第20話「古き都にて③」
「今日は本当に楽しかったです」
家に帰りついた後、ひよちゃんはそう言って、満面の笑みを見せた。
「あんなに長い距離を本当に歩けるのかと思いましたけど、案外いけるものですね」
「まあ、二見の生徒は毎年、歩いているわけだからな」
もちろん、体調不良者も少しは出たが、ほぼ全員が歩ききることに成功していた。
「明日は筋肉痛になりそうですけど」
彼女はそう言って、顔をしかめながら自分のふくらはぎをさすっている。
「ははは、若いのに何を言っている」
俺は笑う。
「俺くらいになると、筋肉痛は明日じゃなくて明後日に来る」
「うわあ……」
事実、下見のときはそうだった。ひよちゃんは憐れむような眼でこちらを見ていた。
「でも――」
そこで彼女は改めて姿勢を正し、座りなおした。
「改めてありがとうございました」
そう言いながら、彼女は深々と頭を下げた。
「うん? 何の話だ?」
「学校に通わせてもらっていることです」
彼女は真面目な表情で話を続ける。
「色んなことがあってバタバタしてちゃんとお礼を言っていないことに、今、気が付きました。私が普通の子供みたいに学校に通えているのは奏多さんのおかげです。もし、奏多さんが居なかったら、私はきっと今頃、学校に通えてなんかいないはずです」
それは確かにある意味で事実だ。
特待生である彼女は基本的に学費を免除されている。だが、それ以外の生活費は、当然自分で工面しなければならなかった。その金を出しているのは俺なのだ。
「それに私、子どもの頃に言いましたよね。『奏多さんと同じ学校に通いたい』って」
彼女の言葉に俺はぴくりと身を震わせた。
『かなたお兄ちゃんと同じ学校に通えたらよかったのに……』
幼い頃のひよちゃんの切なげな顔が脳裏をかすめた。
「先生と生徒って関係ですけど、初めて一緒の学校に通えました。それが、とってもとっても嬉しいんです」
ひよちゃんの表情は、あのときとは対照的に晴れ晴れとしている。
「今日が楽しくて、学校に通えてよかったと改めて思ったんです……だから、本当に奏多さんには感謝しています……」
「ひよちゃん……」
彼女から「学校に通えて嬉しい」という言葉が出たことに俺は驚いていた。こんな風に肩の力を抜いて笑う彼女を見ていると俺の中に熱い何かが込み上げてくる。彼女がそう言ってくれることが俺にとってどれだけ嬉しいことなのか、きっと他人には解らないだろう。
俺は思わず、目頭を押さえた。なぜか感情の高ぶりが抑えられなかった。年を取ると涙もろくなるというのは、本当のようだった。
「わ、奏多さん、なんで泣いて」
「——ああ、気にしないでくれ、目にゴミが入っただけだ」
下手な言い訳をする俺にひよちゃんは言う。
「目にゴミですか? 見せてください。取れそうなら取ります」
彼女は本当に目にゴミが入ったのだと思ったようで、俺の方に身を乗り出してくる。油断していた俺は彼女のされるがままになってしまう。
ひよちゃんは俺の目を覗き込むように近づいてくる。彼女の手が自然と俺の肩に置かれる。目の中を覗き込むことに必死になっているのだろう。彼女は無造作に俺の方に身を委ねてくる。そうすると、彼女の豊かな胸が重力に従い、俺の方へと――
「いや、ひよちゃん、大丈夫だ! 自分で鏡で見るから」
「もうちょっとで、見えそうな――」
俺は彼女から引き下がろうとし、彼女は俺に向かって身を乗り出そうとした結果――
「きゃっ!」
ひよちゃんはバランスを崩し、俺の上に覆いかぶさることになった。
「うお!」
瞬間、彼女の柔らかい身体が俺にのしかかる。軽い身体だ。ほとんど重さは感じなかった。ただ、その細身に反して大きい彼女の胸が俺の胸部に重なった。俺の心臓はどくりと音を立てる。
「あ……」
そうなってようやく彼女も自分のしていることに気が付いたようだった。
ひよちゃんは俺の身体の上にしなだれかかる形になっている。
どいてくれ、そう言おうとした俺だったが、
「……う」
ひよちゃんの表情を見て、俺の言葉は止まる。
熱に浮かされたような瞳。上気した頬。なまめかしい吐息。それらの一つ一つが俺から、一瞬、ほんの一瞬、判断力を奪ってしまった。
――そして、結果的にそれが命取りになった。
カシャリ。
俺の耳に何か幽かな音が届く。
——それはカメラのシャッター音。
「誰だ!」
俺は音のした方を一喝する。その音は玄関の隣にある小窓の方から聞こえた。俺がそちらの方を見たときには、もう何者の姿もなかった。
(今のはつまり――)
――俺とひよちゃんが一緒に居るところを撮られた。
そういうことだ。しかも、間の悪いことに見ようによっては抱き合っているようにも見えるような場面だ。写真の写り方にもよるが、もしそんな写真がばらまかれでもしたら――
(俺もひよちゃんも立場が危うい……)
俺は慌てて、玄関を飛び出し、周囲を見回したが、それらしい人影は見つからなかった。
「奏多さん……?」
事態をいまいち把握していないらしいひよちゃんはきょとんとした顔でこちらを見ている。いたずらに不安がらせることはないだろう。
「いや、何か物音がした気がしたんだが、気のせいだったみたいだ」
「そうですか」
彼女はそれであっさりと引き下がった。シャッター音が小さかったために聞こえていなかったのかもしれない。
だが、まずいことになったのは間違いない。
これから一体何が起こるのだろう。先のことを考えると気が重くなる。
(何も起こらなければいいのだが)
だが、俺のそんな願いもむなしく、大変な事件がすぐに俺たちを襲うことになるのだった。
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