第8話「新たなるスタート②」

 彼女の母である静井花が失踪して以来、ひよちゃんは俺の部屋に住んでいる。

 というのも、最初は俺が生活必需品を買い与えて元の部屋に住まわせようとしたのだが――


「部屋を追い出された?」

「はい……どうやら、母は昨日のうちに部屋を引き払っていたみたいで……」


 俺たちの住んでいるアパートは賃貸だ。当然、家主が貸してくれなければ同じ部屋に住み続けることはできない。娘を置いて蒸発するような母親が律儀に家賃を払っているはずはなかった。

 俺が契約を結び直そうと思ったのだが、彼女の部屋には既に新たな借り手がついていたらしい。

 静井ひよはついに家すら失ってしまったのだった。

 そのことが解ったとき、彼女はまた泣いた。さすがにこれは無理からぬ話だろう。

 そういったわけで彼女を放り出すわけにもいかず、彼女と同居生活を続けたまま、今に至るのだった。


「――というわけで、改めて自己紹介。今日から君たちの担任になる建屋奏多だ。これから一年間よろしく頼むぞ」


 俺はそう言って、教室に座る生徒の顔を観察する。ほとんどの生徒の表情は硬い。それはそうだろう。彼らにとっては今日が学校生活の初日であり、今はこれから一年間を左右する担任との初邂逅なのだから。緊張しないと言う方が嘘だ。

 だが、そんな緊張感が漂う教室の中でも少し様子がおかしいものも何人か居る。その代表的な一人が静井ひよだった。


「わあ……奏多さん……本当に先生だあ……」


 サンタクロースに遭遇した子どものような表情でひよちゃんはこちらを見ている。というか、声に出ている。この子は本当に大丈夫なのだろうか。彼女が特待生であると言われても、おそらく誰も信じないだろう。

 学校では必ず「建屋先生」と呼ぶように言い含めておいたのだが……。もう一度、念押しした方が良さそうだ。

 そして、ひよちゃんとは別の意味で異彩を放っている生徒が一人。


「では、最初なんできちんと出欠を取る。呼ばれたら返事をしてくれ。『乾琴子』」

「はい」


 落ち着いた澄んだ声色で返事をした少女。

 出席番号一番「乾琴子」。

 髪は肩にかかる程度の長さで、切りそろえられている。やや釣り目の瞳は、意志の強さを感じさせる。声色の印象も相まって非常に生真面目な女子生徒といった印象を、俺は感じ取った。事前に目を通した中学の内申書には、中学時代、学級委員を務めていたと書いてあったことだし、この人物評はそれほど的外れではないはずだ。

 物怖じしない性格なのだろう。皆が過敏になっている教室の中でも彼女は平然としていた。

 だが――


(なぜか、この子ににらまれているような気がしているんだよな……)


 落ち着いているというだけなら、他にも該当する生徒はいなくはない。だが、この子からはなぜか敵意のようなものを感じるのだ。この子とはつい今し方初めて顔を合わせた関係のはずなのだが……。

 気にはなったが、この子一人に気を取られているわけにはいかない。俺の受け持ちの生徒は、三十人居るのだから。俺はそのあとも順番に名前を呼んでいく。


「佐川香」

「はい」

「佐藤翔太」

「はい」

「静井ひよ」

「はい!」


 ひよちゃんは、待ってましたといった調子で返事をした。大変微笑ましいが、クラスで浮いてしまわないか少し心配である。

 ひよちゃんの出欠を取り終えた後、乾からの圧が強まったような気がしたのは、俺の思い込みだろうか……?


 他の生徒の出欠を確認し終えた後、学級委員の選出をすることにする。

 教師にとって、学級委員の選出はなかなかに頭が痛い仕事だ。自ら手を上げてくれる積極性のある生徒があれば一番だが、そういう生徒が一人も居ないクラスもある。そういうときは、比較的、真面目そうな生徒に頼むことになるのだが、その生徒がしっかりしていないと学級は円滑に回らなくなる。自発的になってくれた学級委員なら多少厳しい言い方をして発破をかけてもいいが、こちらから頼み込んだ場合は、そうもいかない。よって、自発的に学級委員になってくれる生徒が居るかどうかで、学級運営のやりやすさには雲泥の差が生まれるのだ。

 俺は学級委員の仕事を説明し、希望者を募る。

 すると――


「お、乾やってくれるか?」


 すっと、まっすぐ手を伸ばしたのは、乾琴子だった。


「はい、学級委員に立候補します」


 先程と変わらない大人びた落ち着いた声色で、そう宣言した。

 他に候補者はいなかったので、信任投票をもって、彼女が学級委員になることが決定したのだった。


(これで一安心だな)


 確かにそう思ったのだが――

 彼女の俺に対する刺すような冷たい視線は、始終やむことはなかったのだった。

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