第15話 夏休み、向こう側の都市、ギョーザ屋

 確かにニケが居た。

 エントランスの高い天井を見上げて、ワタシは一瞬くらりと眩暈がする。

 言われた通りの赤いラインのバス、言われた通りの道順で、ワタシは夏休みのある日、そこに来て居た。

 近くには医大。この街には結構大学が多い。

 数年前に改築された駅はまだ小綺麗だった。そこからやや混み合った道をバスに乗った。途中で、電話で聞いた繁華街を抜けていく。坂を上り下りして、もう夕暮れも近い時間、逆光でずいぶんと古めかしい建物が見えた。

 大きいが、軽いバッグを一つしか持っていないのに、妙に足が重い。

 バス停の近くから、彼の携帯に掛けると、このエントランスまでの道を説明された。そして少し待っていてくれ、と言われた。作業をきりにするからと。

 ワタシはニケにほど近いあたりの壁にもたれて、辺りをぐるりと見渡した。そこには幾つかの出入り口があり、その何処から彼が出てくるのかはワタシには予想がつかなかった。

 とりあえず大きく息をつく。とにかくここまで来てしまったのだ。

 十分くらい待っただろうか。明るいオレンジ色の髪が揺れるのが見えた。

 タンクトップに大きめのシャツを羽織って、下ときたら、ジーンズを半分に裂いたような五分丈のズボンもどきになっている。それでもってサンダル。一体ここは何処だ、と一瞬ワタシは疑った。

 だがナオキ先輩は、やはりナオキ先輩だった。


「お久しぶりヤナセ。あれ、何か、痩せた?」

「別に痩せてませんよ」

「ふうん? 気のせい?」

「気のせいですってば」


 まあいいさ、と彼は幾つもシミのついた手で、短いワタシの髪をかき回した。

 何するんですか、と言っても、なかなかそれは止まない。そしてようやく手を伸ばすと、彼はそれを止めた。


「どうせかき回しても大して変わらないだろうに」

「そういう問題じゃあないですよ。何かずいぶん凄いことなってますね。何やってんですか? 今」


 ワタシは取った手を見ながら訊ねる。


「ん? 授業ではまだ大したことやってないよ。平面構成の課題が結構たくさん出たけどさ。これは写真に今はまってるから」

「写真?」

「同じ科の先輩が一式いきなりくれたんだよ。一眼レフのカメラから、現像の道具まで」

「それは太っ腹ですね」

「や、結構そういう奴居るよ。この学校にも。ところでヤナセ、腹減ってない?」


 え、とワタシは問い返す。

 そういえば、減っていた。時計はもう六時近かったし、ワタシは途中の駅の連絡待ちの時にファーストフードの店に飛び込んだきりだ。


「減ってる」

「じゃメシ食わない? 近くのギョーザ屋が安いのよ」


 先輩がずんずんと先に立って連れて行ってくれたのは、入った途端、ぐるりと大きなカウンターだけがある店だった。

 正方形のカウンターの真ん中が厨房になっていて、そこに数人の調理人が居て、ぐるりと座る客に次々とギョーザを焼いて出している。

 そういう作りだし、どうも辺りにべたべたと貼られたメニューは、ギョーザとごはん、その程度しかないらしい。

 焼きギョーザと水ギョーザとかそういう製法の違いや、中に入れる具の違いはあっても、ものそのものは皆ギョーザだった。

 先輩は空いてるとこにさっさと座ると、ワタシを手招きする。そして近くのセルフサービスの水をざっと汲むと、ワタシの前に置いた。


「ホワイトギョーザ定食を二人前ね」


 カウンターの中で返事の声が飛び交う。

 油を引いて熱した鍋に水が入る時のじゃっ、という音。水蒸気。特有の匂い。客の立った後の、コップを片づける音。

 次第に学生達がやってくる。ぐるりと大きなカウンターは、だんだん人で埋められていく。確かに夕食時だったのだ。


「ここのギョーザ、美味いんだ」

「先輩のおすすめ?」

「そ」


 そう言うと彼は、水に口をつける。クーラーは店内にきいていない。開け放した窓と、扇風機だけだ。黙っていても、じっとりと汗が吹き出してくる。


「けど先輩、普通の女の子をいきなり連れてくるとこじゃないですよ」

「あれお前、普通の女の子だっけ」


 ワタシは何も言わずに、眉だけ上げてみせる。


「ま、いいけどさ。あーそうそう。家には何って言ってきたの?」

「別に。―――市に行くって言ったら、泊まるとこくらいは教えてって言うから、先輩の名を出したら、ふうん判った何かあったらここに連絡すればいいのね、とそれだけ」

「俺の名前出したの?」

「名字だけですけどね」


 そうこう言っているうちに、目の前にとん、とごはんとみそ汁が置かれた。どちらかというとワタシの方が手が届く位置にあったから、彼の分も取ってやる。


「お前ずいぶん信用されてんのね」

「別にそういう訳じゃないですよ。うちの常識はちょっとずれてんです」

「―――ああ」


 彼はうなづいた。一応このひとは、ワタシの母親の職業を知っている。別に言ったことはないが、知っていた。だがそれでどうだということはない。

 やがて、とん、とカウンターの一段高いところにギョーザの皿が置かれた。


「あ、可愛い」


 やや普通のギョーザより丸っこい、という印象があった。できたてで、ひどく熱いので、ふうふうと冷ましながら口に入れると、思わず美味し、と声が出た。


「だろ?」

「うん。初めて」

「奴もそう言ったよ」


 口に一つを放り込みながら、彼は名前を出さない人の事を口にした。


「よく来るんですか? イクノ先輩と」

「よく、じゃないな。向こうは向こうで、授業やサークルや…… 彼女やら忙しいし。俺は俺で、課題に追われてる状況だし。あれはなー、いい時はちゃっちゃと行くけど、いざいい構図とか浮かばない時には、地獄を見るぞ」


 ワタシは肩をすくめる。皿の上のギョーザは半分無くなっていた。ごはんと交互に食べながらでも。


「忙しすぎたなら、ワタシ来てはまずかったですかね」

「お前はいいの」

「いいんですか」

「俺もお前には会いたかったし。電話は遠いし」

「ふうん。ワタシも先輩にすごく会いたかったんですよ」

「だろうな」

「ええ」


 そう、嘘ではない。

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