第28話「あのときの想いをもう一度②」
俺はひよちゃんを探し、町を走り回っていた。
自宅には寄ってみたが誰もいなかった。制服はなくなっていたから、朝学校に出かけようとはしたのだろう。しかし、通学中に何らかの理由で学校に来れなかった。余計に事件に巻き込まれた可能性は上がってしまった。
(通報……)
一瞬、その考えが頭をよぎる。
(いや、まだ早い)
警察に話せば事態はより大ごとになる。その過程で俺たちの秘密が白日の下にさらされる可能性がある。俺自身はともかく、彼女が白眼視されるようなことがあってはならない。
この判断が間違っていませんように。
俺は天の神に祈った。
家でなければどこに居るのだろうか。
彼女の生活圏内はそれほど広くない。学校を除けば、近所のスーパーと図書館、後は――
俺は心当たりの場所へと走った。
俺がやってきたのは近所の公園だった。
家から学校への方向とは反対だったから、最近は訪れることはめっきりなくなっていた。しかし、彼女が子供の頃は俺はここで彼女とよく遊んであげていた。いわば、想い出の公園だった。
(ここであってくれ……)
俺は肩で息をしながら公園を見渡した。
公園の片隅のベンチに一人の人影。
「居た!」
それは間違いなくひよちゃんだった。
俺の声に彼女はびくりと身を震わせて、こちらを見た。
「あ……」
その瞬間、彼女の瞳は静かに光る。しかし、すぐに彼女は目元を拭い、乱暴にベンチから立ち上がり、俺に相対した。
彼女の表情は険しい。眉に力を込め、必死にこちらを睨んでいた。
それは正直に言って、予想外の表情だった。てっきり彼女は俺と顔を合わせれば、すぐに泣き出すだろうと思っていたから。
俺は呼吸を整えてから言う。
「……なんで学校に来なかった」
すると、彼女はぶっきらぼうな調子で言った。
「……行きたくなかったから」
「な……」
俺は思わず絶句した。
「学校なんて行きたくなかったから」
彼女はもう一度、今度ははっきりと言い切った。
「なんで……」
俺の声は震える。
「楽しくないから」
それとは対照的にひよちゃんはきっぱりと言い切った。
「楽しく……ない?」
俺は彼女の言葉を繰り返す。そして、叫ぶ。
「こないだ、学校に行けて嬉しいって言ってただろ!」
「もう、嬉しくなくなったの!」
俺の叫びをかき消すような大声。それは彼女の必死の大声。俺が聞いたこともない彼女の咆哮だった。
「なんでだよ……」
俺は拳を握りしめる。そうしなければ、自分を抑えられそうになかった。
「なんで、楽しくなくなったなんて――」
「解んないの?」
俺はようやくそこで彼女がいつもの敬語をやめていることに気が付いた。
「——本当にひよの気持ちの解んないの?」
彼女はさっきまでの熱が立ち消えたように突如として無表情になる。
「なんで、ひよが学校が楽しいって思ったか解らないの?」
それはまるで幼い時の彼女に戻ってしまったようで――
「『かなたお兄ちゃん』——」
遠い昔の幼い彼女が、俺の目の前に立っていた。
「学校いきたくない……」
幼いひよちゃんは自分の部屋の片隅で膝を抱えて、そう呟いた。
「なんで?」
俺は努めて優しい口調で彼女に尋ねた。
「たのしくないから……」
彼女はうつろな瞳でそう答えた。
「ともだちもいないし、べんきょうもわからないし……」
「………………」
彼女は幼稚園にも保育園にも通っていなかったから、同年代の子供とのコミュニケーションの取り方がよく解らなかったのだと思う。当然、勉強についても人より遅れてしまっていた。
彼女は俺の方を見て、力ない声で呟いた。
「かなたお兄ちゃんとおなじ学校にいけたらよかったのに」
彼女と俺の年齢差は八歳。どうあがいても同じ学校に通える年齢差ではない。
「そうだな……」
俺は彼女の髪を優しく撫でる。
そのとき、俺にある考えが浮かんだ。
「じゃあ、俺は先生になろうかな」
ひよちゃんはそっと顔を上げて、こちらを見た。
「先生?」
「学校の先生だよ」
もともと、教師になろうという漠然とした思いはあった。俺の死んだ父親は教師だった。その影響を受けて教師を志してはいたのだが、それは、将来の進路として教師も悪くないかな、という程度の考えでしかなかった。
「学校の先生になれたら、もしかしたら、同じ学校に通えるかも」
それはもちろん簡単なことではない。俺が首尾よく教師になれたとしても彼女が通う学校で勤務できるかどうかなんて解らないからだ。
だから、俺はあくまで単なる思い付きとして、そう言ってみたに過ぎなかった。
だが、俺のそんな言葉は彼女に予想外の変化をもたらした。
ずっと曇っていた彼女の表情にすっと光が差した。
「お兄ちゃんとおなじ学校にいきたい」
ひよちゃんは俺の目をじっと見つめる。
「そしたら、おうちにお兄ちゃんがいて、学校にもお兄ちゃんがいるから」
俺は彼女から目を逸らせなくなった。
「そしたら、そしたら、お兄ちゃんがたくさんで、ひよも学校がたのしくなるかも」
そう言って、ひよちゃんは嬉しそうに微笑んだのだった。
教師になろう。
漠然とした想いが一つの像を結んだ。俺の将来はこの瞬間に決まった。
高校に入り、俺は猛勉強した。うちの経済状況では大学に通うためには奨学金が必須だった。そのためには、他の人間よりも良い成績を残さなくてはならない。俺は努力を続けた。
そして、俺はとある大学の教育学部の奨学生の枠を勝ち取った。しかし、そこはこの故郷の地を遠く離れた東京の大学だった。
母は「行きなさい」と言ってくれた。奨学金と向こうでアルバイトをすれば、暮らしていけないことはない。俺は迷った。しかし、教師になるという夢を叶えるためには、選択は一つしかなかった。
「奏多さん、東京に行っちゃうんですか……」
いつしか俺を「奏多さん」と呼び、敬語を使うようになっていたひよちゃん。彼女は九歳になっていた。
彼女は俺が東京へ行くと告げるとわんわん泣いた。このころはまだ学校に友達が居なかったようで、家に帰るとずっと俺にべったりだったから、きっと寂しかったのだろう。
しかし、それなりに分別のつく年頃になっていたためか、最後は納得してくれた。
「行ってらっしゃい、奏多さん」
東京への出発の日、彼女は泣きはらした目で俺を見送った。
東京へ行ってから故郷へ帰ることはほとんどなかった。それは単純に旅費がもったいないと思ったからだ。このころはまだ歩美と付き合っていたのだが、そういった経済事情もあって、彼女とも疎遠になりつつあった頃だった。
東京に行っておよそ一年が経ったある日、俺は久しぶりに故郷の土を踏んだ。特別用事があったわけではなかったが、一年に一度くらいは帰って来いという母の言葉を尊重した結果だった。
俺は家に帰りつく途中、何気なく公園の方に目をやった。
はたして、そこにひよちゃんは居た。最後に見た一年前よりも一回り大きくなっていた。このころの少女の成長は早い。たった一年見なかっただけで彼女は見違えるように美しく、かわいらしくなっていた。
俺は思わず、彼女に声をかけようとする。
「え?」
だが、俺が動きを止めたのは、彼女の側に居た、ある人影を見たからであった。
「ひよ、いくわよ」
それはひよちゃんとは別の少女だった。そんな少女がひよちゃんに向かってボールを投げている。ひよちゃんはおっかなびっくり、それをキャッチしていた。
「その調子よ」
それはドッチボールか何かの特訓だったのだろう。大方、体育の練習か何かだ。俺はそうあたりをつけた。それは何もおかしなことでも何もない。
俺が彼女への声かけを思わずやめてしまった理由。
それは単純だ。
彼女が楽しそうに笑っていたから。
「はわわ、とれません」
「ほら、もう一度」
「はわわわ」
彼女はおたおたとしながらも本当に楽しそうだった。それは彼女の笑顔を見れば、よく解った。
彼女が俺以外にあんな笑顔を見せるなんて。
年甲斐もない嫉妬が一瞬顔を出した。
俺はそんな妄念を振り切る。
そんなことよりも――
あの子があんなにも楽しそうに笑っている。
それは本当に喜ぶべきことだった。
ひよちゃんとあの少女は「友達」なのだ。
『ともだちもいないし、べんきょうもわからないし……』
そう言ってべそをかいていた少女はもう居なかった。
彼女は友達を得ていたのだ。
今にして思えば、あの少女は乾琴子だったのだろう。だが、当時の俺は当然、そんなことは知らない。
俺は結局、彼女に声をかけることなく、公園を後にした。
そして、ひよちゃんに会うこともなく、東京へと帰って行った。
その選択をした理由は簡単だ。
――あの子に俺はもう必要ない。
あの子は友達を得た。楽しそうに笑っていた。もし、俺と再会し、甘えてしまえば、また俺に依存してしまうかもしれない。
彼女はもう一人立ちさせるべきなのだ。
俺は寂しい気持ちを押し殺して、彼女から距離を取った。
そして、俺は大学を卒業し、東京で就職した。そこでの日々は大変で辛いことも多かったが、学ぶことも多い時間だった。仕事に忙殺される中で、俺がひよちゃんのことを思い出す機会は減っていった。
そして、俺は故郷に赴任するように打診を受けた。
そのときに最初に浮かんだのは、ひよちゃんの顔。ちょうど、彼女は高校生になっている年頃。
『お兄ちゃんとおなじ学校にいきたい』
そう呟いた彼女の顔が脳裏をよぎった。
俺はその打診を受けることにした。
そして、あの桜の舞い散るあの日、俺は彼女と再会したのだった。
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