第17話 「夏休みが来てしまったんですよ」

「はいお客さん入って。ちらかってるけど」


 先輩は扉を開けた。

 いつもは原付で学校へ行くらしいが、ワタシが来るということで、珍しくバスで行ったのだという。そのバスに揺られ、学校より更に街の中心からは離れた所に、先輩のマンションはあった。

 階段を昇って、三階。郵便受けを見てから、彼は鍵を開けた。

 入るとやはり、自分の家とは違う匂いがする。

 何だろう、と灯りをつけた室内をぐるりと見渡す。ワンルームだ。入ってすぐにトイレと一緒なバスルーム、そしてキッチンが作りつけられた部屋が、広がっていた。

 だが先輩の言う「ちらかっている」は間違ってはいなかった。

 作業中の床面はなかなか笑いを誘うものがある。

 ベージュのじゅうたんには、新聞紙があちこち敷かれていて、その上には、作業中の作品が幾つも置かれていた。

 乾燥中という訳ではないのだろうが、ケント紙を水張りしたボードが、同じ形を、違う色彩構成をされて、何枚か置かれていた。

 部屋の隅には、以前に作ったのだろう、立体カラーチャートが置かれている。そしてその向こう側に、服を掛ける場所があった。


「とりあえずそのへん、開拓して落ち着いて」


 開拓ね。なるほど、とワタシは荷物を入り口に近いほうの空いた場所に置くと、なるべくものを踏まないように、忍び足で奥へと進んだ。

 ワンルームは、だいたい六畳と四畳半をつないだくらいらしい。キッチンがあるほうが四畳半で、ベッドやTV、それにテーブルが置かれているほうが六畳らしい。

 とりあえずTVやテーブルのある方へ行こう、とワタシはそろそろと動いた。


「何か呑む? あ、ウーロン茶くらいしかないか」

「何でもいいですよ」


 じゃはい、と彼はペットボトルをワタシに手渡す。そして自分は、冷蔵庫からビールを取り出して、コップを二つ手にする。


「あ、ずるい。ビールあるじゃないですか」

「お前呑めるの?」

「呑んだことはないですけど」

「じゃ半分やる」


 彼はとぽとぽとコップの一つにそれを注いだ。ワタシは一度その中身を見てから、それに口をつけた。


「苦い」

「そらそうだろ。だから呑んだことないならよせって言うのに」


 そう言って、胡座を組んで座り込むと、彼は美味そうに自分の分に口をつけた。

 何となくしゃくにさわる。

 しゃくにさわるから、苦いと一度置いたコップの中身を、ワタシは一度に飲み干した。そして勢いよく喉を刺激する炭酸に、むせかえる。


「あーあ、そんな一度に」


 ぽんぽん、と彼はワタシの背中を叩いた。数回深呼吸をすると、せきはおさまった。だが喉がややこそばゆいままだった。そのせいなのかどうなのか、彼の手はなかなかワタシの背からは離れなかった。


「それでヤナセ、今更の様に俺、聞いてもいい訳?」

「今更の様ですが、どうぞ」

「お前どうして、いきなり来たの?」


 いきなり。そういきなりだった。

 確かに家には ―――市の美大に通っている先輩のところへ行ってくるとは言ってきた。だがそれを当の本人に告げたのは、その前日だった。

 電話の向こうの声は、一瞬止まったが、案外穏やかだった。

 来たいなら、おいでよ、と言った。

 泊めてくれますか? と訊ねたら、いいよと答えた。驚かなかった。


「前に先輩は、言いましたよね」

「うん?」

「必要になったら呼べって」

「うん」


 卒業式の日。わざわざワタシにレッテルを貼っていったこの人は、そう言ったのだ。


「どういう意味か、考えていたんですけど」

「判った?」

「判りました」


 コップをテーブルに置く。とん、と音が部屋の中に響く。空いた手で、何度か頬を撫でる。変な熱さが、湧いてくる。


「彼女を……」


 目を軽く閉じる。まぶたの裏側に、絵の中のサエナの姿が浮かび上がる。

 あの日から、ワタシはあのスケッチブックを閉じていた。端の紐で、くっと本結びにしていた。

 そう簡単には解けない。開けようと思ったら、切った方が速い。

 どうしたの最近、とサエナは訊ねる。

 訊ねられるから、代わりの作業に手をつけている。例えばボードに紙を張ったり、そのボードに幾何学模様を描いてポスターカラーで塗りつぶしたり。

 だけどそんなことばかりをしていられない。


「夏休みが来てしまったんですよ」

「うん」

「お昼を一緒に食べるんですよ。風が心地よくて、彼女はついまた、昼寝を決め込んでしまうんですよ。……ひどく無防備に」

「うん」

「それもワタシの前だけって、判っているから」


 なのに。


「だけど、彼女は、どうしようもないくらい」


 そして話をする。今度の期末ではあの子は何番だった、ここの夏服は似合う、最近は何かライヴハウスに入り浸っているようだ云々。

 笑顔が凍り付くのが判る。こんなに、部屋の中は、暑いのに。


「触れたくなった?」


 ワタシはうなづく。

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