第2話 兄貴とミィちゃん
一年前の事で有る。
青年が繁華街を歩いていると、ぼろきれの様になり、道路脇に打ち捨てられていた少年を見つけた。
青年は、少年を放置しても良かった。少なくとも、繁華街を歩く人々は、少年を視界に入れない様にしている。
だが、放っておけなかったのだろう。青年は肩で少年を担ぐと、自宅へと連れて行った。
それ以来、青年は少年の面倒を見ている。そして少年は青年の事を、親しみを籠めて兄貴と呼ぶ。
宮川忠勝、それが青年の名であり、前島たけし、それが少年の名である。
二人が共に暮らし始めてから、忠勝はシャッター商店街のビルを買い取り、リフォームをした。それ以降、二人はビルを住処にしている。
幾らシャッター商店街の端に存在するビルとはいえ、ただではない。普通なら、二十歳そこそこのチンピラに、ビルを一棟買える金は無いだろう。
普通なら。
株や不動産売買等、資産運用に長けた忠勝は、ビルの買取からリフォームまで、即金で払う資金を有していた。
そして、忠勝が気まぐれに拾った少年は、実に真面目であった。
この日も、朝早く起きると、ビルの掃除を始める。
最初は、一面をリビングとして利用している二階を掃除する。次に、事務所にしている一階部分の掃除を行う。
事務所と言っても、デスクとパソコンが一台づつ有るだけ。残りのスペースは、ウエイトトレーニングの器具が並んでいる。
器具も隈なく磨き上げると、再び二階のリビングへと戻る。そして、朝食の準備を素早く整え、寝室が並ぶ三階へと戻ると、各部屋の掃除を行う。
そして最後に残った、忠勝が眠る部屋の戸を叩く。
「兄貴、兄貴。起きて欲しいっす。今朝は兄貴の好きな、ベーコンエッグトーストっす。ベーコンとチーズをマシマシにしたっす。冷める前に、起きて欲しいっす」
「あぁ……あたった……おきう……あってろ」
「そう言って、二度寝するっす。起きて欲しいっす。起きてくれないと、小倉トーストも冷めるっす」
「そんあ甘そうなおん、くえねぇ」
「違うっす。それは、兄貴のじゃないっす。それと、ミィちゃんが吼えてるっす。ご飯を欲しがってるっす」
「めしは……やっとけ」
「駄目っす。ミィちゃんの世話は、兄貴がやるって言ったっす」
「あぁ、くそっ! もう起きる。もぉぉぉぉふぁぁぁうぉきた」
忠勝は体を起こすと、ベッドの上で両手を挙げ、体を伸ばしながら大きな欠伸をする。
そして、人など簡単に睨み殺せる様な目つきで、たけしを睨め付けると、低い声で言い放つ。
「たけしぃ。ミィちゃんの餌ぁ……持ってぇこい」
「わかったっす」
毎朝の事とはいえ、そんな迫力に慣れ様はずも無い。
たけしは、少し震えながらペット専用の部屋へと向かう。そしてペットの犬を片腕に抱き、もう片方の手で餌と餌用のボウルをもって、青年の寝室へと戻って来る。
「兄貴。怖いから、睨むの止めて欲しいっす」
「あぁ? 睨んじゃねぇだろ!」
「違うっす、怖いっす。ミィちゃんも、怖がってるっす」
たけしは、抱えていた犬を床に降ろす。そして、餌とボウルを青年に渡す。
犬は、忠勝の寝室に入るまで、餌をねだって吼えていた。しかし、寝室に入った瞬間、ぴたりと吼えるのを止めた。
そして、忠勝には近寄ろうとしない。
「やっぱり怖がってるっす。怯えて、声も出ないっす」
「お前がかぁ? 糞生意気な事ぉ言ってんじゃねぇか」
「違うっす。ミィちゃんっす」
「んなこたぁねぇだろ! 所でぇたけしぃ。何でぇ缶詰がねぇんだ?」
「買い忘れたっす。今朝はカリカリで我慢させるっす」
「はぁ? お前が缶詰ぇ忘れたから、ミィちゃんが怒ってんじゃねぇのか!」
「誤解っす。取り敢えず、カリカリあげて欲しいっす。ミィちゃんがストレスで剥げるっす」
「仕方ねぇ」
ペットでさえ黙らせる眼力だが、忠勝自身には睨んでいる自覚が無い。
やがて忠勝は、ドライフードをボウルに移す。そして、食えとばかりに、ペットのミィを見る。
従うしかない、従わないと殺される。そんな事を、思っているのではなかろうか。
尻尾を隠しながら、ミィはゆっくりと歩きボウルに近づくと、ドライフードを食べ始める。
忠勝がベッドから降り、撫でようとすると、ミィはビクッと震える。
だが、嫌とは言えないのだろう。大人しく忠勝に撫でられながら、ミィはドラフードを食べ終えた。
「おい。ミィちゃんを、部屋に戻しとけ。飯食い終わったら、散歩を忘れんなよ」
「駄目っす。散歩も兄貴がやるって言ったっす」
「そりゃあ、俺が暇な時だろ!」
「違うっす。毎日やるって言ってったっす」
「適当な事ぉ言ってんじゃねぇだろうな、たけしぃ!」
「本当っす。兄貴が、酔ってる時に言ったっす。証拠も残ってるっす。録音したっす」
「妙な所で、賢くなりやがって」
「兄貴のおかげっす」
たけしを三階に置き去りにし、忠勝は二階へと下りる。そして、窓際のソファーに座り、たけしの到着を待つ。
ややあって、たけしがリビングへと現れる。だが、たけしは忠勝の座るソファーを素通りし、キッチンへと移動する。
やがてゴリ、ゴリと音がし、芳しい香りが部屋に漂う。それは、適温のお湯が注がれる事で、さらに薫り高く変化を遂げる。
たけしは、木製のトレーに焼き上げたトーストと、淹れたてのコーヒーを乗せ、忠勝の前に運んでくる。
そして忠勝は、テーブルに置かれた朝食と、たけしを交互に見やった。
「ちょっと冷めたのは、兄貴のせいっす」
「何も言ってねぇだろ! いいから食え!」
「兄貴の目が、何かうるさかったっす。冷えてねぇかこれ、みたいな感じっす」
「んな事、言ってねぇ! お前の、パンを見てたんだよ!」
「交換は駄目っす。でも、ちょびっとなら、分けても良いっす」
「いや、要らねぇよ。よく朝から、そんなもん食えるな」
「ぼぶぼーば、ばいぼうべぶ」
「食いながら、喋んじゃねぇ」
「んぐ。おぐとーは、最高っす」
「そうかよ」
苦笑いを浮かべながら、忠勝はトーストを手に取る。
そして、ガツガツと一気に食らい尽くす。そして、コーヒーを飲み干すと、立ち上がる。
忠勝より先に食べ始めた割に、たけしは未だに、トーストを一口大にちぎって、モソモソと食べている。
そんなたけしを見やった後、忠勝はリビングの入り口へと向かい、歩き始めた。
「そういや、今日はラーメン屋だったな」
「今週は、ずっとっす」
「仕込みから何まで、しっかり学んで来い」
「兄貴は、何処に行くんすか?」
「前場にはまだはえぇからな。外のマーケットをチェックしたら、ミィちゃんを散歩に連れてく」
「わかったっす。気を付けて下さいっす」
「ありがとよ」
忠勝は粗雑に扉を開けると、リビングを出る。そして、一階に下りると、事務所の戸を開ける。
忠勝に反応し、事務所の灯りが順々に点灯していく。忠勝は真っすぐにデスクへと向かい、PCの電源を入れた。
PCが起動すると、メールのチェックをし、海外のマーケット情報にざっと目を通す。忠勝はPCの画面を見つめ、眉間にしわを寄せながら腕を組む。
恐らく忠勝の頭は、目まぐるしい勢いで、情報を整理しているに違いない。
忠勝は、PCの脇で充電しておいたスマートフォンを手に取り、電話をかける。そして電話の相手に、幾つか指示を出す。
電話を終えた忠勝は、スマートフォンをデスクの上に置き、PCの電源を落とすと事務所を出る。そのまま、階段を上り三階のペットルームへと向かった。
凡そ、忠勝の寝室より広いだろうペット専用の部屋を見渡すと、ミィは隅で小さくなって震えていた。
「何だ? ミィちゃん、そりゃ新しい遊びか? こっちに来い、ミィちゃん」
ペットを構う時、人は少し高く柔らかな声で、話しかけるのではなかろうか。
しかし忠勝は、ドスの利いた声で話しかける。また目付きは、相も変わらず鋭い。
当然ながら、忠勝にミィを脅す気は、さらさら無い。寧ろ、全力で甘やかそうとすらしている。そうでなければ、自分より広い部屋を宛がったりはしない。
人間にとっての恐怖は、動物も然程の変わりがないのだろう。忠勝の想いはミィに届く事はない。
幾ら呼びかけても、ミィは部屋の隅で震え、忠勝には近寄ろうとしない。もし、忠勝が部屋の入口を塞いでいなければ、全力で逃げ出していたかもしれない。
「泣かねぇならぁ……殺しちまえかぁ? なぁ、ホトトギス。いや、冗談だぁ……ミィちゃん。散歩に行くぞ」
がしっと、鷲掴みでミィを持ち上げると、忠勝はそのまま小脇に抱えて、階段を下りていく。
ビルから一歩を踏み出すと、立ち並ぶ建物の上から、光が差し込むのが見える。そして、夜の間に入れ替わった新しい空気が、心地よく肌を撫でる。
忠勝は大きく息を吸い込むと、商店街の入り口に向かって歩き出す。
商店街は入り口に近づく程、開く事の無いシャッターから、開くのを待つシャッターへ変わる。
その商店街の端に位置するビル付近は、日中でもやや薄暗い。特に、通勤や通学の為に通る事が無くなり、人を見る事も少ない。
それでもこの時間は、焼き立てパンの芳しい香りに誘われ、数名が商店街を訪れる。
また、魚屋と八百屋の店主は、今日の仕入れを、トラックから店舗に移す。酒屋の店主は、竹ぼうきで道を掃く。
忙しなく動き始めた朝を横目に、忠勝は往来を闊歩した。
商店街に足を運んだ客は、忠勝と目線を合わせる事は無い。多少は、人となりを知る商店街の店主達でも、気軽に話しかける者は少ない。
しかし、商店街の入り口近くまで歩いた時に、忠勝は呼び止められる。
「おぉ、あんちゃん。珍しいな、散歩か?」
「あぁ? 見てわからねぇか? ミィちゃんの散歩だ」
忠勝が無為に暴力を振るわないのを、住人達は理解している。脅すつもりが無いのも、ちゃんと理解している。
だが話しかけると、決まって睨みつけられ、ドスの利いた声で返される。それが怖くて、住民達は積極的に話しかけない。
この時、肉屋の店主が話しかけたのは、珍しく犬を抱えていたからだろう。
「それは、見ればわかるよ。ただ散歩なら、歩かせたらどうだ? 犬の健康にも良いと思うぜ」
「はぁ? んな事ぉしたらぁ、可愛いミィちゃんが、汚れちまうだろ」
「いやいや、犬の散歩ってそんなもん。あぁ何でもない。ところで、コロッケでも揚げようか?」
忠勝の眼光が、更に鋭くなったのを感じたのだろう。肉屋の店主は素早く、話を切り替えた。
肉屋の店主の提案に、少し逡巡した後、忠勝はゆっくりと答える。
「コロッケか。そうだな、せっかく揚げてくれんなら、貰おうか。二個、いや三個。ちょっと待て……やっぱり、フライドチキンを揚げてくれ」
「はぁ? フライドチキン?」
「そうだ。聞こえたんなら、早くしろ」
「いや、待て待てあんちゃん。コロッケなら、直ぐに揚げられるから、言ったんだよ。フライドチキンなんて、直ぐには無理だぞ」
そんな答えは、聞きたくねぇ。
そう言わんばかりに、射殺さんばかりの眼光を向けながら、忠勝は肉屋の店主へと近づく。そして肉屋の店主は、ガラスショーケース越しに、逃げる体勢を整えた。
しかし、忠勝が放った言葉は、肉屋の想像を超えていた。
「いいか肉屋、よく聞け。あんたが扱ってるのは、牛だけか? 豚だけか? 違うだろ、鳥も扱ってんだろ?」
「そうだな」
「あんたが、ただの肉屋のつもりなら、それでも構わねぇ」
「うちは、普通の精肉店だよ!」
「だけどよぉ、俺の知るあんたは、世界最高の職人だ」
「何言ってんだ、あんちゃん! 意味がわからねぇよ!」
「そんな職人のシマで、健太の野郎は勝手なシノギをしてやがんだ。あんたは、悔しかねぇのか」
「悔しくないし、土俵が違うだろ!」
「いいや、考えてもみろ! あんたから仕入れた肉で、向こうのパン屋は、最高のバーガーを作り上げた。幕堂の野郎を、叩きのめして見せたんだ!」
「何の話しだよ!」
「兄弟分のあんたが、黙ってて良い訳がねぇ!」
「だから、意味がわからないって!」
「あんたは、世界最高のフライドチキンを作れ! そんで健太の野郎に、立場ってもんを教えてやれ!」
「だぁから。どうしろって、言うんだよ!」
「いいか、一時間だ。ミィちゃんの散歩が終わってから、もう一度ここに寄る。それまでに、完成させとけ」
「だから、何をだよ!」
「俺があんたにしてやれるのは、味見だけだ。あんたの魂、見せてみろ!」
「いやあんちゃん。俺は、そんなもん作らねぇぞ。おい、聞けって! あんちゃん、お~い!」
忠勝は、言いたい事だけを言うと、歩み去る。肉屋の店主は、忠勝の背を眺めて、深いため息をつく。
やるしかない。
聞く耳を持たないのではない、話が通じないのだ。
恐らく出来ないと断っても、泣き言は聞きたくねぇと、切り捨てられるだろう。そして、あの鋭い眼光で、詰め寄られるのだ。
幾ら、無為な暴力は振るわない事を知っていても、怖いものは怖い。
だが忠勝は、困らせようと、無茶な注文をつけているのではない。それは、肉屋も理解している。
表情は真剣そのものであった。また、腕を信頼しなければ、あんな言葉は出なかっただろう。
何より、魂を見せてみろ。その言葉は、肉屋の心を震わせた。
それから肉屋は、必死に頭を働かせた。
健太のフライドチキン、その味の秘密を想像し、それを超える秘策を熟考する。試作の手間を考えると、一時間ではとても足りない。
だが、肉屋は全力を尽くした。
しかし一時間が経過しても、忠勝が店舗に訪れる事は無かった。
「お帰りなさいっす兄貴。さっき、肉屋から電話が有りましたよ」
「はぁ? 肉屋が俺に何の用だ?」
「なんか、フライドチキンがどうのって言ってたっす」
「そう言えば、そんな事もあったな」
「それは良いっすけど、出掛ける時は、スマホを持ち歩いて欲しいっす。連絡取れなくて、肉屋が困ってたっす」
忠勝は、肉屋とのやり取りを、完全に忘れていた。
約束の時間に行かず、肉屋はさぞかし困っただろう。そう思った忠勝は、直ぐに引き返そうと、玄関に体を向ける。
しかし、ふと立ち止まると、ニヤリと口角を吊り上げた。
「そうだ、たけしぃ。バイトの前に、肉屋に寄れ」
「なんでっすか?」
「あぁ? そりゃあ、最高のフライドチキンが、待ってるからだ」
事情がわからず、たけしは首を傾げる。だがフライドチキンという単語で、たけしの表情は綻んでいた。
この時、問題のフライドチキンが、後に行列を作る事を、誰も予測してない。恐らく、忠勝以外は。
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