第26話「疾走②」
「静井は居ないのか……?」
翌日の朝のホームルーム。教室で彼女の席を見るが、そこには誰も座っていなかった。俺は乾の方に視線をやる。彼女はすぐに察して言った。
「朝から教室で一度も見ていません」
乾の表情に力がこもる。念のため、他の生徒には確認したが返事は同様だった。
うちの学校では欠席者は学校に電話連絡することになっている。その連絡は事務室が受け取り、メモ書きで各担任へと通達される。その連絡系統のどこかで不備があって、連絡が滞っている可能性もあるが――
「………………」
昨日の放課後に見た彼女の憔悴しきった顔が脳裏をよぎった。
俺は最悪の事態を考えないわけにはいかなかった。
だが、ここで俺が騒ぎ立て、生徒に不審がられるわけにはいかない。「もしかしたら、事務室から連絡が回ってないのかもな」などと楽観論を披露して、事態を収拾させて、俺はホームルームを終える。
しかし、当然と言うべきか、そんな俺のごまかしは乾には通用しなかった。彼女は教室を出た俺を追いかけて廊下までやってくる。
「先生、ひよは――」
「探す」
俺は彼女に向かって、そう言い切った。
「あの子に何かあったのかもしれない」
「私も――」
「駄目だ」
彼女の言葉は予測できていた。
「気持ちは解るが、君は今から授業があるだろ」
「でも、ひよが居なくなったのは私のせいなのに……」
乾はそう言って肩を落とす。そんな彼女に向かって俺は言う。
「乾のせいじゃない」
そう、これは乾の責任ではない。
俺の責任だ。
彼女の『担任』であり、『幼馴染』であり、そして――『夫』である俺の。
「必ず連れ戻す。俺を信じろ」
乾は俺の顔をじっと見つめ、押し黙っていたが、やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「ひよをよろしくお願いします……」
俺は職員室に戻り、事務室にひよちゃんから欠席連絡がなかったかを確認する。
結果は空振り。やはり、彼女からの連絡はない。バスの遅延を考えたが、同じ路線を使っている生徒によれば遅れなどは発生していないらしい。
残った可能性は彼女が何らかの事件に巻き込まれたか、彼女が自分の意志で蒸発したかのどちらかだ。
俺はまず彼女に渡したスマホに電話をかける。彼女がいかにスマホに疎いとはいえ、電話の取り方くらいはわかるはずだ。俺は祈るような気持ちで電話のコール音を聞く。
だが、俺の願いもむなしく電話がつながることはなかった。
次の手を考えなくてはならない。
次にやるべきは彼女の居る家を訪れること。彼女が寝坊をしていて、家で寝ているという可能性もゼロではないからだ。だが、それを確認するためには俺が一度学校を抜ける必要がある。
俺は時計に目をやる。
まもなく、一時間目の授業が始まろうとしている。一時間目には授業が当たっている。今から家に戻っていては、確実に授業に穴を空けることになる。
俺はどうするべきなのだろう。
教師としての自分が言う。
『授業に穴を空けることなんてできない』
今から誰かに授業を代わってもらうなんてできるわけがないし、何より生徒に対して迷惑がかかる。ここでの大人の対応は『まず授業を行い、空き時間に彼女の連絡先に電話を入れ続けること』だろう。それで連絡が取れれば、話は終わりだし、うまくつながらなかったとしても、着信履歴に『連絡を取ろうとしていた』という形跡は残る。それは、生徒を気にかけていなかったわけではないという証拠になる。
だが、今はそんなマニュアルじみた対応はどうでもよかった。
俺の中の誰かが叫ぶ。
『走れ』
その誰かは、『教師』としての自分ではない。
『走り出せ』
それはひよちゃんの『幼馴染』の自分でもない。
『いいから走れ』
そして、彼女の『夫』としての自分ですらなかった。
『行け!』
ただの一人の人間の『建屋奏多』として、彼女を探して走り出したかった。
立場とか役割とか、そんなものはどうでもいい。
ただ、あの子が心配だから。それ以外の一体どんな理由が必要だろうか。
俺は強く握りこぶしを作る。
そして、覚悟を決めた。
俺は職員朝礼後、職員室に残っていた校長——如月先生の元へ向かった。
「すいません、一時間目の授業を抜けさせてください」
「ふむ……」
俺の突然の申し出にも如月先生はどうじることもない。
俺は事情を説明する。
「なるほど、生徒が連絡なしで登校していない、と……」
先生は髭を撫でつけながら、俺の話を聞いている。
「マニュアルと違うことは承知です。しかし、私にはこの一件が緊急のものに思えて仕方がない」
ひよちゃんは今、きっと一人で泣いている。そんな姿が見て取れた。
「お願いです、先生……!」
俺は全身に力を込め、先生の返事を待った。
すると、先生は厳粛な表情をして言った。
「マニュアルは大切だ」
先生の低い声に、俺は一瞬ひるみそうになるが、負けじと先生を睨み返す。先生は表情一つ変えることなく言った。
「だが、真の教育にマニュアルなど存在しないのも事実」
先生は自分の席からゆっくりと立ち上がりながら言った。
「行きなさい。その生徒の担任としての――一人の人間としての責任を果たして来なさい」
そして、俺の肩をぽんと叩いた。
「私は君の判断を信じよう」
俺は一瞬ぶるりと身を震わせた。
やはり、この人はすごい先生だ。
「後のことは処理しておく。行ってきなさい」
「ありがとうございます!」
俺は職員室を飛び出した。
「静井さんを探しに行くの?」
廊下に立っていたのは歩美だった。
「なんで知って――」
「さっき、乾さんと廊下で話しているのが聞こえたから」
彼女は隣のクラスの受け持ちだ。自分のクラスのホームルームを終え、廊下に出ようとしていたところだったのだろう。そこで俺たちの会話を聞いてしまった。
「授業を抜けるほどの緊急事態なの?」
「……そうだ」
正直なことを言えば、本当にこの判断が正解なのか迷ってはいた。これほど、大騒ぎして実はただひよちゃんが寝坊しているだけ、という可能性も残っているのだ。だが、今はそんな問答をしている時間も惜しかった。
すると、歩美は小さくため息をついて言った。
「あの子、確か奏多の幼馴染なんだよね」
「ああ」
「そっか……」
なぜか歩美は憂いを秘めた表情でもう一度ため息を吐いた。
「行って。一時間目、空いてるから私、自習監督に入る」
「いいのか?」
「奏多が今行かなきゃいけないって判断したんでしょ」
歩美は優しく微笑んで言った。
「言ったじゃん、困ったことがあったら助けるって」
「歩美……すまん」
「今度奢りだぞ」
「任せろ」
俺はそう言って、彼女の横をすり抜けて、飛び出して言った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「はあ、叶わないな、まったく」
歩美の小さなぼやきは誰にも聞こえず、宙へと消えた。
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