第34話(番外編2)「テスト採点」
【side歩美】
「もう嫌だ……」
私は思わず、そんな声を漏らしていた。
これは地獄だ……。なぜ、こんな面倒で辛いことをしなくてはならないのだろう。いますぐ、すべてを放り出して帰ってしまいたかった。だが、そんなことはできないことは誰よりも自分が解っている。今日やらなければ、明日、明日やらなければ明後日。負債は降り積もっていくのだ。
「もう嫌だ、テスト採点なんて……」
私は山積みになった答案を見ながら、大きなため息をついた。
自分が生徒だったときには、テスト採点がここまでの重労働だったなんて想像したこともなかった。テストを受ければ、その採点結果が返ってくるのは当たり前。まるで、採点する先生を答案を入れたら勝手に点数をつけてくれる魔法の箱か何かだと思っていた。採点する側に回って、その大変さに初めて気が付いた。
(生徒一人一人の成果を確認できるなー)
なんてわくわくした気持ちが残っていたのは、一年目の最初のテスト採点。しかも、三人目の点数をつけるあたりまでだ。
「これ、全部採点するの……?」
想像してもらいたい。
自己採点なら自分の答案の答えを確認するだけでいい。そのときは、一問につき、一回答えを確認すればいいだけだ。だが、生徒の採点をするということは、何度も何度も同じ問題の答えを確認しなくてはならないということなのである。
「ええっと……debateは……〇……preferは……〇か……次は……」
何度も何度も同じ答えを確認させられるとゲシュタルト崩壊を起こしてくる。自分が何を見ているのか解らなくなってくる。
それでも英単語やリスニングの記号問題はまだいい。問題は記述問題だ。
「『He knows a lot of English.』……ええと、原文は『彼はたくさんの英単語を知っています』だから、本当は『words』も欲しいけど……」
単純に正解か不正解かの二元論で論じられたら楽だったのだろうが、教育というのはそう簡単に割り切れるものではない。模範解答以外に正解にしなければならない解答も存在するし、部分点を上げる必要があることもある。よって、どれだけ採点に慣れたとしてもある程度の時間はかかってくるのだ。
私は採点がかなり遅い。生徒が解らないなりに書いてきた解答を無下に切り捨てることができないのだ。先輩の教師に相談すると「ある程度のところで割り切れ」と言われる。だけれど、本当にそれでいいのか。毎回、そんな迷いが入ってしまって、どんどん時間だけが過ぎていくのだ。
「静井さんか……」
だから、優秀な生徒の答案に向き合うのは楽だ。バツにして切り捨てる必要がないから。
「頑張ってるわね……」
特待生だけあって、安定している。皆がこうだといのだけれど。
(この子が奏多の幼馴染……今の奏多が……)
やめだ。
今はそんなことを考えるときではない。黙って手を動かすべき時間だ。だけど、今の思考で集中力は完全に切れてしまった。
職員室の壁にかけられた時計に目をやる。時刻は19時半。定時なんてとっくに過ぎてしまっている。今、このタイミングを逃すともう帰宅できないような気がする。
私は自分の席からそっと立ち上がる。肩が凝っていた。昔はこれくらいで肩なんて凝らなかったのに。どんどん老け込んでいく自分が本当に嫌になる。
「お、帰るのか?」
近くの席で採点をしていた奏多から声がかかる。
奏多も採点は遅い方のようだ。彼は国語教師。英語と同じく記述題があるから時間がかかるのは必然なのだが。
「そうだね。きりもいいから」
我ながら疲れ切った声が口から漏れた。
「そっか。今、採点してるんだが、おまえのクラスの雪城。小テストのときと比べて点数だいぶ上がってるぞ。あと、鈴鹿もよくできてる。何回も質問に答えた甲斐があったよ」
そんなことを笑いながら言うのだ。私と同じか、それ以上に労力がかかる採点をこなしているというのに。
奏多は本当にすごい。
彼は人の成長を受け入れ、我がことのように喜べる。それは教師として、きっと何よりも大切な才能だ。私だって、もちろん、生徒の成長は嬉しい。だけど、それは自分の気持ちに余裕があって初めて抱ける感情だ。採点に疲れ果てたり、問題児に振り回されたりしているときに、楽しそうに笑うことなんて私にはできない。
なぜ、私は教師になったのだろう。
その理由は、もちろん、自分では解っている。あまりに不純な動機だから、誰にも言えなかったのだけれど。
「ああ。やめやめ! 帰る!」
うだうだ考え込むのは悪い癖だ。
ともかく、今日はさっさと帰ろう。
酒、酒が飲みたい。もう、今のメンタルでは酒なしでは乗り越えられそうになかった。幸い、明日は日曜日。少しくらいなら深酒してもいいだろう。
私は答案を鞄に入れようとする。日曜日の間に家で採点しようかと思ったのだ。
答案を持ち帰ることはうちの学校では禁止されてはいない。しかし、「答案持ち帰り申請」をしなくてはならない。「申請」などというと大ごとに聞こえるが、実際には校長の机の上にある用紙に自分の名前と印鑑を押すだけだ。許可が下りないなんてことはない。ぶっちゃけ誰もチェックなんてしていないからだ。「ちゃんと答案は管理してあった」という証拠のためにおいてあるだけで、典型的な有名無実のシステムになっている。
わざわざ、用紙を書きに行くのも面倒だったが、書かずに無断に持ち帰ったことがばれても怖い。如月先生は怒らせると本当に怖いということは、学生時代に身をもって知っている。名前を書くくらいでそのリスクを回避できるなら安いものだろう。
私はふらふらとした足取りで校長の席に向かう。如月先生はまだ席に座っていた。
「うん? 千瀬先生。何か用かね?」
「……テストの答案の持ち帰り申請を」
「ああ、じゃあ、こちらに書いてくれたまえ」
私はサインしている間、先生は窓の外を眺めていた。外はもう真っ暗で何も見えない。
如月先生は、ほとんどずっと夜遅くまで学校に残っている。それだけ校長の仕事は多いのだろう。
私は用紙を書き終え、如月先生に渡す。
「確かに」
先生は私の渡した書類を確認して、頷いた。
私は一刻も早く帰りたかったので、挨拶もそこそこに自分の席に戻り、帰り支度をしようとする。
「千瀬先生」
そんな私を呼び止める先生。
「言うまでもないことだが、答案の管理だけはしっかり頼むよ」
「ああ、はい。気をつけます」
万が一、答案を紛失すると大事だ。なにせ成績がつけられなくなってしまう。「答案をなくしたからもう一回テストを受けてくれ」なんて生徒に言えるはずもないからだ。万が一、紛失が起こった場合、最悪、管理職である校長、教頭レベルが生徒と保護者に頭を下げて回らなくてはならないような事態になる。そうなったときを想像したら地獄だった。
そんなことを考えていると、私の机の上に置いてあったスマホが震えていた。誰かから電話がかかってきたのだ。
画面を見て名前を確認すると、
「あ……」
伏見芽衣。
大学時代の友人の名前だった。
彼女から電話がかかってきたということは――
「もしもし。飲みに行こうよ」
開口一番、これである。話が早くて助かる。
芽衣は私の飲み友達である。サークルで知り合って、馬が合い、卒業してからもちょくちょく飲みに行っている。こんな風に突然、呼ばれることも日常茶飯事だった。
ちょうど、酒を欲していたところだ。これに乗らない手はない。
「行く。ちょっと待ってて」
私は手早く身支度を済ませる。
「じゃあ、お疲れ。奏多」
「おう」
まだ採点を続ける様子の奏多に声をかけて、私は学校を出た。
「おせえぞ、歩美!」
指定された店に足を運ぶと、芽衣はもう一人で飲み始めていた。まあ、これくらいの方が気を使わなくていいので、まったく構わないのだが。
芽衣は見た目は和服の似合いそうな黒髪の美人で、普段は某有名企業の受付嬢をしている。だが、酔うと乱暴でがさつな喋り方になるので、初対面の人からすればギャップがすごいことになっている。私はもう慣れているが。
「さあ、酒を飲みながら、愚痴を言い合うぞ。私から『セクハラ親父』『パワハラじじい』『お局様』の三本立てだ」
愚痴の言い合いは望むところだ。
「私からは『テスト採点』『めんどくさい親』『いうことを聞かない生徒』かな」
これは長くなりそうだ。
「うう……飲んだな……」
結局、二人で二時間以上飲み、二件目まで足を運んだ。我ながら、女性としてはかなり飲む方だと思う。こないだ久しぶりに奏多と飲んだときも「そんなに飲んで大丈夫なのか」と心配された。私は酒はいくらでも飲んでしまうタイプなのだ。
芽衣に指定された店は学校の近くだった。保護者や生徒に見られてなきゃいいが……。
そんなことを考えながら、私は学校への道を戻る。私の家に帰るためにはバスに乗る必要があり、そのバス亭は学校近くにあるからだ。
「うう……さすがに飲み過ぎたかな……」
私は飲める方だが無尽蔵というわけではない。うわばみの芽衣に付き合うとついつい酒のペースが上がってしまう。今後はもう少し自制すべきだろう。
明日はまだ採点が残っているのだから。
「あと、何人だっけ……?」
残っている人数によってペース配分は考えなくてはならない。私は鞄の中のテストの答案を確認しようとしたのだが――
「ん……?」
鞄の中にはスマホや財布、化粧ポーチ、定期券、のど飴、ティッシュしか入っていない。テストの答案を入れてある書類入れがどこにもない。いや、暗くて見えないだけで入っているはず……。しかし、何度鞄をまさぐっても答案は出てこない。
「まさか……」
ここで私の頭に最悪の事態がよぎる。
「答案なくした……?」
私は我を忘れて夜道を駆けていた。
(忘れたとしたら、さっきの店だ!)
そこ以外にどこにも寄っていないのだから、答案があるとしたらそこ以外に考えられない。店に電話するなんていう発想は酔った頭には浮かばなかった。
私は先程の店にたどり着き、店員に尋ねる。
「今日は忘れ物は出てないですね」
念のため、自分たちが座っていた席も見せてもらったが、確かに封筒は見当たらなかった。それは二件目に行った店も同様だった。
「もう……なんでこんな……」
私は店から学校までの道を慎重に見渡しながら走る。あとは道で落とした可能性しか思いつかなかったからだ。しかし、舗装されたアスファルトの上には塵一つ落ちていなかった。
私は力尽き、がっくりと膝をつく。
「もうだめだ……」
答案の紛失というのは本当にまずい。始末書は確実、それ以上の処分が下る可能性だってある。あの如月先生に雷を落とされるだけでは済まないのだ。
「どうしよう……」
焦りと混乱の中、私の視界はぐるぐると回り始めた。
(あ、やばい……)
酒を飲んだ直後にこれだけ走り回ったのだ。倒れない方がおかしい。そんな考えが頭をよぎった直後に私は意識を失った。
昔もこんなことがあった気がする。
私が意識を失って、誰かがそれを介抱してくれて――
「求められているものに応えるのも大事だけど、まずは千瀬がどう生きたいかの方が大事じゃないか」
その誰かはそんなことを――
「……み」
誰かが呼ぶ声。
「歩美! しっかりしろ」
私を呼ぶ力強い声。この声の持ち主を私は良く知っている。
「かな……た……?」
「おい、歩美。しっかりしろ。救急車を呼んだ方がいいか?」
私は自分の状況を思い返す。
確か私は酒を飲んだ後に走り回ったせいで意識を……。
「うわあ! そうだ! 答案!」
こんなところで倒れている場合ではなかった。
早く答案を探さないと――
私ががたがたと震えていると、
「答案? 英語の答案か? おまえ、デスクの上に出しっぱなしだったぞ」
「……え?」
私は思わず奏多の顔をじっと見つめる。
「もしかして、持ち帰るつもりだったのか? てっきり、置いて帰ったのかと」
確かに、答案を鞄の中に入れた記憶がなかった。鞄に入れようとしたとき、先に持ち帰り申請をしようと、そこで手を止めたのだ。帰り支度をする直前に芽衣から電話がかかってきたせいで、机の上を確認することを忘れていた。
「あああああああああ!」
恥ずかしさと混乱で私は地面にもう一度突っ伏したのだった。
「じゃあ、気をつけて、今日は早く寝ろよ」
「う、うん。ありがとう」
結局、私はあの後、奏多が呼んだタクシーに乗せられ、自宅まで連れ帰られた。もう歩けると言ったのだけど、一瞬とはいえ、意識が飛んだのだ。無理はするなと言われてしまった。
今日はあまりにも恥ずかしいところを見せてしまった。再会してから、少しは成長したところを見せられたと思っていたのに。これでは、奏多に助けてもらってばかりだった昔と何も変わっていない。
ため息をつく、私に奏多はタクシーの窓から顔を出して言った。
「なんか懐かしかったよ」
「懐かしい……?」
「いや、こんなこと言ったら失礼かもしれないけど」
奏多は快活に笑って言った。
「なんか昔に戻ったみたいだった」
「あ……」
奏多も私と同じことを考えてくれていたんだ。
そんなことを考えると胸がじんわりと温かくなってしまう。
だけど――
「じゃあな、歩美」
「うん、じゃあね、奏多……」
そう言うと、奏多はタクシーを走らせ、帰って行った。
「あの頃とはもう違うんだよ……」
もう私と彼は恋人ではない。
そんなとっくの昔に納得したはずの事実が、私の首をゆっくりと絞めた。
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