第27話「あのときの想いをもう一度①」
【sideひよ】
学校をさぼってしまった。
制服を着て、家を出たまではよかったが、通学路の途中で足は止まってしまった。まるで足かせでもついているみたいに足が重い。気が付くと朝のホームルームには間に合わないような時間になっていた。途方に暮れた私は、いつの間にか、学校とは逆の方向に歩き出していた。
目的地があるわけではなかった。ただ、学校から遠くに離れたい。それだけの想いで私は足を動かし続けた。
時間が経てば経つほど、学校をさぼってしまったという事実が私の罪悪感を刺激した。学校をずる休みしたことなんて、本当に小さいとき以来だ。
幼い私は学校が嫌いだった。母に適当な仮病を使って、よく学校をさぼっていた。母はあの通りの人だったから、私はさぼり癖をたしなめられることはなかった。
しかし、なぜ、私はずる休みをしなくなったのか。
それは――
「『かなたお兄ちゃん……』」
幼いころに、意図的にやめた呼び方が、ぽろりと口の端から落ちた。
そして、それを呼び水に、私が幼い頃の記憶がゆっくりと湧き上がってきた。
幼い頃の私はおままごとが好きだった。
母以外に家族が居ない私もおままごとの間だけは他の家族を持てる。一人ぼっちじゃなくなるから。
だけど、それはきっと毒だったのだと思う。
「家族」というものの味を知ってしまった私は、それが本当に欲しくなってしまった。いっそ、知らなければそんな感情は芽生えなかったはずなのに。
街中で、駅前で、学校で。家族と共に歩く誰かを見るたびに、私は「家族」が欲しいという思いを募らせていった。
私は小学校に入学してからもおままごとをやめなかった。幼稚園に通ったことのない私は、他の遊び方は知らなかったから。
そんなある日のことだった。
私はいつものように奏多さんの家に預けられていた。奏多さんは私の「おままごとがしたい」という言葉に嫌な顔一つせず、頷いた。
「かなたお兄ちゃんはお父さん、ひよはお母さんね」
たどたどしい言葉で私がそう言うと、奏多さんは笑って頷いた。
「よし、いいぞ」
そうして、私たちのおままごとは始まる。母親が気まぐれに買ってくれたおままごとセットのにんじんを、おもちゃの包丁で切る。
「とんとんとんとん」
「上手だな」
「ほんと?」
「ああ、本当に食べたいよ」
「このあと、ほんとにたべるんだよ」
「はは、そうだな」
私はにんじんを刻み続ける。
「とんとんとんとん」
それからだいこんも。
「とんとんとんとん……」
あとはトマトも。
「………………」
「ひよちゃん?」
私はいつしか包丁を操る手を止めていた。
代わりに私の目からつっと一筋の涙がこぼれた。
「どうした? 何かあったのか? 痛いところでもあるのか?」
奏多さんは慌てて、私の肩を抱いた。奏多さんの大きな掌からじんわりと温もりが伝わってくる。
私はゆっくりとかぶりを振った。
「ちがう……ちがうの……」
私は目元を拭いながら呟く。
「どうして、ひよのおうちにはいつも誰もいないの……?」
「………………」
「みんなのおうちにはお母さんがいて、お父さんがいて、きょうだいがいるんでしょ……? なんで、ひよのおうちだけいつもだれもいないの……?」
がらんどうの冷たい部屋。そこは私にとっての日常で、私を苦しめる空虚。
「なんでひよには『家族』がいないの……?」
そうやって泣いている私を奏多さんはそっと抱き寄せた。
「おにいちゃん?」
奏多さんのぬくもりが私を包んだ。その熱に溶けてしまえたら、それは一体どれだけ幸せなことだろうか。
「だったら、家族を作ればいいよ」
「家族を……つくる?」
私はきょとんとする。家族というのは作れるものだったのだろうか? 幼い私は首を傾げた。
「確かに自分で新しいお父さんやお母さんを作るのは難しい。だけど、自分で作れる家族もあるんだ」
「なに……?」
奏多さんは優しく微笑んで言った。
「結婚相手……ひよちゃんにとってはお婿さんかな?」
「おむこさん……?」
「えっと、つまり、今、俺たちがやっているおままごとで言うと、『お父さん』と『お母さん』だ。そういう関係を夫婦って言うんだ。夫婦は生まれつき決まっているわけじゃなくて、好きな人同士が一緒になったときに夫婦になるんだ」
「好きな人どうし……?」
幼い私はその言葉を単純に捉えた。
「じゃあ、ひよとかなたお兄ちゃん?」
「え?」
「好きな人どうし」
私は幼さに任せた気安さで言った。
「ひよはおにいちゃんが好き。おにいちゃんはひよが好き?」
奏多さんは声を上げて笑う。
「そうだな。俺はひよちゃんが好きだよ」
「じゃあ、ひよ、おにいちゃんと結婚する。家族になる」
「ははは、そう来たか」
奏多さんは少し困ったように苦笑いする。
「えっとね、ひよちゃん」
奏多さんは幼い子供の言い聞かせるために必死に言葉を選んでいるようだった。
「確かに俺はひよちゃんが好きだし、ひよちゃんは俺が好きだ」
「うん、だから、ふうふ」
「でも、夫婦になるためにはもう一個条件があるんだ」
奏多さんは幼い私の目をまっすぐに覗き込む。
「それは女の子の方、つまり、ひよちゃんが十六歳になっていること」
「じゅうろくさい……?」
私はそれを指で数えてみる。
「あれ……?」
指の数は足りなかった。これでは一体どれくらい待たないといけないのか解らない。
「えっと……ともかく、大人にならないと結婚はできないんだよ」
「おとな……」
そうか、おにいちゃんと家族になるためには大人になればいいのか。
――早く大人になろう。
私がそう考え始めた瞬間だった。
「じゃあ、ひよが大人になったら、けっこんしてくれる?」
私は幼いなりの真剣さでそう尋ねた。
「そうだな。もし、ひよちゃんが大人になって――」
記憶の中の奏多さんがこのときどんな顔をしていたのか――
「それでも、俺のことが好きだったら、結婚しよっか」
不思議なことに私はまったく覚えていないのだった。
それから、私は大人になろうと頑張ることにした。
大人になるためには、大人っぽい喋り方をしなくてはならない。そう考えて、敬語でしゃべるようにした。
兄妹は結婚できないと知った私は「かなたお兄ちゃん」と呼ぶことをやめた。
大人の人は、周りを困らせたりしない。私は学校をずる休みすることはなくなった。
でも、そんなことをしても早く大人になれるわけでも、結婚できるわけでもないという当たり前のことに気が付くのは、随分、後になってからだった。
「奏多さん……」
鞄に入れっぱなしだったスマホは何度も着信が鳴っていた。だけど、私はそれを取ることができなかった。
「困らせちゃってるな……」
私はぎゅっとスマホを握りしめる。
「お嫁さん……失格だなぁ……」
ぽろり、と。
また一筋、涙が落ちた。
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