第36話「新たな出会いと夏の匂い②」

「——なんで傘も差さずに歩いてるんだ?」


 視界を覆いつくす土砂降りの雨の中、その少女は傘も差さずに立ち尽くしていた。降りしきる雨は少女を容赦なく打つ。髪も服もびしょびしょで、見なかったふりをすることはさすがにできなかった。

 俺の言葉に反応して、少女はゆっくりとこちらを振り返った。

 水が滴る前髪の間から少女の顔が垣間見える。

 初めは解らなかった。彼女は全身濡れ鼠になっていたし、服も制服ではなく、私服、その上、ばっちりメイクをしていたから。もちろん、そのメイクは雨水で完全に崩れていたのだが。


「……馬淵か?」


 俺はおずおずと少女の名を呼んだ。

 俺を認めた少女は、ふっと息を吐いて呟いた。


「……よく見たら、せんせーじゃん……」


 その声を聞いて、俺は確信する。この少女は俺が担任をしている生徒の一人「馬淵しえり」だ。

 馬淵はある意味で目立つ生徒だった。彼女を一言で記号付けするなら「ギャル」という奴なのだろう。入学式の数日後、髪の毛を金髪に染めて登校してきたときは、大騒ぎになったものだ。それでいて、それは校則違反だと指摘すると「やっぱり?」などと軽い調子で言って、次の日には元の髪色に戻っていた。

 この「金髪事件」のせいで彼女を目の敵にしている教師も多い。うちの学校は進学校。こんな派手に髪の毛を染めてくる生徒など、めったに現れないからだ。

 反面、意外にも友達は多いようだった。クラスに彼女と気が合いそうな人間はあまりいそうになく、彼女が浮いてしまうのではないかと心配していたが、それは杞憂だった。やんちゃな生徒にも、おとなしい生徒にも物怖じせずに声をかけるので、彼女はクラスの人気者だった。

 成績も悪くはなく、「金髪事件」以外、大した騒ぎも起こしていない。故に、俺はあまり過度に彼女を問題視はしていなかった。


「風邪ひくぞ。とりあえず、入れ」


 そう言って、俺は自分の傘を差し出す。

 立ち尽くしていた彼女は俺を拒否しなかった。

 肩を越す長さの薄茶色の髪はぐっしょりと濡れて、彼女の白い肌に張り付いている。やや青みががった瞳が濡れているように見えたのは雨のためだろうか。普段の軽いノリや喋り方が鳴りを潜めているせいか、どこか普段感じない大人の色気のようなものが垣間見える。服装はタンクトップにショートパンツという露出度の高いもの。しかも、それがびしょびしょで幽かにしたの下着のようなものが透けていたので、余計に目のやり場に困った。

 そんな俺の一瞬の動揺を見て取ったのか、馬淵は口の端をわずかに緩めた。


「……せんせー、えっち」


 だが、そんなからかいの言葉にすら力はない。その声音はまるで、そうやってふざけることで何かをごまかそうとしているようにすら思えた。

 俺は着ていたスーツの上着を脱いで、馬淵の肩にかけた。


「着てろ」

「え……」


 馬淵はきょとんとした表情でこっちを見た。


「いいの……?」

「そんな格好で歩かせられないだろうが」

「………………」


 馬淵は目をぱちぱちとしばたたせ、俺を見つめていた。


「まあ、おっさんの上着なんて着たくないだろうが、我慢してくれ」


 俺がそう言うと、彼女はもう一度、驚いたように目を見開いた。そして、言った。


「……別に、しぇりーは全然気にしないけど」


 そう言って、わずかに笑ったのだった。

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