第25話「疾走①」
【sideひよ】
捨てられてしまった……。
あの後、奏多さんは呆けて動けなくなった私をそっと抱き上げ、私の手を引いて歩いた。そんなときでも、私は奏多さんの大きくて暖かな手に触れて、心臓がばくばくしていた。けれど、その温もりはこれが最後。そう思うと、余計にその温もりが愛おしくて、辛かった。
奏多さんは私を家に送り届けると、言った。
「荷物はまた取りに来る。何か困ったことがあったら、すぐにそのスマホを使って連絡するんだ」
そんなことを奏多さんは玄関先で靴を履いたまま言った。そして、その靴を脱ぐこともなく、私に背中を向けた。
「がんばれよ、『静井』」
学校で声をかけるときのように私の昔の苗字を呼んで。
「私、もう『静井』じゃないよ……」
私はあなたの『お嫁さん』なのに……。
振り返るとそこには奏多さんと過ごした部屋がある。だけど、そこにはもう誰も居ない。狭いはずの部屋が、とても広く、広く、見えた。
「まただ……」
私は力なく、壁にへたりこむ。
「また、ひとりぼっちになっちゃった……」
大粒の涙が一筋、私の頬を伝って、誰も居ないリビングの床を濡らした。
月曜日の放課後、俺は再び乾琴子を呼び出し、事の次第を説明する。
「前に約束したとおりにした」
乾と交わした約束とは、「静井ひよとの同棲を解消すること」。事情を鑑み、一週間の猶予をもらい、俺は新しい部屋を探し、契約した。
すぐに入れる部屋を探すのは骨が折れた。四月の終わりと言えば新生活が始まったばかりの頃でそんな中途半端な時期に引っ越しを行う人間は少ない。不動産屋はすいていたが適当な部屋を見つけるのは苦労した。
俺の説明を聞いても憮然とした表情で押し黙っている乾を見て、俺は言う。
「信用できないなら、俺の家に行ってみたらいい。まだ家具は残っているが、必要なものは折を見て運び出す」
俺は乾が俺の言葉を疑っているのかと思い、そう言った。
だが、乾は俺の言葉にゆっくりと大きく首を振った。
「いいえ、疑っているわけではないです」
乾は神妙な顔をして言った。
「ひよの顔を見たら、先生が約束を守ったことくらい解ります」
「ああ……」
今朝、教室で顔を合わせたひよちゃんの表情はひどかった。ずっと泣いていたのがはっきりと解るくらいに彼女の目は腫れていた。一晩中眠れなかったのか目の下の隈もはっきりと見て取れた。
俺が教室に入った瞬間、
「あ……」
何か言いたげに俺の方を見たが、結局、彼女は何も言わなかった。
「先生……」
乾はぽつりと呟く。
「私は……私は……」
彼女は何かを言いたげに言葉を繰っていたが、結局、彼女の想いが言葉になることはなかった。
その日の夜、俺は新居の部屋に居た。
新居は元居たアパートから大体一駅分程度離れている。もう少し近くの物件がよかったが、適当なものがなかったのだ。新居にはとりあえず寝袋と必要最低限の生活物資だけは運び込んであるので、何とか暮らしていくことはできた。
「広い部屋だな……」
大きさ自体は元の部屋とそう変わりはない。一人で暮らすにはそれなりで、二人で暮らすには狭い。その程度の大きさの部屋だ。だが、家具も何も運び込んでいない部屋は実際以上に広く感じられる。そして、何より――
「一人で暮らすってこんな感覚だっけ……」
誰も居ない部屋というのは広く、寂しかった。
あの子は大丈夫だろうか。
俺は自分のスマホを鞄から取り出すと事前に登録しておいたひよちゃんのスマホにメッセージを送る。
『大丈夫か? 問題はないか?』
しばらく俺はじっと画面を見つめるが、既読はつかない。単純にスマホを見ていないのかもしれないし、もしかしたら、操作方法が解っていないのかもしれない。よく考えれば彼女はスマホを持つのは初めてなのだ。もう少し、きちんとレクチャーしてやるべきだったかもしれない。
「明日、学校で会えたときでいいか……」
俺はそんな風に結論付けた。
しかし、その翌日、俺のそんな判断は間違いだったと思い知らされることになる。
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