第24話「最後の安息③」

「こ、ここで晩御飯を食べるんですか?」


 ひよちゃんは声を詰まらせながら言った。


「ああ、もう予約もしてある」


 俺たちが訪れたのは、とある超高層ビルにある高級フランス料理店だった。


「こんな高い店、入ったことないです」

「正直、俺もない」

「ないんですか!」


 ひよちゃんはすっとんきょうな声を上げる。

 俺も私立学校の教員として、人並み以上に給料はもらっているが、元来の貧乏性もあって、贅沢というものはしてこなかった。だから、こういう高級レストランに足を運ぶのは初めてなのだ。


「ほら、いくぞ」


 正直、多少の緊張はある。だが、ここで俺が臆する訳にはいかない。この店を選んだのは俺なのだから。

 俺たちは豪奢な出で立ちの店の中に足を踏み入れる。


「予約をした建屋ですが」

「建屋様ですね。お待ちしておりました」


 澄ました顔をしたボーイが慇懃に頭を下げ、俺たちを席へと案内した。


「うわあ、すごい夜景です!」


 ひよちゃんは席の側の窓を見下ろして感嘆の声を上げた。

 数年前、このビルは当時、日本で一番高いビルという触れ込みでできた。故にこのビルからは大阪の夜景が一望できるのだ。


「どうぞ」


 俺たちをここに案内したボーイがひよちゃんの側の席をそっと引き、彼女に着席するように促す。


「あ、す、すいません!」


 彼女は反射的に謝ってしまっている。そして、慌てて席につき、小さく縮こまった。そんな彼女を見ていると、俺のちょっとした緊張感など、どこかにふっとんでしまった。

 ボーイが去ってから俺は苦笑して言う。


「そんなに緊張しなくてもいいよ」

「は、はい。わかってはいるんですが……」

「もうコースは頼んであるから、後は飲み物だけど、適当に頼んでいいか?」

「はい、お任せします……」


 きっと彼女に選ばせたら一番安いものにするだろうから、彼女には適当に良さげなジュースを選んだ。俺も彼女に合わせて、今日は酒はやめておくことにする。

 注文を済ませると、コース料理が順番にやってきた。




「すごい綺麗……」


「おいしい! いったい、これは何でできているんでしょう?」


「こんなにおいしいスープは生まれて初めてです!」


「お肉が口の中で溶けます!」


 彼女は目を輝かせて喜んでいた。料理は趣味なようだったし、おいしいものを食べるのも好きなのだろう。喜んでもらえたなら幸いだ。




 一通り食事を終え、デザートを食べていたときのことだった。


「あの、今更なんですけど」


 ひよちゃんは申し訳なさそうな顔で言った。


「なんで、今日はこんな豪華な食事に連れてきてくれたんですか?」

「そうだな……」


 一通り、食事も終わり、はからずも説明するには良いタイミングだろう。

 俺はあらかじめ用意していたものを鞄から取り出す。


「開けてみな」


 こういうのは一応雰囲気が大事かと思い、不器用な俺なりにラッピングしてみた。まあ、包み紙やリボンは百均で買ったんだが。


「これって……」


 ひよちゃんは渡されたものと俺の顔を交互に見る。俺は視線で箱を開けるように促した。彼女は丁寧に包装を解く。そして、中に入っていた箱を見て呟く。


「これって、スマホ?」

「ああ、ひよちゃん用のだ。持ってなかっただろ」

「そうですけど、こんな高価なもの……」

「これはな、俺からの誕生日プレゼントだ」

「え?」


 目を見開く彼女に向かって言う。


「誕生日おめでとう、ひよちゃん」


 俺は心からの祝いの言葉を述べた。


「よく考えたら再会してから、俺は君の誕生日を祝ってもいなかった。だから、少し遅れてしまったが、今日したことは全部、君への誕生日プレゼントだったつもりだ」


 ひよちゃんは呆けた顔でこちらを見ている。


「で、でも、それでもこんなに、こんなにたくさん……」

「なら、一緒に居られなかった六年分だと思ってくれ」

「奏多さん……」


 彼女は目を潤ませ、鼻をすすった。彼女は涙もろい。こんな些細なことで涙してしまう。

 そして、今から言う言葉で俺は彼女をきっと泣かせてしまう。


「それにスマホはこれから必ず必要になる」

「どういう意味ですか……?」


 俺が彼女へのプレゼントにスマホを渡した理由。


「俺があの家を出て行った後の連絡手段にするためだ」

「………………」


 ひよちゃんは俺の言葉の意味が理解できないというようにゆっくりと首を振る。


「どういう……意味ですか……」


 震える声で、彼女は尋ねた。


「そのままの意味だ」


 俺はあらかじめ決めていた言葉を意を決して口に出した。


「俺はあの家から出て行く。もう、君と一緒には住まない」

「意味がわからないです」


 以外にもひよちゃんは泣かなかった。むしろ、驚きのために涙は引っ込んでしまったのだろうか。彼女は能面のように固い表情で呟く。


「何かの冗談……なんですよね?」


 彼女はそう言って、口の端を歪める。


「お、面白くないですよ、そんな冗談。奏多さん、それは面白くないです」


 そうやって、無理矢理にでも笑い飛ばせば、俺が「冗談だ」と言ってくれると信じているのだろうか。彼女は無理矢理に笑顔を作った。


「そ、そんなことよりも別の話をしましょうよ。えっと、このデザートとか――」

「俺はもうあの家には戻らない」


 俺は彼女の最後に残った小さな希望を踏みにじった。

 それで彼女はこの話をごまかすことを諦めた。彼女は真っ直ぐに俺を見て尋ねた。


「どういうことなんですか? なんで、奏多さんが家を出て行くなんてことになるんですか?」

「今の俺たちの関係は許されるものではない」


 俺は言う。


「俺たちは『教師』と『生徒』。それが同じ屋根の下で暮らしてるなんてあってはならないんだ」

「それは、そうかもしれないですけど」


 ひよちゃんは震えそうになる声を抑えつけながら言う。


「それ以前に私たちは、その……『夫婦』です。『夫婦』なら一緒の家に居るのは普通のことです」

「あんな婚姻届は無効だ。何度もそう言っているだろう」


 俺は彼女の言葉を断ち切るように言う。


「君はあんな馬鹿げた婚姻届に縛られる必要なんて――」

「馬鹿げてなんてないです!」


 ひよちゃんは叫んだ。それは、もしかしたら、俺も初めて聞いたかもしれない位、強い彼女の怒りの声だった。


「馬鹿げてなんか……ないです……」


 ひよちゃんは息を荒げながら、呟いた。


「私は本当に嬉しかった……嬉しかったの……なのに――」

「——もう終わりにしよう」


 俺はこれ以上、彼女の言葉を聞くわけにはいかなかった。そうすれば、俺は彼女に――


「さよなら、ひよちゃん」


 俺はそうして、俺は彼女に別れを告げた。

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