第6話「再会は春風と共に⑥」
「婚姻届を無効にするために裁判所に異議申し立てをするしかないみたいだな」
俺はネットを使って、婚姻届に関する知識を集めた。
ストーカーによって勝手に婚姻届を出された女性の一例が見つかった。それによれば一度でも正式に受理された婚姻届は役所で取り消すことはできない。婚姻そのものを無効にするためには、その届が無断で出されたものであることを裁判所で証明しなくてはならないようだ。そして、そのためには弁護士を通す必要がありそうだった。
「これは一日二日で解決するのは難しそうだな……」
届が勝手に出されたものであることを証明するのはそこまで難しいことではないだろう。だが、裁判所を通す必要がある以上、そう簡単にことが運ぶとは思えない。
それに、今の俺たちにはストーカーの事例とは違う大きな問題がのしかかっている。
「誰にも知られず……というのは無理だろうな……」
俺たちは「教師」と「生徒」という間柄だ。そんな二人の間に、婚姻関係がある。これがどれほどまずいことなのかは言うまでもないだろう。これが第三者に漏れれば、大変なことになる。
守秘義務がある以上、弁護士が事実を吹聴するとは思わないが、人の口に戸は立てられないものだ。何かの拍子にこの秘密がばれないとは言い切れない。そうである以上は慎重に動かなくてはならない。
「くっそ! 本当に余計なことをしてくれやがる!」
俺は思わず、悪態をついてしまう。
そんな俺の言葉を聞いたひよちゃんはびくりと身を震わせて叫ぶ。
「ご、ごめんなさい……うちの母のせいで……!」
目に涙を浮かべている彼女を見て、俺は慌てて言う。
「いや、ひよちゃんのせいじゃないんだから、君が謝る必要はないよ」
「は、はい、すいません……」
「むしろ、辛いのは君だろ」
「え?」
「知らない間に俺みたいなおっさんと結婚させられたんだから」
実際、彼女はある意味で俺以上に被害者だ。昔からの知り合いとはいえ、八歳も上の男と知らない内に結婚させられていたのだ。もちろん、最終的には無効の手続きを取り、戸籍上の記録は抹消してもらうとはいえ、十六歳の娘にはその事実は辛いことだろう。
俺が彼女を慰めるためにそう言うと、
「そ、そんなことはないです!」
なぜか彼女はすごい勢いで俺の言葉を否定した。
「さっきも言いましたけど、私は嫌なわけじゃなくて、むしろ、ちょっと嬉しいというか、結構嬉しいというか……本当はかなり嬉しいというか……」
「えっと……?」
この子は一体何を言わんとしているのだろう。
勝手に結婚させられて嬉しい人間なんて居るはずがない。彼女は優しいから俺に気を使ってこんなことを言うのだろう。
「あ、いや、何でもないんです! 気にしないでください!」
彼女は顔を真っ赤にして、両手をぶんぶん振り回した。
そのとき、部屋の時計の鐘が静かに鳴った。もう時刻は零時に達していた。
「もうこんな時間か。今日はもう休んだ方がいい」
彼女が俺の帰宅までの間、家の前で座り込んでいたのだとしたら、それなりの時間になる。きっと疲れているはずだ。それに、彼女はまだ十六歳なのだから、夜更かしはすべきではないだろう。
「はい……でも……」
「俺の部屋で寝ていいから」
「え?」
「君の家、何も残ってなかっただろう?」
先程、改めて彼女の部屋を調べたのだが、残っていたのは制服と部屋着一着だけであとは何も残っていなかった。ひよちゃんへの置き手紙によると、
『お金がなかったから全部売っちゃった♡』
と書かれていたらしい。マジでぶっとばすぞ。
男と逃げるならせめて金のある男と逃げてほしかった。制服を残しておいただけでも、温情と思うべきなのだろうか。
「エアコンも布団もないような部屋で君を寝かせるわけにはいかないから。俺はそっちのリビングで寝るさ」
うちのボロアパートは1LDKである。すなわち、キッチンと狭いリビングダイニングを除けば、たった一部屋しか部屋はない。その部屋の間も薄っぺらいふすまだけで、音は筒抜け。母と二人でこの部屋に住んでいたときは、俺が一室しかない部屋を使い、母はリビングで寝ていた。今にして思えば、よくこんな部屋で親子二人で生活していられたものだと思う。
「でも、いいんですか、奏多さんの部屋を使ってしまって……」
「別にいいさ。ああ、それとも、リビングの方がいいか? 俺の部屋で寝るのは抵抗あるか?」
「い、いえ、そういうことではなくて……」
ひよちゃんは、何かを言いたげにもじもじとしている。しかし、こんな問答をしていたらいつまでも寝られない。
「さあ、早く寝なさい。布団とか着替えは俺のおふくろのものを使っていいから。数日後には入学式だろ。それまでに体調を崩したら目も当てられないぞ」
彼女は俺にとって大事な生徒の一人であり、妹同然の幼馴染でもある。こんなことでそんな彼女の高校生活の滑り出しを台無しにさせるわけにはいかない。
「………………」
しかし、彼女はその場を動こうとはしなかった。そして、少しの間、目を瞑り、何事かを考えるような素振りを見せたかと思うと、意を決したかのような表情で言った。
「一緒のお布団で寝ませんか……?」
「……は?」
俺は彼女の言葉の意味が理解できず、思わず間抜けな声を漏らす。
この娘は何を言っているんだ?
「駄目に決まってるだろ」
俺は彼女の熱に浮かされたような表情を見ながら言う。
「さっき説明したように、俺は君の担任教師になったんだ。男性教師と女子生徒が同じ布団で寝るなんてことが許されると思うか?」
俺は彼女を諭すように言う。
だが、彼女は俺の言葉にゆっくりと首を振る。
そして、俺の言葉を無視して言う。
「一緒のお布団で寝ましょう……」
消え入りそうな声でそう呟いた少女は、潤んだ瞳で俺の方を見ている。彼女の頬は朱に染まっている。
俺は思わず、彼女の空気に呑まれてしまう。
「それは駄目だ……」
そう口にしながらも、思わず想像してしまう。彼女と一つの布団に入るところを。
薄手のワンピースは胸元の膨らみを浮き上がらせ、その裾の下では、たおやかな足がなまめかしく光る。
「でも……」
少女の薄茶色の瞳は紛れもなく、俺を捉えている。その瞳に点る灯は、紛れもない熱情だ。
「俺たちは、あくまで『教師』と『生徒』なんだ」
俺は彼女の熱にほだされぬように毅然とした態度で言う。
だが、彼女はどこか蠱惑的な調子で呟く。
「確かに、私は『生徒』で、奏多さんは『教師』です……でも……それでも……一緒のお布団で寝るのが、駄目なんてことはあるはずがないです……」
丁寧で控えめな言い回しをしながらも、その底流には有無を言わせない何かが確かにあって――
「だって、私たちは『夫婦』……なんですから……」
俺は、そんな彼女をどうしようもなく――
どうしようもなく、愛しいと思う。
——だからこそ、
「駄目だ!」
俺は妙な空気を断ち切るためにきっぱりと言い切る。
「俺はひよちゃんが好きだ」
「ひゃい! そんな、急に――」
「君は俺にとって、誰よりも大切な――」
「はわわわわ――」
「『妹』なんだ!」
「……はい?」
ひよちゃんはきょとんとした表情でこちらを見た。
「俺はひよちゃんは赤ん坊のときから知っている。もしかしたら、君の母親よりも多く面倒を見ていたかもしれない」
「あ……その節はどうも……」
なぜか彼女は律義に頭を下げた。
「だからこそ、俺にとっては君は妹なんだ」
「うーん……」
ひよちゃんは難しい表情して明後日の方角を見て呟く。
「その『
「国語教師として古文の予習をしていることは褒めたいが、現代語における『妹』とは『年下のきょうだい』という意味だ」
「なるほど、そうなんですね……」
ひよちゃんは、なぜかすごく残念そうに肩を落とす。この子は本当にいったい何を言っているんだ?
「だから、俺は『兄』として、人様に誤解されるようなことを君にする気はない。だから、一緒の布団で寝るというのはダメだ」
その後もしばらく彼女は渋り、押し問答が続いた。
その結果――
「同じお家で眠るなんて、本当に子どものときに戻ったみたいです」
結局、俺と彼女は顔を付き合わせて眠ることになった。ただし、部屋は別々。部屋の間の障子を開け放って眠る。これが俺にできる最大の譲歩だった。
だが、それでも彼女はなぜか嬉しそうだ。気持ちは解らないでもない。寝るときに同じ部屋に誰かが居るというのは、修学旅行でもしているみたいで気分が上がるのかもしれない。
かくいう俺もまだ子どもだったとき、彼女と俺の母親と三人で川の字になって、眠ったときのことを思い出す。そんな幼少時の記憶は、俺の気持ちを暖める。
別に同じ家で眠ることぐらいは構わないだろう。俺にとって彼女は妹だ。間違いなんて起こるはずがないんだから。
「早く寝ろよ。君はまだ子供なんだから、遅くまで起きているのはよくない」
「はい!」
弾んだ声で返事がくる。どうやら、彼女はまだまだ眠りそうにない。
(さて、どうしたものだろうか)
明日以降、どうやって生活していくのか。どういう手筈で婚姻を無効にするのか。考えなくてはならないことは山積みだ。
だが、まずはひと眠りして、残りは明日考えよう。
「おやすみ、ひよちゃん」
「はい、おやすみです、奏多さん」
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