺気の様なものさえ漂っているのだろか、直視するのが恐ろしい。


 たけしが気になり、外の様子を伺いながら、仕込みをしていたラーメン屋の店主が、忠勝に声を掛けられなかったのも、仕方が無い事かもしれない。


 そんな周囲の様子を、知ってか知らずか、たけしは案内を終え、目的地を指差す。

 

「あそこっす!」

「たけし……。ありゃあ、肉屋だな」

「そうっす! 肉屋のおっちゃんが、売人っす!」


 それを聞いた瞬間、忠勝は今日一番の深い溜息をついた。そして怒りを抑え、子供に訪ねる様に、優しく問いかけた。

 

「なぁ、たけし。ラーメン屋は、なんて言ってたんだ?」

「肉屋が、シャブを捌いてるって、言ってたっす」

「本当だろうな?」

「本当っす! ちゃんと聞いたっす!」

「なら、あそこに貼って有るチラシを、読んでみろ!」


 忠勝は、店頭に貼られている、手書きのチラシを指差した。そこには、たけしが予想もしなかった言葉が綴られていた。


 特売、本日限り! 高級黒毛和牛しゃぶしゃぶ用、百グラム千二百円。


 チラシを読み理解したのだろう、たけしは呆気に取られて言葉を失う。

 そして次の瞬間、頭に鉄拳が降り注ぎ、たけしは頭を抱えてうずくまった。


「あじぎ、いだいっず」

「お前が、早とちりしたからだろ!」

「違うっす。あのチラシは、あれっす。暗号的な」

「何が隠されてんだよ! 俺には、しゃぶしゃぶとしか読めねぇよ!」

「でも、店長が」

「人のせいに、するんじゃねぇ! ちゃんと最後まで、話を聞かねぇから、こんな事になるんだ!」

「でも兄貴は、旨いほうれん草を作れって」

「バターソテーでも作る気かよ! そもそも、間違った情報を伝えて、報連相も何もねぇだろ!」

「おひたしの方が好きっす」

「お前の好みは、聞いてねぇ!」

「頭がガンガンするっす。不知の病っす」

「そんな訳ねぇだろ! ちっとは、反省しやがれ!」

 

 商店街には、二人のやり取りが響き渡る。

 失敗して叱られようが、拳骨を落とされようが、あっけらかんとしているのは、ある意味ではたけしの長所なのだろう。


 後方から様子を見ていた、ラーメン屋の店主は、いつものやりとりにホッと胸を撫で下ろす。

 また、この状況で一番迷惑を被っているのは、肉屋の店主であろう。二人の様子を見ながらタイミングを計り、騒ぎを止めようと話しかけた。


「あんちゃん達。そろそろ止めて、せっかくだから買ってかないか?」

「あぁ、そうだな。一人前を貰おうか」

「うん? 二人前じゃなくて?」

「たけしは、肉抜きだ」

「酷いっす。凄そうな肉、食べたいっす」

「駄目だ! それよりたけし、バイトに戻れ!」

「あんちゃん。肉は、直ぐに持って帰るのか?」

「いや。バイトが終わったら、たけしを寄らせる」

 

 忠勝の一言で、たけしは肉に有りつけない事にななる。そしてたけしは、肩を落としながら、ラーメン屋へ戻っていった。

 しかし夕食の準備中に、味見と称してたけしが高級肉を摘んだ事は、言うまでもない。

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